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2019/06/10

践祚式とは?

〇5月1日より令和の幕開けとなり、元号については発表より1か月間、さまざまに報道されていましたが、この日には践祚(せんそ)もおこなわれております。御代替わりの諸儀式の概観でご説明したように、践祚は御代替わりの諸儀式のうち、核となるもののひとつです。

 では、践祚とはなんでしょうか。以下ご説明してまいります。


践祚とは何か


「践」はふむ、「祚」は祭祀をおこなうため天子がのぼる階段のことです(もとは「阼」)。「皇位につく祭祀をおこなう階段をふむ」ということですので、「即位」や「登極」とことばの上では同様の意味になります。平安時代につくられた法律の注釈書『令義解』には「天皇の即位、これを践祚と謂(い)ふ。祚は位なり」とあります。

「即位」と「践祚」がこんにちのように、はっきりわけられ恒例となるのは桓武天皇からです。文献にあらわれる最初の例は、文武天皇のご即位の際で、このときは持統天皇より譲位されてから17日後に即位の詔をだされました。


近世までの践祚式


 おおむね奈良時代のあいだは「神祇令」の規定どおり新帝の御前で、天皇の長久を祝い祈る、天つ神の寿詞を中臣氏が奏上し、神璽の鏡・剣を忌部氏が奉じました。つづいて紫宸殿に立ちならぶ群臣が拝賀し、拍手しました。

 平安時代にはいると、天つ神の寿詞の奏上は大嘗祭の翌日、辰日節会(たつのひのせちえ)にうつされました。鏡が賢所に奉安されたのでで、践祚式には剣と玉(璽)などが新帝に奉じられるようになりました。これを剣璽渡御の儀といいます。

 室町時代の一条兼良『代始和抄』には、以下のように剣璽渡御の儀が描かれています。

 新帝のとおり道に、掃部寮の役人がむしろを敷き、最後尾から巻いていく。行列の最初は近衛府の次官ふたりで、御剣と御璽を捧げもち、むしろの上をすすんでいく。そのあとを新帝、ついで関白以下が、つきしたがう。近衛府の次官が階段をのぼって内侍(女官)ふたりに御剣と御璽をわたしたら、内侍はそれぞれ御剣、御璽を奉じて、清涼殿の御寝所に安置する。

 即位礼や大嘗祭は当時の事情によって遅れたり、中絶したりしますが、践祚式はだいたいこのような次第で明治時代までつづきました。


近代の践祚式


 明治時代にはいると各種の法令が整備されました。そのうち皇室典範では「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚し、祖宗の神器を承く」とさだめられています(第10条)。さらに登極令第1条では、

天皇践祚の時は、即ち掌典長をして賢所に祭典を行はしめ、且つ践祚の旨を皇霊殿・神殿に奉告せしむ

 とさだめ、その付式第1編では詳細に式次第をさだめています。それによると践祚式はこまかくみると、以下のみっつにわけられます。

①賢所の儀、皇霊殿・神殿に奉告の儀
②剣璽渡御の儀
③践祚後朝見の儀

 ①では宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で掌典長がまず祝詞を、ついで天皇の御名代として御告文(祭文)を奏上します。御告文は初日のみですが、祝詞は三日間奏上されます。

 ②では賢所の儀と同時刻、儀場に男性皇族と高官が立ちならぶところへ新帝が出御し、内大臣が案(机)の上に奉安した剣、璽、御印(御璽・国璽)をご覧になります。

 つづいて③、男女の皇族と高官があらためて参集しているところへ天皇と皇后が出御し、勅語をくだされ、内閣総理大臣が国民を代表し「奉対」の意思を言上します。


昭和天皇の践祚式


『昭和大礼要録』によると、大正天皇は葉山御用邸で御療養中、12月25日未明に崩御されました。

 午前3時すぎ、宮中三殿において掌典長・九条道実が「践祚式をとりおこない、皇位をつがれる」旨の御告文を奏上。

 ほぼ同時刻に葉山御用邸では、儀場の玉座に昭和天皇がつかれ、男性皇族、高官の立ちならぶなか内大臣・牧野伸顕の先導により、大正天皇の御寝所から侍従の手によって捧持された御剣、御璽が玉座の左右に奉安され、昭和天皇がそれをご覧になりました。

 12月28日午前3時、皇居正殿に約400名が参集し、皇位を継承された旨の勅語を発せられ、内閣総理大臣・若槻礼次郎が奉答文を奏上しました。


平成の践祚式(剣璽等承継の儀)


 平成の御代替わりにおいては、践祚式は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」を承け継ぐ剣璽等承継の儀とされ、新天皇の国事行為としておこなわれました。私じしんは践祚式の呼称であるべきと思いますが、以下、剣璽等承継の儀としてご説明します。

 この儀は昭和64年1月7日午前10時、正殿松の間においておこなわれました。天皇以下男性皇族のほか、三権の長と国務大臣の26名が参列。

 昭和天皇のおそばにおかれていた剣璽を侍従が捧持してきて、天皇の前の白木の案(机)に奉安されました。なお、御剣はむかって右、御璽(勾玉)はむかって左、御璽と国璽は一段低い中央の案上でした。天皇が一礼され、御剣、天皇、御璽(勾玉)の順に入御(退出)されました。列の最後に、御璽と国璽がつづきました。この間、9分ほど。

 おなじころ、宮中三殿では奉告の儀がおこなわれました。先にのべたように、賢所では三日間おこなうこととなっておりますので、神殿と皇霊殿は7日のみ、賢所だけは8日と9日にも奉告の儀がありました。

 なお、9日午前11時には即位後朝見の儀がおこなわれ、三権の長はじめ243名が参列しました。


令和の践祚式(剣璽等承継の儀)


 今次の御代替わりに際しての剣璽等承継の儀は、記憶に新しいところです。報道等でご覧になった方もおられるでしょうから、こまかいところははぶきます。

 平成31年4月30日午前10時、宮中三殿において御拝があり(退位礼当日賢所大前の儀、退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀)、同日午後5時、宮中松の間に現在の上皇上皇后両陛下が出御され、退位礼正殿の儀がおこなわれました。参列は294名。

 その後、皇族をはじめ宮内庁長官以下、元職をふくむ職員や皇宮警察本部職員にごあいさつをされ、御所にもどられて侍従長以下侍従職員にごあいさつをされたのは午後7時15分でした。

 翌令和元年5月1日午前10時30分、宮中松の間において剣璽等承継の儀がおこなわれました。参列者は26名。同時刻には宮中三殿において賢所の儀、皇霊殿・神殿に奉告の儀があり、掌典長による御代拝がありました。

 おおむね平成度とかわりませんが、今回は同日の午前11時10分、宮中松の間へ天皇皇后両陛下が出御され、即位後朝見の儀がおこなわれました。参列者は292名でした。

参考文献 皇室事典編集委員会『皇室事典 制度と歴史』、角川ソフィア文庫、平成31年

2019/06/08

御代替わりの諸儀式の概観

 5月1日の践祚、改元から一か月がすぎました。

 天皇の御代替わりに特別な儀式がおこなわれることはよくしられていても、いろいろあって混乱してきます。そこで御代替わりに際しての諸儀式等について、いろいろ調べてみました。

 数多くある儀式等のうち、その中核になるのは、つぎの四種類です。そのほかの諸儀式等は、以下のいずれかにともなうものと考えられます(リンクは当ブログ内の記事)。

践祚式(せんそしき)
②即位式
③大嘗祭
④改元の儀

 前代の天皇が崩御(亡くなられること)か譲位のすぐあとに、剣璽などをうけつぐ①、新帝が高御座につかれ、即位した旨を内外にしめす②、御代の初めの11月、新帝が新穀を神々に供えられ、ともにお食べになる③が中核となるわけです。

 長い日本史上、つぎの天皇となられる方(ふつう皇太子)がきまっていても、必ずしもすぐに践祚がおこなわれたとはかぎらず、きまっていなければ、よけいに日数がかかります。

 それでも「皇位は一日も空しくすべからず」(『日本書紀』の仁徳天皇の詔など)との考えにのっとり、さかのぼって皇位をつがれたものと、みなされています。

 当然ながら、御代替わりは前帝の崩御か、譲位のときとなります。

 今回は光格天皇以来、約200年ぶりの「譲位」ですが、皇極天皇より孝徳天皇に皇位を譲られたのが、史上初の譲位です。

 譲位の際にはかつて、譲国の儀がおこなわれていました。

 まず譲位予定日の三日前に近江(滋賀県)の逢坂関、美濃(岐阜県)の不破関、伊勢(三重県)の鈴鹿関の三関を警護するため固関使(こげんし)が派遣され、人心の動揺にそなえます。

 つぎに譲位される天皇が内裏より仙洞御所(後院)へと遷られます。

 当日はまず、天皇が紫宸殿より出御(おでましになる)され、皇太子が春宮坊を出て、紫宸殿の所定の御座につかれます。親王を初め文武百官の官人は紫宸殿の南庭にならびます。ついで、宣命使が宣命を読みあげ、譲位された旨をしめされました。

2019/06/07

藤井高尚の家が壊されそうです

〇ことしの1月15日、気になるニュースが報道されました。

 藤井高尚の旧邸がとりこわされるかもしれない、というのです。そこでこの日「藤井高尚旧邸を後世に伝える会」が、旧邸の再調査と文化的価値を見直すよう、岡山市の教育委員会に申し入れました。

 その後、続報がないようでどうなったかは、わかりません。同会が現在の所有者である岡山大学に要望書を手渡したのですが、3月の時点で回答はなかったようです。twitterやFacebookでも同会は広報活動していますが、残念ながら低調といわざるをえないようです。

 同邸は岡山市北区吉備津にあり、昭和39年(1964)、岡山大学に寄贈されました。改修ののち、宿舎として研究活動につかわれてきたとのこと。それがいま、建物が傷んできたので改修しようとしたところ数千万円の予算が必要なことから、大学側では譲渡か、更地にして売却するかを検討していました。

 現在、大学は譲渡の方向でうごいているようですが、買い手が見つかるのか、見つかったとしても旧邸を改修する意志がある相手なのか、見通しは暗いようです。

 藤井高尚は明和元年うまれ、天保11年没(1764 - 1840)。吉備津神社の祠官(宮司・社家頭)の家に生をうけて成年後、跡をついでいますが、なんといっても本居宣長の弟子、国学者だったことで有名です。

 伊勢物語の注釈など、筆のたつ人なのですが、中でも独創的な指摘が見受けられるのは『大祓詞後後釈』です。そもそもこの題名、本居宣長の『大祓詞後釈』を踏まえています(ですので「後」の字が多いのではないのです)。本居宣長は賀茂真淵の『祝詞考』を踏まえ『大祓詞後釈』を書いていますから、賀茂真淵から本居宣長へのつながりを、藤井高尚はじゅうぶん意識していたのではないかと思われます。

 ただ、題名とは似ても似つかず、本居宣長がそうだったように、藤井高尚は師の説にむやみにしたがうことはせず、違うと判断したところは躊躇せずに異見をのべています。

 学問上のこのような態度は本居宣長に顕著で、あとにつづく国学者たちはみな、師の説にとらわれることなく、じぶんの信じる説を訴えました。しかし、研究対象を深く読みこみ、論理的に自説を訴える点では、みな本居宣長にはかないませんでした。

 本居宣長以降の国学者の著作を読んでいると、こんなことがよくあります。師の説とは違う自説をのべる。でも、その理由をみてみると論理が飛躍していたり、事実誤認だったり、前提じたいが誤っていたり……。

 藤井高尚はその点、他の国学者よりはずっと本居宣長の域に近かったと思います。

 その藤井高尚の旧邸、上でのべたように、この後どうなるのかはわかりません。残してほしいとは思いますが、先行き不透明。もうちょっと、藤井高尚が知られていられればと残念でなりません。

2019/06/05

明治以前に北海道に建てられた神社

※長文です。ご注意。

 たまにきかれる「明治時代まで、北海道に神社はなかったんでしょう?」という声。でも、渡島半島、いまの函館や江差周辺にはすでに日本人が相当住みついており、そうなると神社もそれなりにあったのではと思われます。

 では実際、明治以前、いまの北海道にはどれくらい神社が存在していたんでしょうか。CD-ROM『北海道神社名鑑』(國學院大學日本文化研究所)から、創建年代順にあげてみましょう。

【ご注意】
〇正確な年代が不明な神社、例えば保延年間(1135-41)ならば保延元年として順位をつけています。「伝」「再建」「遷宮」「遷座」などの付記してあるものについては、その最初の年代を採用しています。
〇所在地については市町村合併につき、可能なかぎり調べましたが、名称がことなっていることがあるかもしれません。
〇同じ社名(稲荷神社、八幡神社など)でまったく同じ年代の記載がありますが、これはコピーのミスではなく、別な神社です。
〇私の調べにより当然私に文責はありますが、内容についての正確性は保証できませんので、あしからずご了承ください。

 まず元禄期まで、52位までを。

1 船魂神社 (函館市・保延年間 1135-41)
2 亀田八幡宮 (函館市・明徳3、元中9年 1392)
3 八幡神社 (函館市・永享元年以前 1429)
4 太田神社 (久遠郡せたな町大成区・嘉吉元年 1443)
5 函館八幡宮 (函館市・文安2年 1445伝)
6 矢不来天満宮 (北斗市・長禄元年 1457)
7 上ノ国八幡宮 (桧山郡上ノ国町・文明5年 1473)
8 熊野神社 (松前郡松前町・永正9年 1512)
9 三嶋神社 (亀田郡七飯町・天文年間 1532-55)
10 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・弘治元年 1555)
11 川上神社 (函館市・永禄5年 1562)
12 徳山大神宮 (松前郡松前町・天正年間 1573-92遷宮)
12 八幡神社 (函館市・天正年間 1573-92)
13 大中山神社 (亀田郡七飯町・天正4年 1576)※天正3年説あり。
14 愛宕神社 (桧山郡上ノ国町・天正10年 1582)
16 稲荷神社 (函館市・慶長4年 1599)
17 八幡神社 (爾志郡乙部町・慶長6年 1601)
18 鳥山神社 (爾志郡乙部町・慶長11年 1606)
19 根崎神社 (二海郡八雲町・慶長12年 1607)
20 八幡神社 (爾志郡乙部町・慶長20年 1615)
20 北山神社 (二海郡八雲町・慶長20年 1615)
20 八幡神社 (二海郡八雲町・慶長20年 1615)
23 諏訪神社 (爾志郡乙部町・元和3年 1617)
24 八幡神社 (爾志郡乙部町・寛永3年 1626)
25 瀧澤神社 (桧山郡上ノ国町・寛永11年 1634)
26 八幡神社 (函館市・正保元年 1644)
26 姥神大神宮 (桧山郡江差町・正保元年 1644)
28 福島大神宮 (松前郡福島町・慶安2年 1649)
29 湯倉神社 (函館市・承応3年 1654)
30 八幡神社 (松前郡福島町・明暦元年 1655)
31 稲荷神社 (函館市・明暦2年 1656)
32 川濯神社 (函館市・寛文4年 1664)
33 渡海神社 (松前郡松前町・寛文5年 1665)
33 八幡神社 (松前郡福島町・寛文5年 1665)
35 十勝神社 (広尾郡広尾町・寛文6年 1666記録有)
35 白符大神宮 (松前郡福島町・寛文6年 1666)
35 瑞石神社 (浦河郡浦河町・寛文6年 1666)
38 白神神社 (松前郡福島町・寛文7年 1667)
38 月崎神社 (松前郡福島町・寛文7年 1667)
40 八幡神社 (函館市・延宝年間 1673-81)
41 荒神神社 (松前郡松前町・天和元年 1681)
42 山上大神宮 (函館市・天和2年 1682遷座)
42 八幡神社 (函館市・天和2年 1682)
44 泊神社 (桧山郡江差町・貞享元年 1684再建)
45 柏森神社 (桧山郡江差町・貞享2年 1685)
46 荒神神社 (松前郡松前町・元禄元年 1688再建)
47 浅間神社 (松前郡松前町・元禄2年 1689)
48 天満神社 (松前郡松前町・元禄3年 1690)
48 稲荷神社 (小樽市・元禄3年 1690)
48 稲荷神社 (小樽市・元禄3年 1690)
48 小樽稲荷神社 (小樽市・元禄3年 1690)
52 赤神神社 (松前郡松前町・元禄5年 1692再建)

 ここまで道南地方の神社がほとんどで、35位の十勝神社(広尾郡広尾町)、瑞石神社(浦河郡浦河町)、48位の稲荷神社、小樽稲荷神社(すべて小樽市、稲荷神社は同名が二社)だけが例外です。

53 久遠神社 (久遠郡せたな町大成区・宝永元年 1704)
54 厳島神社 (増毛郡増毛町・宝永年間 1704-11)
55 大澤神社 (松前郡松前町・宝永7年 1710)
56 三社神社 (松前郡松前町・正徳2年 1712)
57 稲荷神社 (桧山郡江差町・正徳4年 1714)
58 稲荷神社 (松前郡松前町・享保9年 1724)
59 美国神社 (積丹郡積丹町・享保10年 1725)
60 稲荷神社 (古宇郡泊村・享保15年 1730)
61 稲荷神社 (松前郡松前町・元文5年 1740)
62 狩場神社 (松前郡松前町・延享4年 1747)
63 厳島神社 (函館市・宝暦元年 1751)
64 厳島神社 (古宇郡神恵内村・宝暦2年 1752)
65 稲荷神社 (函館市・宝暦3年 1753)
65 海積神社 (函館市・宝暦3年 1753)
67 川濯神社 (函館市・明和元年 1764)
68 稲荷神社 (積丹郡積丹町・明和8年 1771)
69 稲荷神社 (北斗市・安永元年 1772)
69 神明社 (桧山郡厚沢部町・安永元年 1772再建)
69 少彦名神社 (奥尻郡奥尻町・安永元年 1772-81)
69 住三吉神社 (函館市・安永元年 1772-81再建)
69 瀧廼神社 (桧山郡厚沢部町・安永元年 1772)
74 恵比須神社 (小樽市・安永3年 1774)
75 豊足神社 (小樽市・安永9年 1780)
75 鹿部稲荷神社 (茅部郡鹿部町・安永9年 1780)
75 海神社 (函館市・安永9年 1780)
78 厳島神社 (留萌市・天明元年 1781)
79 厳島神社 (稚内市・天明2年 1782以前)
80 厳島神社 (留萌郡小平町・天明6年 1786)
80 留萌神社 (留萌市・天明6年 1786)
80 苫前神社 (苫前郡苫前町・天明6年 1786)
83 恵比須神社 (増毛郡増毛町・天明8年 1788)
84 塩谷神社 (小樽市・寛政2年 1790)
84 稲荷神社 (小樽市・寛政2年 1790)
84 忍路神社 (小樽市・寛政2年 1790)
87 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・寛政3年 1791)
87 厚岸神社 (厚岸郡厚岸町・寛政3年 1791)
89 山神社 (桧山郡上ノ国町・寛政4年 1792)
90 稲荷神社 (北斗市・寛政6年 1794)
90 丸山神社 (松前郡福島町・寛政6年 1794)
92 山神社 (桧山郡上ノ国町・寛政8年 1796)
92 神山稲荷神社 (函館市・寛政8年 1796)
92 斜里神社 (斜里郡斜里町・寛政8 1796)
95 東照宮 (函館市・寛政11年 1799)

 上記のように、寛政年間までですでに100社ほどになります。元禄までで約50社、寛政まででまた約50社です。ここまで、あいかわらず道南地方での創建が多いですが、日本海沿岸へのひろがりも目につきます。

 今の小樽市内にはここまでで5社が成立(74位恵比須神社、75位豊足神社、84位塩谷神社、稲荷神社、忍路神社。元禄までを含めると8社)、さらに北方の日本海沿岸、留萌地方に4社が生まれました(留萌市内に78位の厳島神社、80位留萌神社、苫前郡苫前町に80位苫前神社、増毛郡増毛町に83位恵比須神社)。また、宗谷岬にほど近い場所に79位厳島神社が創建しています。

 ここまで来ると「北海道の神社はみんな明治以降に建ったんでしょ」というのは、とんでもない偏見であります。といいつつ、私もこんなに多いとは思いませんでしたから、人のことはあまりいえません。

 江戸幕府が倒れるまでは70年ほど、ここからいまの北海道、かつての蝦夷地はロシアによる外圧の状況下、松前藩に任せておけないということで幕府の直轄になります(といっても、各藩に兵士を出すよう命じ、警備させただけのような……)。それから松前藩に返還、また直轄と混乱しますけれど、そんな中でも確実に神社の数が増えていきます。

 つづいて享和元年(西暦ではちょうど19世紀最初の年)から天保末年までの56社をご紹介いたします。

96 浦河神社 (浦河郡浦河町・享和元年 1801)
96 泊稲荷神社 (古宇郡泊村・享和元年 1801)
98 厳島神社 (島牧郡島牧村・享和3年 1803)
98 千歳神社 (千歳市・享和3年 1803)
100 厳島神社 (苫前郡羽幌町・文化元年 1804)
100 厳島神社 (苫前郡羽幌町・文化元年 1804)
100 石倉稲荷神社 (函館市・文化年間 1804-18)
100 厳島神社 (天塩郡天塩町・文化年間 1804-18)
100 厳島神社 (虻田郡洞爺湖町・文化元年 1804)
100 大臼山神社 (伊達市・文化元年 1804-18)
106 三石神社 (日高郡新ひだか町・文化3年 1806)
107 網走神社 (網走市・文化9年 1812)
107 函館水天宮 (函館市・文化9年 1812)
107 八幡神社 (爾志郡乙部町・文化9年 1812)
110 襟裳神社 (幌泉郡えりも町・文化12年 1814)
110 住吉神社 (幌泉郡えりも町 ・文化12年 1814)
110 本別稲荷神社 (茅部郡鹿部町・文化12年 1814)
113 大鳥神社 (寿都郡黒松内町・文化13年 1815)
113 熊碓神社 (小樽市・文化13年 1815)
115 稲荷神社 (寿都郡寿都町・文政年間 1818-30)
115 伊都岐島神社 (寿都郡寿都町・文政元年 1818再建)
115 稲荷神社 (苫前郡初山別村・文政年間 1818-30)
118 厳島神社 (枝幸郡枝幸町・文政2年 1819)
118 稲荷神社 (桧山郡厚沢部町・文政2年 1819)
120 丸山神社 (北斗市・文政3年 1820)
121 比遅里神社 (函館市・文政5年 1822再建)
122 稲荷神社 (寿都郡寿都町・文政6年 1823)
122 稲荷神社 (寿都郡寿都町・文政6年 1823)
124 稲荷神社 (古宇郡神恵内村・文政7年 1824)
124 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・文政7年 1824)
126 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保元年 1830再建)
126 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保元年 1830)
126 稲荷神社 (磯谷郡蘭越町・天保元年 1830再建)
126 渚滑神社 (紋別市・天保元年 1830)
130 澳津神社 (奥尻郡奥尻町・天保2年 1831)
130 川濯神社 (桧山郡上ノ国町・天保2年 1831)
130 岬神社 (稚内市・天保2年 1831)
133 厳島神社 (寿都郡寿都町・天保3年 1832)
133 稲荷神社 (久遠郡せたな町・天保3年 1832)
133 稲荷神社 (久遠郡せたな町・天保3年 1832)
136 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・天保4年 1833)
136 島野神社 (岩内郡岩内町・天保4年 1833)
138 朝里神社 (小樽市・天保5年 1834)
138 稲荷神社 (古宇郡泊村・天保5年 1834)
140 稲荷神社 (日高郡新ひだか町・天保7年 1836)
140 愛宕神社 (桧山郡上ノ国町・天保9年 1838)
140 言代主神社 (久遠郡せたな町北桧山区・天保9 1838)
140 事比羅神社 (久遠郡せたな町・天保9 1838)
144 崎守神社 (室蘭市・天保10年 1839)
145 稲荷神社 (島牧郡島牧村・天保11年 1840)
145 歌島神社 (島牧郡島牧村・天保11年 1840)
147 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保12年 1841)
147 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保12年 1841)
149 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・天保13年 1842)
149 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・天保13年 1842)
149 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・天保13年 1842)
149 潮見ケ岡神社 (小樽市・天保13年 1842)

 道南地方はもとより、日本海沿岸部の各所にどんどん創建されているほかに、オホーツク海側(118位厳島神社・枝幸郡枝幸町、126位渚滑神社・紋別市)や太平洋側(110位襟裳神社と住吉神社、149位稲荷神社の三社・いずれも幌泉郡えりも町)にも、どんどん建っています。それにしても稲荷神社の創建が多い。江戸表でハヤリガミだった時期と比較してみると面白いかもしれません。

 ここまで152社。元禄末年までで約50社、それから寛政末年までの約百年でほぼ50社、さらに天保末年までの約50年で、ほぼ50社が創建されています。

 ここから明治維新までは26年。あと何社、創建されるのでしょうか。

153 蘭島神社 (小樽市・弘化元年 1844)
154 稲荷神社 (久遠郡せたな町大成区・弘化2年 1845)
154 恵比須神社 (古宇郡泊村・弘化2年 1845)
156 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・弘化3年 1846)
156 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・弘化3年 1846)
158 恵比須神社 (古平郡古平町・弘化4年 1847)
159 厚田神社 (石狩市厚田区・嘉永元年 1848)
160 稲荷神社 (久遠郡せたな町大成区・嘉永3年 1850)
160 恵比須神社 (苫小牧市・嘉永3年 1850)
160 渋井神社 (古宇郡泊村・嘉永3年 1850)
163 熊野神社 (寿都郡黒松内町・嘉永6年 1853以前)
164 稲荷神社 (北斗市・安政元年 1854)
164 大山祇神社 (函館市・安政元年 1854)
166 八雲神社 (桧山郡厚沢部町・安政2年 1855)
167 篠路神社 (札幌市・安政3年 1856)
167 八幡神社 (石狩市・安政3年 1856)
167 発寒神社 (札幌市・安政3年 1856)
167 三吉神社 (増毛郡増毛町・安政3年 1856)
171 厳島神社 (函館市・安政4年 1857移転)
171 八幡神社 (石狩市・安政4年 1857)
173 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・安政6年 1859)
173 水天宮 (小樽市・安政6年 1859)
175 稲荷神社 (久遠郡せたな町・万延元年 1860)
175 稲荷神社 (苫前郡苫前町・万延元年 1860)
175 積丹神社 (積丹郡積丹町・万延元年 1860)
178 舎熊神社 (増毛郡増毛町・文久元年1861)
178 白老八幡神社 (白老郡白老町・文久元年 1861)
178 豊川稲荷神社 (函館市・文久元年 1861)
178 氷川神社 (新冠郡新冠町・文久元年 1861)
182 岩内神社 (岩内郡岩内町・文久2年 1862)
183 稲荷神社 (久遠郡せたな町大成区・慶応元年 1865)
183 琴平神社 (古平郡古平町・慶応元年 1865)

 ようやく現在の札幌市に神社があらわれました(167位篠路神社、発寒神社)。道南地方や日本海沿岸部での創建はあいかわらず多いですが、この時期、なぜかオホーツク海沿岸では創建されておらず、太平洋沿岸もわずかです。

 以上、183位の稲荷神社・琴平神社までの184社が明治以前に創建された神社であります。

 参考にしたCD-ROM『北海道神社名鑑』(國學院大學日本文化研究所)の記述には、約600社が掲載されているとあります。ということは概算で、

184÷600=0.30666…

 約31%が江戸時代まで、明治維新以前に創建されたことになります。

 これを多いと見るか少ないと見るかは人によるでしょう。ここでは比較しませんが、たぶん、たとえばおとなりの青森県よりは少ないような気はします。しかし、私自身は思っていたより多い、という感想です。

付記(元号について)
 元としたデータでは西暦のみが表示されていまして、記事にする際、私が元号を併記しました。そこで、改元された年の場合、より新しい元号の方を採っています旨、ご了承ください。

例えば上記、

175 稲荷神社 (久遠郡せたな町・万延元年 1860)
175 稲荷神社 (苫前郡苫前町・万延元年 1860)
175 積丹神社 (積丹郡積丹町・万延元年 1860)

 とあります。

 安政は7年3月18日、改元されて万延元年となっていますけれど、この3社がこの年の3月18日以前に創建されたかどうかまでは、わかりません(単純に月日の記載がない)。ですから、安政7年3月18日以前に建てられたのかもしれないけれど、一括して万延元年としております。

 蛇足ながら、この年の3月3日に桜田門外の変が起きています。小説などで「万延元年3月3日」と書いていることがありますが、それは間違いであります。正しくは、もちろん「安政7年3月3日」であります。

2019/05/31

祭式教室のおもひで

【きょうの記事をまとめると】
▼祭式教室とは、祭式とは何かを説明。
▼私の出た國學院大學の祭式教室のようす(当時)。
▼そこで行われる祭式の授業についても説明。


祭式教室とは

祭式教室は、祭式作法の勉強をするための教室です。

大小どんなお祭りをするときも、基準になる式次第があり、決まった拝礼作法があり、どちらの足から踏み出すか、どちらの膝からついて座るかなどみな決まっています。

それをひっくるめて「祭式作法」といい、神職養成課程の必修科目になっています。大学、養成所、講習会など資格を得る道はいろいろありますが、祭式作法を勉強しないで神職になることは絶対にできません。

お祭りのしかた、各種作法を学ばなかった神主って、いやですよね。

まったく飛行機の操縦を知らないパイロット、メスを握ったことのない外科医のようなものでしょうか。


祭式教室へご案内

そこで今日は、私の卒業した國學院大學の祭式教室へご案内することにいたします。十うん年前の記憶をたどってのご案内なので、不正確なところ、いまは変わっているところがあるかもしれません。

まず祭式教室の扉は重い。防火扉だったんでしょうか。鉄製の扉を開けると、左手前にげた箱、その下にはスノコがあります。ここで靴を脱いでげた箱におさめ、あがります。

つぎに、これも入口から見てやはり左手にある流し場で手を洗い、口をすすぎます。神社参拝時などの手水と同じです。流し場は学校によくある水飲み場とそう変わりません。

さらに奥のつきあたりには教員控室があります。私は入ったことがないので詳細は不明。ちらっと見えたときには、畳がしかれ、テーブルが置かれていました。


教室へ入ると

流し場にむかいあって、つまり入口から見て右手の引き戸をあけると、祭式教室です。

一礼して入らなければなりません。

右手手前には更衣室、右手奥には祭具用の物置があります。床は板張り、まるで学校の体育館のようですが、ステージなどはもちろんありません。

かわりに、神社の本殿のようなものがあります。五段ほどだったと思いますが階段、手すり、欄干、そして扉・・・・・・みな白木でできています。こうした神社の本殿のようなものが、三つならんでおります。

本当は空殿、学生の練習用なのでつまりは神様をおむかえしていないのですが、こちらをご神前としましょう。

ご神前にむかって右側はすべてガラス張り、道路をはさんだむこうには、同じ学校の講義棟が見えます。左側はご神前の脇にやはり祭具庫があり、ふだんあまりつかっていない祭具や、装束などがおさめられています。

同じく左側の壁側には、教員室への出入口。最初に鉄製の扉をあけてはいったとき、つきあたりになる出入口とつながっています。つまり教員室の出入口は二か所。

左の壁面には、初代の祭式の先生である青戸波江先生の書、経歴をしるしたパネル、肖像写真のパネルがあります。うしろの壁面にも書があったんですが、どなたのものだったか・・・・・・有栖川宮幟仁さんだったかもしれません。失礼ながら忘れてしまいました。いつもご神前をむき、こちらの方は背をむけていましたから、あまり記憶にありません。


私の座っていた場所は

さて、三つある本殿の中央、階段の左右には欄干があります。その二つある欄干のうち、むかって右側のものから、まっすぐさがって壁につきあたったあたり。ここが祭式の授業のとき、いつも私が座っていた場所です。右手は、ブラインドがあいていればすぐ外に電柱が見え、左手のつきあたりは、最初にはいってきた教室の出入口です。

誰がどこに座るかは決まっていました。最初の授業で決められ、席替えのようなことはありませんでした。私が受けていた授業では、七列にわかれ、全部で四十人ほどでした。


祭式の授業あれこれ

授業の初めには神拝行事がおこなわれます。出席番号の最初から、順に斎主をつとめます。祝詞奏上の作法によって、声をそろえてみんなで大祓詞を奏上します。

講義内容については、前期は基本作法、つまり立ったり座ったり回転したり並んだり、拝んだりとまあ色々でした。後期にはいってちょっとたったころまでは、お祓いの仕方や本殿の扉の開け方、閉め方、お供えの上げ方、下ろし方などなど。

その上で大祭式、いうなれば、でっかい重要なお祭を御奉仕するとして役割を分担、練習しました。試験はこの大祭式を行っているところを先生がチェックされる、というやり方です。

大は小を兼ねるとはよくいったもので、でっかいお祭りができるなら小さいお祭りもご奉仕できるんですね。いまでも私などがご奉仕したことのない、重要なお祭りももちろんありますが、それでも、学校で教わったことをベースに、どうすればいいのか調べ、人に教わるなどすれば何とかご奉仕できると思います。当然ですが、この世界も基礎がだいじなのです。

私の場合、祭式の授業は好きでしたし、ぜんぶ出席したんですが、当時習っていま無駄だったことは全くありません。

「奉職してから細かいところまで憶えればいいんだ」
「神社によって作法が違う」
「うちの神社は小さいから、こういうことはやんない、憶えなくていいんだ」
同級生のあいだでは、いろいろな声がありました。
奉職後、はたして実際はどうだったか、聞いてみたい気がします。

2019/05/27

御代替わりの諸儀式・日程

 今日は宮内庁ホームページの資料をもとに、御代替わりの諸儀式についてまとめてみました。以下の記載は「月日・諸儀式名・概要・行われる場所」の順です。

5月1日~3日


賢所の儀
賢所に皇位を継承されたことを奉告する儀式(御代拝)/賢所


5月1日


皇霊殿神殿に奉告の儀
皇霊殿神殿に皇位を継承されたことを奉告する儀式(御代拝)/皇霊殿・神殿

5月4日


御即位一般参賀
御即位に際し,一般国民の祝福を皇居で受けられる行事/宮殿東庭

賢所に期日奉告の儀
賢所に天皇が即位礼及び大嘗祭を行う期日を奉告される儀式/賢所

皇霊殿神殿に期日奉告の儀
皇霊殿神殿に天皇が即位礼及び大嘗祭を行う期日を奉告される儀式/皇霊殿・神殿

神宮神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に勅使発遣の儀
神宮並びに神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に即位礼及び大嘗祭を行う期日を奉告し幣物を供えるために勅使を派遣される儀式/宮殿

5月10日


神宮に奉幣の儀
神宮に即位礼及び大嘗祭を行う期日を勅使が奉告し幣物を供える儀式/神宮

神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に奉幣の儀
神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に即位礼及び大嘗祭を行う期日を勅使が奉告し幣物を供える儀式/各山陵

5月13日


斎田点定の儀
悠紀及び主基の両地方(斎田を設ける地方)を定めるための儀式/神殿

別途決定


大嘗宮地鎮祭
大嘗宮を建設する予定地の地鎮祭/皇居東御苑

斎田抜穂の儀の前日


斎田抜穂前一日大祓
斎田抜穂の儀の前日,抜穂使始め関係諸員のお祓いをする行事/別途決定


斎田抜穂の儀
斎田で新穀の収穫を行うための儀式/斎田

別途決定


悠紀主基両地方新穀供納
悠紀主基地方の斎田で収穫された新穀の供納をする行事/皇居

10月22日


即位礼当日賢所大前の儀
即位礼の当日,賢所に天皇が即位礼を行うことを奉告される儀式/賢所

即位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀
即位礼の当日,皇霊殿及び神殿に天皇が即位礼を行うことを奉告される儀式/皇霊殿・神殿

11月8日


神宮に勅使発遣の儀
神宮に大嘗祭を行うことを奉告し幣物を供えるために勅使を派遣される儀式/宮殿

大嘗祭前二日御禊
大嘗祭の二日前,天皇及び皇后のお祓いをする行事/皇居

11月12日


大嘗祭前二日大祓
大嘗祭の二日前,皇族始め関係諸員のお祓いをする行事/皇居

大嘗祭前一日鎮魂の儀
大嘗祭の前日,すべての行事が滞りなく無事に行われるよう天皇始め関係諸員の安泰を記念する儀式/皇居

大嘗祭前一日大嘗宮鎮祭
大嘗祭の当日,大嘗宮の安泰を祈念する行事/皇居東御苑

11月14日


大嘗祭当日神宮に奉幣の儀
大嘗祭の当日,神宮に大嘗祭を行うことを勅使が奉告し幣物を供える儀式(御代拝)/神宮

大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
大嘗祭の当日,賢所に大嘗祭を行うことを奉告し御饌を供える儀式(御代拝)/賢所

大嘗祭当日皇霊殿神殿に奉告の儀
大嘗祭の当日,皇霊殿及び神殿に大嘗祭を行うことを奉告する儀式(御代拝)/皇霊殿・神殿

11月14,15日


大嘗宮の儀(悠紀殿供饌の儀・主基殿供饌の儀)
天皇が即位の後,大嘗宮の悠紀殿及び主基殿において初めて新穀を皇祖及び天神地祇に供えられ,自らも召し上がり,国家・国民のためにその安寧と五穀豊穣などを感謝し,祈念される儀式/皇居東御苑

11月16日


大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭
大嘗祭の翌日,大嘗宮の安寧を感謝する行事/皇居東御苑

11月16,18日


大饗の儀
大嘗宮の儀の後,天皇が参列者に白酒,黒酒及び酒肴を
賜り,ともに召し上がる饗宴/宮殿

別途決定


即位礼及び大嘗祭後神宮に親謁の儀
即位礼及び大嘗祭の後,神宮に天皇が拝礼される儀式/神宮

神宮に親謁の儀の後


即位礼及び大嘗祭後神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に親謁の儀
即位礼及び大嘗祭の後,神武天皇山陵及び昭和天皇以前四代の天皇山陵に天皇が拝礼される儀式/各山陵

京都に行幸の際


茶会(京都)
即位礼及び大嘗祭の後,京都に行幸の祭,古来皇室に御縁故の深い近畿地方の各界の代表等を招いて行われる茶会/京都御所

神宮及び各山陵に親謁の後


即位礼及び大嘗祭後賢所に親謁の儀
即位礼及び大嘗祭の後,賢所に天皇が拝礼される儀式/賢所

即位礼及び大嘗祭後皇霊殿神殿に親謁の儀
即位礼及び大嘗祭の後,皇霊殿及び神殿に天皇が拝礼される儀式/皇霊殿・神殿

即位礼及び大嘗祭後賢所御神楽の儀
即位礼及び大嘗祭の後,賢所に御神楽を奏する儀式/賢所

大嘗宮の撤去後


大嘗祭後大嘗宮地鎮祭
大嘗祭の後,大嘗宮を撤去した跡地の地鎮祭/皇居東御苑

2019/05/20

大嘗祭の本義

 こんにちは。今日も晴れて温かいのですが、風がすごいです。
新帝陛下御即位を奉祝した懸垂幕を、ご社殿の左右にかけていたのですが、大事をとって仕舞いました。今後もこんな強風の日があるかもしれないので、拝殿内に移そうと思います。

本日は折口信夫先生(wikipedia)の「大嘗祭の本義」という論文の内容をご紹介いたします。古代の天皇について民俗学の見地から考察した論文です。大嘗祭を考える上で、こんにちなお重要ですので、今日は『折口信夫全集 第3巻』(中央公論社)をもとに、その内容をご紹介いたします。

-------------------ここからご紹介内容-------------------

大嘗祭とは

大嘗祭は新嘗祭の大規模なもので、「新嘗(にいなめ)」は神にニエを奉るための物忌の期間である、ニヘノイミから生まれた語です。新嘗祭はもともと、天皇が神に命令されて行ったマツリゴトの報告をするための祭りでしたが、そこに天皇の鎮魂、復活祭の要素が加わって、複雑化しました。

さまざまな魂をつける

悠紀・主基の国から米を奉るのは稲魂を、諸国の歌舞が奏上されるのは諸国の国魂を天皇に奉ることを意味します。大嘗宮において天皇が衾(今のふとんのようなもの)に籠られるのは、お身体に天皇霊をつけるためです。天皇となるために、まざまな魂をつけることが必要なのです。

大嘗祭で行われること

大嘗宮で行われる諸儀の前後、天皇は廻立殿にて湯をつかわれます。これを機に大嘗祭のための物忌から解放され、水の霊力を身につけて神格を得て、そこで奉仕する女性と聖婚を行われます。この廻立殿で行われていた復活祭の行事が、時代がくだると大嘗宮で行われるようになったのです。翌日、様々な魂をつけて神格を得られた天皇は、高御座にてノリトをくだされる。そこで地上は天上となり、時間も場所も、人も人の発することばも皆、始原へとに回帰します。

大嘗祭の日本文化への影響

大嘗祭で一夜のうちに行われることを見てみると、収穫報告祭(秋)、鎮魂と復活の祭り(冬)、新年祭(春)の各要素を含んでいます。これらが独立して、季節ごとの祭りになってゆくことで日本文化における四季についての観念が成立したといえます。

-------------------ご紹介内容ここまで-------------------

新帝が践祚され、大嘗祭が行われるとなると神道人の誰でも故実を調べたり、考察を加えたりしたくなります(かくいう小職も同じ)。大嘗祭関連では、折口先生にはただいまご紹介しました論文のほか、「大嘗祭の風俗歌」「大嘗祭の本義竝びに真床襲衾」「御即位式と大嘗祭と」があり、昭和3年に相次いで書かれました。

なかでも「大嘗祭の本義(別稿)」(『新折口信夫全集 第18巻』p.31)は今日ご紹介したものとは別の論文。悠紀殿・主基殿の意義、皇后の役割について、草稿段階なので大胆な推測がなされていて非常に知的好奇心がくすぐられる内容になっています。

2019/05/16

斎田点定の儀3

 本日の北見市相内町は快晴、身体をちょっと動かすと汗ばむくらいの陽気でした。参道にたくさん散らばっていた桜の花びらのピンク色が茶色に変わったので、大掃除したところ、けっこう草が生えていたので、草を抜きつつ掃除、これから秋までのあいだは草との格闘です。

 毎春まずキタコブシ、つづいて桜、ほぼ時期を同じくしてツツジやサツキが咲き、まだ花盛りの木もあります。画像は毎年今頃、御社殿裏手でひっそり咲いている、おそらくエゾノコリンゴ(蝦夷の小林檎)だと思いますが、違うかもしれません。


 隣接する公園ではタンポポが満開。市の保護樹になっているヤチダモの木の上にも青空がひろがっていました。

  さて、きのう一昨日と話題にしてきた斎田点定の儀、きょうでネタ切れなので一段落です。きのうに引き続き、寛延元年(1748)8月25日に行われた際の史料から、式次第の部分をご紹介します。

 ひとつここで、皆さんにお詫びしなければならないことがあります。斎田点定の儀としてご紹介してきましたが、この名称は大正度の大嘗祭以来で、それ以前は国郡卜定の儀と申しました。きょうまでお伝えした記事についても、細かく申しますと国郡卜定の儀です。

 では寛延元年にもどりまして、原文そのままだと何のことやらわかりませんので、史料を現代語にし、順をおって説明いたしましょう。したがって文責は小職にあります。もしかしたら、解釈が誤っているかもしれませんので、あしからずご了承ください。

①亀の甲羅を初め祭具の入った箱を持って、祭員一同、祭場に入ります。箱は今回の報道で映像として写されたものとほぼ同様ではないかと思います。

②合図とともに、まず悠紀の国を占う者が箱を引き寄せ、亀の甲羅を箱から二枚とりだして並べます。

③次に、竹、木、火ばしなどをとりだして置き、それから主基の国を占う者に箱をわたします。

④主基の国を占う者が、同様に亀の甲羅、竹、木、火ばしをとりだします。

⑤中臣祓を奏上します。これは、こんにちの大祓詞とほぼ同文です。

⑥祭文を奏上します。

⑦亀の甲羅、竹、木を手にもち、まじないの言葉を唱えます。

⑧亀の甲羅を置き、ははかを火にくべます。ははかはウワズミザクラのこと。細く裂いた約15センチの皮つきのものをつかいます。

さまし竹を一枚とって、まじないの言葉を唱えます。その場にみな集まり、座ります。甲羅を焼くと油が出ますので、灰や水をかけます。それを払うのにつかうのが、さまし。長さ約24.8センチ、幅約8センチです。

⑩亀の甲羅を火にあぶり始めるときの唱え言葉があります。それを唱えながらまず裏からあぶります。

⑪三種祓を唱えつつ、甲羅を何十回もあぶります。三種祓はネット上でもかんたんに本文を読むことができますので、検索の上ご参照ください。

⑫こうして二枚、あぶり終わったら、甲羅に炭をぬります。

⑬竹に水を少々そそいで、昇神の詞を唱えます。

⑭主基の国担当の者が竹、木、火ばしなどを箱におさめます。ついで亀の甲羅を箱におさめ、悠紀の国担当の者にわたします。

⑮悠紀の国担当の者は、亀の甲羅、計四枚をふたつにわけて紙でつつみます。それから竹、木、火ばしを箱にいれます。

⑯斎主の前に亀の甲羅を置き、結果を見てもらいます。

⑰斎主が悠紀の国担当の者を呼びます。悠紀の国担当の者は亀の甲羅を受け取り、もとの位置にもどってから箱におさめます。

⑱祭員一同退出。

 上記の文中にある唱え詞と祭文は、きのうご紹介したとおり。
 寛延元年(1748)の次第は、明和元年(1764)8月24日、文政元年(1818)4月24日、嘉永元年(1848)4月24日に行われた際も踏襲されました。寛延度は桃園天皇、明和度は後桜町天皇、文政度は仁孝天皇、嘉永度は孝明天皇の大嘗祭のために、この儀が行われました。この間、明和から文政の間には、安永度の御桃園天皇、天明度の光格天皇の大嘗祭がありましたが、この二度に関しては上のような次第であったかは不明です。

 ネット上では、元文か明和期に書かれた 国郡卜定次第 や、それとほぼ同内容ながら、明和の大嘗祭のおりの記録である 禁裏御所御用日記 (218コマ以降)を見ることができます。祭文等はのっていませんが、こちらの方が式次第については詳しいです。

 大嘗会儀式具釈 (7コマ以降)では、元文の大嘗祭のおりの次第について、荷田在満が注釈をくわえており、活字ですので古文書が苦手な方にはおすすめです(ただし古文です)。

 活字でも古文はちょっとという方には、おおまかなことしか書かれていないのですが、御即位大嘗祭大礼講話  がおすすめです。昭和の大嘗祭前に刊行され、明治の国郡卜定の儀については、リンク先の 57 コマ以降、大正の斎田点定の儀については 、同じく93 コマ以降に記述があります。

〈斎田点定の儀については、これにて一段落〉

2019/05/15

斎田点定の儀2

 本日の北見市相内町は雲量が多いのですが、おおむね晴れ、境内は小鳥のさえずりで賑やかです。きのうお伝えしたように、今日も神社裏のグランドではタンポポがいっせいに花開いています。くもりや雨の日は、逆にこれがいっせいにしぼみ、面白いです。


 では本題、斎田点定の儀についてのつづきです。寛延元年(1748)の史料をご紹介します。
 祭場に祭員一同が入って祭具等の準備が済んだら、まず中臣祓(ほぼ現行の大祓詞と同じ)を、つぎに祭文を奏上します(後述)。
 祭文奏上後は亀の甲羅、竹、木を手にして以下を唱えます。

現天神光一万一千五百二十神、鎮地神霊一万一千五百二十神、総じて日本国中、三千余座、この座に降臨す。全く我咎なし。神の教へのごとく、そのこと、善にも悪にも尊神の御計りたらむ。

「さまし竹」を手にとるときには、以下を唱えます。

上一寸(ひときだ)は太元不測神、中一寸、大小諸神、下一寸、一切霊神。

 甲羅を火にあぶり始めるときには、以下を唱えます。

すべて、それがしがなすわざにあらず、善悪神の御計りと申して、神の置く手に任せて申すと申すなり。

 甲羅をあぶっているあいだ、三種祓を唱えつづけますが、これはよく知られていますので略します。
 以上、ご紹介しました唱え詞は道教や陰陽道の影響を受けているようです。
 いまご紹介している寛延元年(1748)の唱え詞や下記の祭文は、明和元年(1764)8月24日、文政元年(1818)4月24日、嘉永元年(1848)4月24日において踏襲されました。なお、寛延度は桃園天皇、明和度は後桜町天皇、文政度は仁孝天皇、嘉永度は孝明天皇の大嘗祭のために、この儀が行われました。
 なおこの間、明和から文政の間には、安永度の後桃園天皇、天明度の光格天皇の大嘗祭がありましたが、この二度に関しては上のような次第であったかは不明です(小職が史料をもっていない、という意味)。
 かんじんの祭文は、以下のとおり。長いので送り仮名はつけませんでした。気になる語句がある方はご遠慮なくコメントいただけると、幸いです。
 下記は祭文の書き下し文ですが、あまり読み通す方はいないと思いますので先に申しますと、占いにつかう用具・祭具については古事記の天の岩屋戸の段(の占いの部分)そのままに、実際に香具山から用材をとっていた事情を踏まえています。
 また、この祭文は延喜式祝詞「遷却祟神」の前半部分と似ています。天孫降臨の伝承では失敗をくりかえし、ついに成功という話の流れになっていますが、それと同様にこの祭文でも、まず白真名鹿が失敗します。ただし「遷却祟神」とは違い、大詔戸命が「では、わたくしが」と進み出て申し上げた、その発言内容だけで終わっています。
 そのほか祭文を読んで感じるのは、神魯岐命と神魯岐命が直接、荒ぶる神を鎮めたり、皇孫への「事よさし」、つまりこの国を平安に治めなさいと委ねられたことが不鮮明な記述であったりすること。この祭文をつくった人は、延喜式祝詞にあるような語句を解釈する能力にとぼしかったのかもしれません。
 ただ上記のように、嘉永の大嘗祭に際してもこの祭文がつかわれたらしいことから、きのうご紹介した祝詞は、江戸時代中期までさかのぼれるものではないことがわかります。そこで、きのうの祝詞は恐らく明治の大嘗祭のために、つくられたものと仮定しておきます。
 なお、末尾におおまかな意味をつけましたが、上記のような誤認そのままには訳していません。祭文本文の逐語訳ではありませんので、ご了承ください。

高天原に神留り坐す皇親・神魯岐、神魯美命、荒ぶる神は掃ひ平けて、石・木・草・葉はその語を断ちて、群神に詔はく、わが皇御孫命は豊葦原の水穂の国を安く平けく知ろし食して、天降し寄さし奉りしとき、いづれの神を皇御孫尊の朝の御食・夕の御食、長の御食・遠の御食と聞し食すに、仕へ奉るべき神を問ひ賜ふときに、天の香具山に住む白真名鹿(しらまなか)、われ仕へ奉らむと、わが肩の骨を内抜きに抜きて、火なし出だして、卜以ちてこれを問ひ給ふときに、すでに火の偽りをいたす。大詔戸命、進みて啓さく、白真名鹿は上つ国の知れど、なんぞ下つ国のことを知らんや。われはよく上つ国・下つ国の天神・地祇を知る。いはんやまた人の憤りをや。わが八十骨を日に乾きさらし、斧を以ちて打ち、天のち別きにち別きて甲の上、甲の尻に真澄の鏡取り作れ、天の刀を以ちて町を掘り、刺し掃へ、天の香具山のふもり木を取りて、火燧りを造りて、天の香火を〓(木へんに造)り出で、天のははかの木を吹き着け、天の香具山の節なき竹を取りて、卜串を折り立て問へ。土を曳かば下つ国の八重までにまさに聞かむ。天を曳かば高天原の八重までにまさに聞かむ。神の方を通し灼かば、衆神の中、天神・地祇まさに聞かむ。まさに青山を枯山になし、枯山青になし、青河を白川になし、白川を青河になさむ。国は退き立つ限り、天雲は壁き立つ限り、青雲は棚曳く限り、白雲は向伏す限り、日は正に縦さまに、日は正に横さまに聞き通さむ。陸の道は馬の蹄の詣るところの限り、海の路は船の艫の泊まるところの限り、人の方を灼かば衆人の心の中の憤りのこと、聞かしてまさに知るべし。かれ、国の広く曳き立つ、高天のごとく隠れなからん。慎みてな怠りそ。

【大意】高天原に神々しく留りなさり、天皇陛下と近しくいらっしゃる男女二柱の御祖神が、荒ぶる神を退けておとなしくさせ、石や木や草葉もことばを発するのを止めさせたとき、諸神に「わが皇孫は下界の国を平安にお治めになるように」とおっしゃって、皇孫に神々をお伴させ、下界のことを委ねようと向かわせた。その際に、皇孫の朝夕、永遠に食べていくことのできるお食事につき、お仕え申すのはどの神がよいだろうと問われたところ、天の香具山に住む白真名鹿が「わたくしがお仕え申しましょう」と、じぶんの肩の骨を内抜きに抜いて、火を起こしてあぶり、占いでその是非をお問いなさろうとしたが、どうしても占うのによい火が起きなかった。そこで大詔戸命が進み出て申し上げるには「白真名鹿は高天原のことは知っているが、下界のことは知らない。わたくしは高天原の天つ神、下界の国つ神をよく知っている。人の気持ちなどもちろんのことだ。わたくしの骨を高天原でするように天日で乾かし、斧で打って分け、甲羅の上下を澄みきった鏡のようにせよ、神聖な刀でマチを掘って刺し掃い、天の香具山でふもり木を取って火を切る用具をつくり、清らかな火を起こし、ははかの木をたきつけにし、節のない竹を折りとって卜串を立てて神意を占いなさい。もし下界のことを占うとても、下界のさらに奥底までこの由聞こえ、天について占うとても、高天原の上の極みにまで、この由聞こえるだろう。神について占うなら、天つ神も国つ神もすべてが聞くだろう。青々とした山を枯れた山にし、枯れた山は青々とした山にし、青々とした川は白々と、白々とした川は青々とした川にするだろう。陸地の続くかぎり、雲が立ち上るかぎり、棚引くかぎり、雲が陸地に覆いかぶさるかぎりの場所までも、縦横に聞くだろう。陸地の道は馬がゆける限りまで、海路は船のへさきがゆけるところまで。人について占うなら、どの人間の心中、どの感情についてもお聞きになり、知らせるだろう。だからこそ下界のことがはっきり占いに示されるのは、高天原でのことのように隠れなきものに相違ない。身をつつしみ、怠慢なことがあってはいけない」と。

2019/05/14

斎田点定の儀

 本日の北見市相内町は快晴、神社裏のグランドでは野球をしている人がいました。タンポポがいっせいに花開いていて、北海道の春らしい風景になりました。画像は社務所裏からで、この桜が例年いちばん咲くのが遅く、最後まで咲いています。
 
 さて、きのう午前「斎田点定の儀」が皇居内の神殿の前庭にて行われました。神殿は宮中三殿のひとつで、八百万の神をお祀りしています。南側から拝すると、中央が賢所、向かって左が皇霊殿、神殿は向かって右になります。この斎田点定の儀では、亀卜をもって「悠紀国」と「主基国」を決定します。おおむね東日本から悠紀国、西日本から主基国を選び、この両国でとれた米などを、今秋の大嘗祭で供します。
 亀卜は亀の甲羅を伸ばしたものをあぶり、その亀裂のぐあいで占うというもの。今回は、昨年秋、東京都小笠原村をつうじてアオウミガメの甲を確保し、都内のべっこう職人に依頼して加工したそうです。縦24センチ、横15センチ、厚さ1.5ミリで、将棋の駒のような形状にしたとのこと。厚さ1.5ミリって、すごいですよね(この亀情報は、以下のサイトを参考にしました FNN PRIME)。
 
 画像はわが家の亀です。これはクサガメ(ゼニガメとも)で、今年満17歳。けっこう成長しましたが、残念ながら亀卜には適さないようです。
 さて、このサイトではテレビで報道された内容そのままに「こんな亀裂がでたから、どこそこの国」と、その判断する方法は非公開だ、といっています。「でも恐らくこうではないか」と専門家の方が仰っている内容も説得力がありました。
 このように占い中心の儀式ですから占いじたいが注目されましたけれど、宮中三殿の神殿前で行われていますし、これも神事であることは、疑いようがありません。実は、宮内庁が隠したいのは神事の次第の方じゃないかと勘繰るのですが、これも非公表でしょう。
 ただ、上記の亀卜のように古い資料がありますから、そこから「現在もほぼこうではないか」と推測することができます。そして小職はその古い資料をなぜか、たまたま持っておりまして、ちょっとだけ公開しようと考えた次第であります。
 明治4年の記録では、ご祭神は太祝詞命と久慈真智命(くしまちのみこと)で、神籬に両神をお招きします。実際に亀の甲羅を火にあぶる前後の次第しかこの記録にはないのですが、卜部が祝詞を奏上。祝詞の内容から、お供えもします。亀の甲羅をとりだしたあとには、身曽貴祓詞を奏上します。「正笏して祓詞(身曽貴祓詞)を読む」とありますので、奉書紙に書かれたものを読んだのではなく、暗誦していたんでしょう。
 このとき卜部が読んだ祝詞を、書き下し文にしてみます。文中「太祝詞命」が「大祝詞命」になっているのは、本文そのままです。

掛け巻くも恐き大祝詞命・久茲真知命の大前に、卜部朝臣良義恐み恐みも白さく、掛け巻くも畏き天皇の御代の始めの大嘗(おおにえ)聞し食さむとして、皇神の大前にして、悠紀・主基の国郡を卜へしめ給ふ。かれ、御酒は甕の上高知り、甕の腹満て並べて、青海原の物は鰭の広物・鰭の狭物、奥つ藻菜・辺つ藻菜、甘菜・辛菜、菓どもを奉り置きて、斎き奉り卜へ仕へ奉らむことを見行はし聞し食して、皇神の大御心に御饌・御酒奉らむ、悠紀・主基の国郡を撰み定め給ひて、この卜事に出で示し給へと白すことの由を、高々に聞し食せと、恐み恐みも白す

【大意】心に思い掛けるのも恐れ多い、太祝詞命、久茲真知命のご神前にて、卜部朝臣良義が恐れながら申し上げますことは、こちらも心に思い掛けることすら恐れ多いのですが、天皇陛下が御代の初めに大嘗を召し上がりますとて、こうして尊い神様のご神前にて、悠紀・主基の国郡を占わせなさることとなりました。そこで、御酒は酒器をいっぱいに満たせて並べ、海の物は鰭の広いものと、狭いもの、沖合でとれる海藻、浜辺でとれる海藻。また甘い野菜、辛い野菜や果物をたてまつりましてお祭り申し上げ、占い申し上げることを、どうか神様たちにはご覧になり、お聞き届けくださいまして、天皇陛下に御饌・御酒を奉るであろう悠紀・主基の国郡を選び定めなさって、こたびの占いに神様たちのお心をお示しくださいませと、このように申し上げますことを、どうかお聞き届けくださいますようにと、恐れながら申し上げます。

 原文では「天皇」「皇神」の前を一字分空ける「闕字」にしています。これは尊崇するものを示す語の上に、他の語を置かないように表記することで敬意を払うという、古式ゆかしい書式。
 本職としてこの祝詞を読んでどう感じるかというと、まず現在の祝詞とそう変わらないこと、つぎに、簡潔ながら要点を押さえた祝詞だなあということです。
 ただ、終わり方がちょっとくどいかなという気はします。「この卜事に出で示し給へと白すことの由を、高々に聞し食せと、恐み恐みも白す」は「この卜事に出で示し給へと、恐み恐みも白す」でよいのではないかと。お願いごとをしている語句ですから、こう遠まわしに申し上げるべきだ、という考え方なのかもしれません。逆に、現代のわれわれ神職は、昔の人から見るとズケズケと遠慮なく、神様にお願いしているのかもしれません。
「聞し食す」を「聞し食して」「聞し食せと」と、二度つかっていること、「掛け巻くも畏き」を二度用いているのは、修辞上の反復法ではありません。これらは単に不用意につかったものではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 この祝詞がいつ制作されたのかはわかりません。このとき初めてつくられたかもしれませんし、以前つくられた祝詞の、奏上者の部分だけ変えて(書き下し文の「卜部朝臣良義」の部分)読んだものかもしれません。ただ、現代の祝詞とそう変わらないわけですから、おおざっぱながら少なくとも江戸時代中期以降、と見てまちがいありません。というのも、寛延元年(1748)の史料では、また別の祝詞(史料内では「祭文」)が記録されているからです。
 ちょっとこの話題、ひとつの記事として長くなりすぎました。日を改めてご紹介します。

2017/05/31

昔の神職資格「学階」

 神社本庁の神職資格は、これを「階位」と総称しています。上から浄階、明階、正階、権正階、直階と五つありますが、戦前の神職資格である「学階(がっかい)」においては、三つだけでした(ただし大正10年以降)。

 今日の階位では、だいぶその意味が薄れているようですが、学階は神職の学識を表示するものでした。順に、

 学正
 司業(1等、2等)

 の三等級で、大正10年より前は学正には5、司業には8つの等級がありました。
 
 授与する機関は皇典講究所。

 検定試験あり。

 学正、司業ともに試験科目は、

 道義
 国史
 国文
 法制
 祭式
 
 の5科目。
 ただし、学正には口述試験が課せられます。

 この検定試験、学正は年一回、皇典講究所本所にて、司業は年二回、同本所および分所にて行われました。

 合格すると学正は奏任待遇、司業は判任待遇の神職として採用されることができます。判任官は官吏の中で最も下ですが、奏任官は高等官の扱いです。
 
 ちょっと前に昔の神主の話をしましたけれど、今日はもう少し詳しく説明します。

 まず、でっかい神社は「官国幣社」と総称されますが、今日は省略。

 小さめの神社の方は「府社」「県社」「郷社」「村社」「無格社」「それ以外の神社」に分かれます。
 
 そうした小さい神社の神主は「社司(しゃし)」「社掌(しゃしょう)」と言います。

 社司であれば、上にあげた小さめの神社すべての管理者になれます。社掌の方は、村社以下であれば神社の管理者になれます。
 
 今、神社の管理者(というより責任者ですが)はたいていの場合、宮司と言いますけれど、昔は宮司がいるのは官国幣社だけでした。

 また、社司と社掌=今でいう宮司としたいところですが、社掌の中には府社・県社や郷社に、社司の監督のもと神職として勤めていた方もいましたので、イコールで結べないのです。

 さて、冒頭に戻りまして、当時の神職資格、学階でいうと、

 学正……でっかい神社に勤められる
 一等司業……社司になれる
 二等司業……社掌になれる

 と、言えます。

2017/05/30

出口延佳

 きょうは出口延佳(でぐち・のぶよし)をご紹介したいと思います。

 出口延佳は慶長20年、もしくは元和元年(1615)に生まれました。ちょうど大坂冬の陣の頃です。

 出口さんは度会(わたらい)家の出身でして、これは伊勢の神宮の外宮神官を代々つとめる家柄です。それで、すでに六歳のときには権禰宜となり、同時に従五位下に叙せられています。

 当時、戦国期の混乱で伊勢の周辺も荒廃していましたし、「伊勢神道」と総称されて盛んだった神道説も、余り省みられない状況でした。そんな中、教学の復興に一生を捧げたのが、この出口延佳です。

 慶安元年(1648)には豊宮崎文庫を創設します。今では○○文庫は小さい本のレーベルになっていますが、この頃の文庫は図書館と学校を兼ねたような施設です。

 事実、出口延佳はこの文庫で神職を養成し、戦乱であっちこっちに行ってしまった古書を自ら探し求め、あるいは弟子に書き写させ、蔵書の充実をはかります。

 こうしてみると教育者なんですね。それで、代表的な著作である『陽復記』や『太神宮神道或問』を読んでも、伊勢神道の考え方が実に分りやすく書かれています。これは一般にも普及して広く読まれました。

 さて、その頃は儒学がはやりの時代。戦国時代には全然知られておらず、加賀百万石の祖、前田利家が最晩年になって「最近孔子の教えというのを知ったが、面白いもんだ」と他の大名に語っているくらいの認知度だったのですが、それから実に、あっという間に広がりました。

 中でも、幕藩体制にあった考え方をする朱子の学説が幕府によって公式に認められます。

 そのような状況ですから、出口延佳の考え方も儒学の影響を受けています。また、「易」にも注目し、神道と易道の一致を説きました。

 亡くなったのは元禄3年(1690)、赤穂浪士の吉良邸討入から十年ほど前です。76歳でした。子供の頃はようやく戦乱の世が終息したばかりだったのが、亡くなった頃にはすでに天下泰平、京大坂を中心とした元禄文化が花開いていました。

2017/05/29

府県社以下神社職任用規則

 戦前の神職、特に私のような立場の神職はどうやって採用されていたのかなと思って調べていたところ、「府県社以下神社職任用規則」が見つかりました。

 これが内務省から発令されたのは明治35年2月18日(内務省第四号)で、以後、昭和2年まで数度、改訂されています。
 
 条文を見てみますと、社司・社掌になれるのは

 ・20歳以上の男子で、社司社掌試験の合格者

 社司・社掌は小さめの神社の神主です。試験があったんですね。

 ・官国弊社神職試験に合格した者
 ・現に官国幣社の神職である者
 ・以前、官国幣社の神職だった者

 官国幣社は、大きめの神社です。今でいうとそこの職員はキャリア組に近いでしょうか。以上、第一条まで。
 
 そして、禁錮以上の刑に処せられたり、自己破産していたり、法律上の後見人が必要だったり、懲戒免官・免職の処分を受けたあと、二年が経過していなければ採用されることはありませんでした(第二条)。
 
 試験については、まず各都道府県(ただし都は昭和15年以降ですね)ごとに試験委員長が一名、委員が五名置かれました。いずれも、北海道庁長官(この頃は知事ではない)や各府県知事に選任されました。
 試験が実施されたら、その採点結果が委員長・委員から長官・知事に報告され、合格であれば長官・知事から合格証書が与えられました(以上第六条まで)。

 試験の期日・場所は官報や広報、新聞その他に載ったようです(第七条)。

 その科目は、

 ・祭式 
 ・倫理 
 ・国文(作文は祝詞公文体) 
 ・国史 
 ・法制(現行神社法令) 
 ・算術

 ちなみにこの問題を見たことありますが、論述ばっかりです。昨今のマークシートタイプの秀才には難しい問題ばかりです。

 問題は、もちろん前述の試験委員が作成するので、都道府県によって問題が違っていたんですね。北海道は簡単だけど、青森は難しい、秋田はまあまあ、なんてこともあったかもしれませんが、憶測ながら、ある程度「この中からこんな問題を出す」なんて全国共通の内規のようなものはあったかもしれません(以上、第九条まで)。

 この規則より更に細かい決まりは、北海道庁長官や府県知事が定める(第十条)、となっていたので、この部分で地方の実情に合わせていたのでしょう。
 
 試験というと何だか難しいんだなと思いますが、試験委員の選考をへて無試験で社司・社掌になる人もいました。どんな人かというとまず、

 ・皇典講究所で学階を得た者 
 ・判任待遇以上の職に在った者で、祝詞作文・祭式を修めた者 
 ・皇典講究所の神職養成部神職教習科を卒業した者

 「皇典講究所」はいわば神主学校です。

「判任」はいわば官吏の待遇を示すもので、正式な職員としては一番下です。

 また、沖縄県では「大夫」「祝部」「権祝部」や「宮童」の職にあった者、そしてその相続人で祭式・国典を修めた者であれば、選考をへて無試験で社司・社掌になることができました。

 沖縄のこのような人たちや、上記の判任待遇以上の人は、各種の講習を受けたんでしょうね。

 また「官国幣社及神部署神職任用令」の第九条、一、二、三、五の各号に該当する者もこれに該当するそうなので、この任用令、調べてみました。

 ・現に伊勢の神宮で宮掌以上の職にある者
 ・五年以上官務に従事し、判任官以上の職にあった者で、祭式・国典を修めた者 
 ・師範学校や中学校、高等女学校の国史または国文科の教員免許を持っていて、祭式を修めた者
 ・神宮皇学館(現皇學館大学)の本科・専科・普通科のいずれかを卒業した者 
 ・中学校、またはそれと同等以上の学校を卒業した者で、祭式を修めた者

 伊勢の神宮の宮掌(くじょう)というと、神職として脂が乗り始めた頃でしょうか。そこから地方の小さめの神社の神主になれる。当然と言えば当然です。

 判任官以上の人については、ほぼ前述の官吏の人と同じですが、最初にあげた方は「判任官待遇以上」でした。正式でなくても「待遇」であればよかったのですが、修了しなければならない科目が、ちょっと違っていますね。

 また、教員免許を持っていれば祭式を修了するだけでよかった、というのは面白いです。官吏の方も同じですが、今はこういうのはありませんので。

 一方で、神宮皇学館も神主学校のひとつですので、こちらの方は当然、祭式や国典などを修了する必要はありません。

 最後の中学校以上の学校を卒業した人、昔の中学校は五年制で今とは違うとはいっても、信じられませんよね。隔世の感があります。昔は教養の価値が今よりずっと高かったから、中学の卒業生が尊重されたということでしょうか(ここまで第十一条)。

 事実上、最後の条文である第十二条は、事務手続きについてです。

 神職に欠員ある場合、まず氏子、総代や崇敬者総代人などの人が、三十日以内に候補者を決め、本人の履歴書と資格証明書(上記の要件を満たしているかの確認のためでしょうね)を、北海道庁長官や府県知事に送り、推薦します。

 ただし、現にどこかの神社に神職として奉職している場合には、すでに提出されているはずですから省略可能です。

 問題なければ辞令が発せられる訳ですが、駄目だこりゃというときには、長官・知事は再度推薦を命じることができます。
 
 第十三・十四条は参照した昭和2年のもので、すでに削除されているので分りません。

 それより以下は附則で、十七条まであります。

 参考までに、全文を掲げます。

第一条 年齢二十年以上ノ男子ニシテ社司社掌試験ニ及第シタル者ニアラサレハ社司社掌ニ補スルコ卜ヲ得ス
 官国弊社神職試験ニ合格シタル者ハ官国幣社神職及神職タリシ者ハ試験ヲ要セス社司社掌ニ補スルコトヲ得

第二条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ社掌ノ試験ヲ受クルコトヲ得ス
 一 禁錮以上ノ刑ニ処セラレタル者
 二 身代限ノ処分ヲ受ケ債務ノ弁償ヲ終ヘサル者及家資分散若ハ破産ノ宣告ヲ受ケ其ノ確定シタルトキヨリ復権ノ決定確定スルニ至ル迄ノ者
 三 禁治産者準禁治産者
 四、懲戒免官及免職ノ処分ヲ受ケタル後二年ヲ経過セサル者

第三条 地方庁ニ社司、社掌試験委員長一名及社司社掌試験委員五名ヲ置キ社司社掌ノ試験ヲ行ハシム

第四条 社司、社掌試験委員長及社司社掌試験委員ハ北海道庁長官府県知事之ヲ選任スヘシ

第五条 社司、社掌試験委員及此規則ニ依リ試験ヲ施行シ試験委員長ヨリ其ノ成績ヲ北海道庁長官府県知事ニ具申スヘシ

第六条 北海道庁長官府県知事ハ前条ノ具申ニ依リ合格卜認ムル者ニ合格証書ヲ付与スヘシ

第七条 試験施行スルトキハ予メ其ノ試験期日及場所等官報公報又ハ新聞紙其ノ他便宜ノ方法ヲ公告スヘシ

第八条 社司、社掌ノ試験科目ハ左ノ如シ
 一 祭式
 二 倫理
 三 国文 作文ハ祝詞体公文休
 四 国史
 五 法制 現行神社法令
 六 算術

第九条 試験問題ハ社司社掌試験委員之ヲ定ム

第十条 此規則施行ニ必要ナル細則ハ北海道庁長官府県知事之ヲ定ム

第十一条 左ニ掲クル者ニ於テ第二条各号二該当セサル者ハ試験ヲ要セス社司社掌試験委員ノ銓衡ヲ経テ社司社掌二補スルコトヲ得
 一 官国幣社及神部署神職任用令第九条一号一一号三号五号ニ掲クル者
 二 皇典講究所ニ於テ内務大臣ノ認可ヲ得テ定メタル規則二依リ学階ヲ附与シタル者
 三 判任待遇以上ノ職ニ在リシ者ニシテ祝詞作文祭式ヲ修メタル者
 四 内務大臣ノ委託ニ依り開設セル皇典講究所神職養成部神職教習科卒業ノ者
 五 沖縄県ニ在リテハ大夫祝部権祝部及宮童ノ職ニ在リシ者又ハ其ノ相続人ニシテ祭式及国典ヲ修ノタル者

第十二条 神社ニ神職ノ闕員アルトキハ氏子総代若ハ崇敬者総代人ハ三十日以内ニ其ノ候補者ノ履歴書及資格証明書ヲ具シ北海道庁長官府県知事二推薦スヘシ但シ現ニ其ノ管内ニ奉職スル者ニ在リテハ履歴書及資格証明書ヲ省クコ卜ヲ得北海道庁長官府県知事ハ候補者其ノ任ニ適セスト認ムルトキハ更ニ候補者ノ推薦ヲ命スヘシ此場合ニ於テハ氏子総代若ハ崇敬者総代前項ノ例ニ依リ之力推薦ヲ為スヘシ

第十三条 削除
第十四条 削除

附則

第十五条 本令ハ明治三十五年二月二十日ヨリ施行ス
第十六条 本令施行前ヨリ現ニ府社県社以下神社ノ神職タル者ハ本令ノ施行ニ依リ神職タルノ資格ヲ失フコトナシ
第十七条 明治二十八年内務省令第十号同年内務省第六五六号ハ本令施行ノ日ヨリ廃止ス

2017/05/26

延喜式祝詞とは

問 このブログでよく延喜式って出て来るけど、それって何なんですか?
答 延喜式の「延喜」は1100年ほど前、平安時代中頃の元号です。今は「平成」だけど、その頃は「延喜」だった。その時代にできた法律です。

問 神社の法律があったんですか?
答 朝廷では当時、神祇官(じんぎかん)というお役所があったくらいですし、色々なお祭りをしていました。また、全国の神社の神様に、幣帛(へいはく)という贈り物をしたり、伊勢の神宮に斎王(いつきのみこ・さいおう)と呼ばれる皇族の女性が遣わされていました。このように、朝廷が色々な面で神道に関っていたので、決まりが必要だったんですね。

問 延喜式は神道関係の法律なんですか?
答 全50巻のうち最初の10巻だけが神道関係です。つまり、他の40巻は神道関係以外、現在の政府やお役所関係の法律です。

問 なぜ「式」ってついてるんですか?
答 「式」は細かいところまで決められた法律という意味で、つまり現代の「施行細則」です。神祇令(じんぎりょう)という決まりがあったんですが、これには大ざっぱなことしか書いていないので、延喜式のような細かい決まりが必要だったんです。

問 その「神祇令」は何で「神祇式」じゃないんですか?
答 「令」はこんにちの行政法で、また別なものです。同じくこんにちの刑法に当たる「律」と合せて、「律令」という言葉を聞いたことはないでしょうか。ちなみに、延喜式のうちの神道関係分、最初の10巻を「神祇式」ということがあります。

問 じゃあ延喜式祝詞って、何ですか?
答 その延喜式の巻八に祝詞がいっぱい書かれていて、それを総称して延喜式祝詞と言います。延喜式にある祝詞、ということですね。これを略して「式祝詞」、また「祝詞式」とも言われます。

問 混同しそうです。
答 細かいところでは言葉の使い方が違うんでしょうが、まあ「式祝詞」も「祝詞式」も同じようなものです。正確に使おうとするのは、学者さんだけじゃないでしょうか。

問 なぜ延喜式祝詞は重視されているのですか?
答 まとまった形のものとしては、最も古い祝詞がいっぱい詰まっているからです。それに、時代が下っても延喜式の祝詞を勉強して祝詞を作る人が多かったんです。今でも、神主になるために勉強しているとき、この祝詞を勉強します。

問 祝詞はいくつあるんですか?
答 27編です。長いものからほんの数行のものまで様々、漢文体で書かれた呪文のようなものもあります。

問 延喜式祝詞の勉強って、どんな感じですか?
答 先生によって多少異なるでしょうが、高校古文の時間に近いと思います。

問 独学で勉強するとしたら、どんな点に注意したらよいですか?
答 最初の祈年祭祝詞が非常に長いものなので、挫折しやすいです。短い祝詞からアトランダムに勉強した方がよさそうです。

問 延喜式祝詞を勉強して、今祝詞を作るのに役立ちますか。
答 立ちます。平安時代における宮廷のお祭りのものだから役に立たないという人がいますけれど、そんなことはありません。そういう人は、ちょっと変えれば現代の祝詞になる、と言った祝詞が役に立つものだと考えているのかもしれませんね。

問 延喜式祝詞には、古い言葉が残っているんですよね。
答 そうです。とはいえ、古い語彙ということでは、奈良時代前後の宣命(せんみょう・天皇のご命令)の方に、より古いものが残っているような気がします。

問 延喜式中のものより古い祝詞はないんですか?
答 祝詞の範囲をどう考えるかにもよるのですが、延喜式より先にできた「弘仁式」「貞観式」の中にも祝詞があります。ただ、それらは他の書物で引用される形でしか残っていませんし、内容も延喜式の祝詞とそう変わりません。

問 今、入手可能な延喜式祝詞はありますか。
答 「延喜式」なら図書館に行く方が早いと思いますが、祝詞だけを読むなら大きめな書店に置いてある、祝詞の本にのっていることがあります。また、国会図書館のデジタルコレクションのページでも、PDFファイルで入手可能です。

2017/05/25

神道大系

 神道大系・続神道大系は、神道関係においては質量ともこれ以上ないほどの大部の刊行物群で、仏教の大蔵経に比すべきものとも言われています。

 パナソニックの故松下幸之助さんの肝煎りで昭和50年に財団法人神道大系編纂会が発足、平成20年、全181巻を刊行してめでたく解散となりました。

 もう少し細かく内容を見て見ますと、以下のようになります。


●神道大系●

【1】首編(4巻)
神道集成・古今神学類編(上中下)

【2】古典編
古事記・日本書紀(上中下)・古語拾遺・新撰姓氏録・風土記・先代旧事本紀・律令・類聚三代格・ 延喜式(上下)・雑纂(海部氏系図・八幡愚童記・新撰亀相記・高橋氏文・天書・神別記)

【3】古典註釈編(8巻)
古事記註釈・日本書紀註釈(上中下)・釈日本紀・祝詞宣命註釈・延喜式神名帳註釈・中臣祓註釈

【4】朝儀祭祀編(5巻)
儀式・内裏式・西宮記・北山抄・江家次第・踐祚大嘗祭

【5】神宮編(5巻)
皇太神宮儀式帳・止由気宮儀式帳・太神宮諸雑事記・ 神宮雑例集・皇代記付年代記・皇太神宮年中行事・小朝熊社神鏡沙汰文・伊勢勅使部類記・公卿勅使記・胡麻鶴醇之・太神宮補任集成(上下)

【6】神社編(52巻)
総記(上中下)、他各国。主要な神社は一社で一巻

【7】論説編(28巻)
真言神道(上下)・天台神道(上下)・伊勢神道 (上中下)・卜部神道(上下)・吉川神道・伯家神道・垂加神道(上下)・雲伝神道・水戸学・陰陽道・修験道・北畠親房(上下)・藤原惺窩・林羅山・熊沢蕃山・増穂残口・復古神道(一~四)・諸家神道(上下)

【8】文学編(5巻)
神道集・中世神道物語・神道和歌・神楽歌・参詣記


●続神道大系●

【1】首編(4巻)
続神道集成(1・2)・神祇提要(1・2)

【2】朝儀祭祀編(16巻)
侍中群要・一代要記(1~3)・歴朝要紀(1~12)

【3】神社編(5巻)
総記(1・2)・東照宮・戸隠(1・2)

【4】論説編(25巻)
習合神道・保科正之(1~5)・山鹿素行・元亨釈書(1~3)・先代旧事本紀大成経(1~4)・林家と国史実録(1・2)・徳川斉昭八州文藻(1・2)・烏伝神道(1~4)・青山延光国史紀事本末(1・2)


●その他(11巻)●

神道大系目録・続神道大系目録・神道大系月報合本(上中下)・神道古典研究会報(上中下)・神道古典研究所紀要合本(上中下)


 ちなみにお値段は、神道大系全120巻が2,356,000円、続神道大系全50巻が899,000円で、一括で購入すれば一割引になります。全部でおよそ2,900,000円くらいでしょうか。

 こうしてみると、全部とまでは言わないまでも、興味をそそられる巻がいっぱいあります。私の場合、今もっとも読んでみたいなと思うのは、神道体系【4】朝儀祭祀編の各巻、もしくは同じく【7】論説編の各巻です。いや、【1】首編の古今神学類編も……と、どれを最初に読むか迷ってしまうところです。その一方で、何書いてあるんじゃ、これは、と全く聞いたことのない題名もあります。

 特に神道関係の古典は、残念ながらじゅうぶん一般に開放されているとは言い難いと思います。もちろん、この神道体系の試みは開放に寄与していますけれど、どちらかというと研究者向けで、さらにまた噛み砕いた注釈が必要でしょう。そう考えると、神道は民俗宗教と目されながらも、けっこう遠いところにあるともいえます。

 さらにまた、120巻全部所有していたとしても、1冊1か月かけて読むとして、読破に10年かかるわけです。そうなると、人生は短いなとも思います。

2017/05/24

平田篤胤の著作

 幕末の国学者・平田篤胤は神道史の上で多大な影響を及ぼしました。その思想が明治維新の精神的なバックボーンになったともいいます。しかし、出版事情の違いはあるにせよ、最近のベストセラー作家ほど書いたものが売れていたわけではないようです。

『平田家文書冊子』の11によると、平田塾刊行の発行部数ベスト10は以下のようになっております(ただし刊行年から明治八年まで)。

『毎朝神拝詞記』13976部
『大祓詞正訓』11433部
『草木撰種録』11191部
『神系小帖』10546部
『霊能真柱』10050部
『童蒙入学門』8161部
『古史成文』7067部
『祝詞正訓』6651部 
『古道大意』6251部
『玉襷』5264部

 現在の出版ベースで考えれば大赤字でしょう。

 現在、平田篤胤の主要著書と言われている『霊能真柱』『古史成文』『玉襷』などより、『毎朝神拝詞記』『大祓詞正訓』が売れていたというのは、ちょっと面白いです。

 お経を読めばお釈迦さんの教えが分る(厳密な言い方ではありませんが)ように、祝詞を読めば神道が分るんじゃないか、それに神棚の前で唱えることもできる、なんていう無言のメッセージなのかもしれません。

 この中で、私の一番のお勧めは『古道大意』です。原版はもちろん全集にも所載でしょうが、ネット上でも国会図書館のデジタルコレクションで読むことができますし、全文を現代語訳しているホームページもあります。

 原文のままでも講義録なので読解に不自由はありませんし、『大意』はエッセンスの意ですから平田篤胤が何を考えていたのかが手早く分る、と現代人向きの著書です(ただし門人が筆録)。

『霊能真柱』は岩波文庫にありますが、内容上古事記を読んでいない人にはツライですし、語釈はあっても現代語訳がありません。したがって中・上級者向けといえます。

『童蒙入学門』もネット上にあります。これも現代語訳はありませんが(知らないだけかもしれない)、子供が平田さんの塾に入門するとしますよね。そこでまずこういう決まりがあるからよく守りなさい、と。すごーく大雑把に言ってしまうと、そんな内容ですから難しくありません。

 最も読まれた『毎朝神拝詞記』は、明治6年版の最後尾に記された養子・銕胤のあとがきによれば、文化8(1811)年脱稿、文化13(1816)年に発行、文政12(1829)年と嘉永3(1850)年に改版されたとのこと。かなりのロングセラーです。

 内容は題名から分るように、毎朝神様を拝む言葉、祝詞を記しております。

 同書の前の方には目次に似たものがありますので、引用してみましょう。

一 皇居を拝む事
二 龍田の風の神を拝む詞
三 太元尊神を拝む詞
四 天つ日の御国を拝む事
五 月夜見の国を拝む詞
六 皇孫の尊を拝む詞
七 神武天皇を拝む詞
八 伊勢の両宮を拝む詞
九 吾妻の三の社を拝む詞
十 出雲の大社を拝む詞
十一 大和の三の社を拝む詞
十二 常陸の両社を拝む詞
十三 伊豆の雲見の社を拝む詞
十四 尾張の熱田の宮を拝む詞
十五 当国の一の宮を拝む詞
十六 当所の鎮守を拝む詞
十七 家の神棚を拝む詞
十八 祓処の神等を拝む詞
十九 塞の神等を拝む詞
二十 思処の神等を拝む詞
廿一 大宮能売の神を拝む詞
廿二 屋船の神を拝む詞
廿三 御年の神等を拝む詞
廿四 竈の神等を拝む詞
廿五 水屋の神等を拝む詞
廿六 厠を守る神を拝む詞
廿七 古学の神等を拝む詞
廿八 先祖の霊屋を拝む詞

「皇居を拝む事」だけ「詞」はなく、めいめいが思いのままにお唱えすること、となっています。実にさまざまで、純粋に神棚にお祭りした神様を拝むのは「十七」しかありません。あとは、そちらを向いて遥拝する(「一」から「十六」)。神棚前の祝詞に付け加えて奏上する(「十八」から「廿七」)、こととなっています。

 現在一般に公刊されている『神拝詞』でも様々な祝詞を載せていますけれど、それを毎朝奏上しろというものではないでしょう。『毎朝神拝詞記』にしても、同じです。

 篤胤は神拝詞の本編のあとで、こんなことを言っています。

抑々神拝は、人々の心々に為す態なれば、必しも斯の如くせよと言ふには非ず。然れば其の詞も、古へ風にまれ、今の風にまれ、其の人の好みに任すべし。

 そもそも神拝は、人々がそれぞれの心でなすことなので、必ずこうしろというのではない。だから詞の中の言葉についても、昔風であれ今風であれ、その人の好みに任せるべきだ。

また公務の励しき人、或は家業のいと鬧しくて、許多の神々を拝み奉るとしては、暇いる事に思はむ人も有りぬべし。

 また、公務あるいは家業が大変忙しくて、こんなに神様を拝み申し上げるのは時間が必要だと思う人もあるに違いない。

さる人は、第一の皇居を拝み奉り、次に第十七なる家の神棚を拝む詞と、第二十八なる先祖の霊屋を拝む詞とを、其の前々に白して拝むべし。

 そういう人は、第一で皇居を拝み申し上げ、それから第十七で神棚を、第二十八で先祖の霊屋(みたまや。仏教でいう仏壇)をその前で拝むとよい。

其は第十七の詞に、伊勢の両宮の大神を始め奉り云々と云へるに、有ゆる神等を拝み奉る心はこもり、第二十八の詞に、遠つ御祖の御霊・代々の祖等云々と云へるに、家にて祭る有ゆる霊神を拝む心を籠めたればなり。猶これに記せる外に、各々某々の氏神、またその職業の神を、かならず拜むべし。

 というのも、第十七の詞で「伊勢の両宮の大神を始め奉り」うんぬんに、あらゆる神々を拝み申し上げる心がこもっているし、第二十八の詞で「遠つ御祖の御霊・代々の祖等」うんぬんといっていることに、家でお祭りするあらゆる霊神を拝む心をこめているからである。また、やはり、ここに記した他に、おのおのの氏神、また自分の職業の神を必ず拝むべきだ。

2017/05/23

玉木正英『祭儀並祝詞』

 北海道大学の北方資料室で、古文書を電子データベース化しておりまして、その中には昔の神道関係の文書ものもあります。

 文書だけではなくカラフトや千島の地図などもあり、これがまあ実に面白いものなんです(ただし、今のところ、検索して出て来ても見ることができないものもあります)。

 最近見つけたのは『祭儀並祝詞』、玉木正英著。

 玉木正英は寛文10年(1671)生まれで元文元年(1736)死去、垂加(すいか)神道を学んで橘家(きっけ)神道(神道の「○○神道」は仏教でいうと○○宗に似ていると思います)を事実上創始、大成した人です。

 このブログでは、たまに国学者の誰それ、なんてあげますけれど、大きな学統は「四大人(しうし)」の流れで、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人をこう総称します。玉木正英はこのうち、生没年とも荷田春満とほぼ同時期です。

『祭儀並祝詞』は、もと菊池重賢収蔵のものでした。菊池家はもともと箱館(函館)八幡宮の社家、つまり代々の神職だったのですが明治の初めに神職の世襲が禁止され、菊池重賢自身は札幌神社(北海道神宮)の宮司に任命されました。その後、これからは教化活動が大事だと考え辞任、宣教使として活躍され、札幌市内に金刀比羅崇敬教会を設立するなど一生を布教一筋に捧げた方です(このあたり、札幌八幡宮のホームページを参考にさせていただきました。興味のある方はご覧ください)。

 この『祭儀並祝詞』、神主としては興味深いことがたくさん書いてあります。

 まず、祭事を行うときに、神様をお祭りしている祠堂(本文に従う)の内部やその前ではなく、別な場所にしめ縄を張って斎場を作り榊を立てます。

 ということはそこに神様をお招きするわけですが、祠堂と斎場の間の道を掃き清めると書いてあって、祠堂からお招きするようなのです。それに加え、通常私どもは榊を立てるときは一本ですが、ここではニ本なのです。でも、残念ながら教学的な見地のことは書いていないので、理由は不明です。

 その斎場の図を見ると、お供えについても書いてあります。

☐☐☐☐☐
☐榊☐榊☐
☐③①②☐
燈☐☐☐燈

 ほぼこんな感じになっていまして、①は膳、②は酒、③は菓、と書いてあります。

 現在は全国的に生の状態でお供えをあげることが多いですよね。これを生饌(せいせん)と言います。調理してあるものは熟饌(じゅくせん)で、実は明治以前はこちらの方が主流だったそうなんです。ということは、このお供えも、恐らく熟饌だったことでしょう。

「略しての様子」ながら①について細かく図にしているのですが、これが残念なことに字が小さくて読み取れず、画像を大きくしてみても、印刷してみてもダメでした。正確なところは北海道大学に行って原版にあたるしかありません。

 読み取れるだけをご紹介すると、

☐☐☐☐☐
☐⑤☐④☐
☐☐③☐☐
☐①☐②☐
☐☐☐☐☐

 こんな風になっておりまして、

 ①は御飯、②は御汁(野菜類)、③は人参、水菜の類、④は全く不明、⑤は(恐らく)香(の物)、青のり、となっていて、我々が通常食べるごはんと言われても違和感が余りありません。

 さらに(上は略式で本式としては)、以下の品目があげられています。

御飯(高く堅く四角にもる)
御汁(なににても)
毛の和物(雉・鶴の類)
毛の荒物(狸・兎または鹿の類、牛羊はこれを忌む)
鰭の広物(しいらの類、鯨鮫はこれを忌む)
鰭の狭物(きす・さよりの類、赤鯛はこれを忌む)
甘菜(人参・水菜の類)
辛菜(すずしろ・からし)
奥津藻菜(昆布・あらめの類)
辺津藻菜(青のり・あまのりの属)
時菓(みかん・こうじ・くり・もも・かきの類)
御酒(白酒黒酒あり)
御茶

 品目の名前(「毛の和物」など)はほぼ『延喜式』祝詞にあるような伝統的なものです。でも狸・兎はよくてなぜ牛や羊はダメ、シイラはよくて鯨や鮫はダメ、何より赤鯛がダメというのがびっくりです。御茶については「古式にはないが先輩が理由あって是を献じることにした」という意味の注記があります。

 なお、上記の品目、カッコ内には若干読み取れない字があったことをお断りいたします。

 学生の頃はもうちょっと読めたはずなんですが(記憶を美化しているかもしれない)、今は勉強してませんし読めなくなりました。でもこういう古文献を読むのは面白いので、今後も続けて行きたいと思っています。

2017/05/22

明治末年の神社合祀

 明治維新後、神道は国教化されて各神社、うはうはだった・・・・・・なんて仰る方がたまにいらっしゃいますが、さにあらず、特に田舎の小さい神社など、なかなか大変だったのであります。

 それに、無理やり神か仏かはっきりせい、神様とするなら、なるたけ記紀にあるご神名にすべし、という、いわゆる「神仏判然令」を批判する人がいますね。でも、そういう人が当時に生きていたとして、頑強に反対できたでしょうか。

「ほうそうか、お上がそういうなら、はっきり決めるとしよう。なに、弁天様はイチキシマヒメノ命の別名か、じゃあそうしよう。皆の衆、それでよろしいな」って、どんなシチュエーションか分りませんが、大多数の人は、深く考えなかったのではないかと思います(もちろん、私が当時その場にいたとしても、たいした変わりなかったことでしょう)。
 何はともあれ、過去を批判する際はまず、いつでもいわば後だしジャンケンしていることを肝に銘じるべきではないでしょうか。

 さて、ときに戦前はうはうはだったはずと目されることもある神社界、明治の末年には、こんな大打撃を受けています。

 明治39年8月10日、当時約19万3千あった神社のうち、村社・無格社が多数に登るので、一村につき一社を目安に統廃合せよ―― との勅令第220号が出されました。そして、神社合祀政策が推進された結果、数年で4万社以上が消えてしまったのです。

 村社・無格社はひと口にいうと小さな神社です。また、表向きは「合祀」ですが、稲荷神社、八幡宮、金刀比羅神社、天満宮を合わせたから「稲八金天神社」とする神社が現れるなど、ずいぶん無謀な話だったようです。

 明治末年の神社合祀政策に反対した人の中に、柳田国男と南方熊楠がおります。いわずと知れた大碩学の二人、その意見を読み比べてみると、同じ反対は反対でもかなりの温度差があって面白いです。

 それで以前、神職養成課程にいたとき、「神道史」の期末レポートに書いたことがあります。ちょっと文章に手を加えたいなとは思いますが、そんな時間もなかなか取れないので、恥ずかしながら以下、そのまま載せる次第であります。

――― 以下本文  ―――

 明治末期から大正初期にかけて推進された神社合祀政策に関しては、南方熊楠と柳田国男の意見を徴するにしくはない。両者とも、もっとも旗幟鮮明に反対の立場をとっているからである。そこで本稿では、この二人の碩学の、神社合祀政策に関する意見を考察してみたい。

 明治三十九年、「府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する件」が勅令で発布されると、全国で合祀が推進されるようになった。その結果、神社数が約二十万社あったのが、大正三年には約十二万社に減ったという。単純に考えれば四割減であるが、地域によってはより強制的な合祀が実行されたようである。

 もっとも過激な合祀が行われたのは、和歌山・三重両県である。両県合わせて一万以上あった府県社以下の神社が、千三百ほどに減少した。つまり、九割近くの神社が合祀されたわけである。

 南方熊楠は『神社合祀に関する意見』を記して、多数の問題点を指摘した。

 まず「村社は一年百二十円以上、無格社は六十円以上の常収ある方法を立てしめ、祭典を全うし、崇敬の実を挙げしむ、とあり」とこの法令の末項にあるのを問題視した。

 そもそも「祭典は従来氏子人民好んでこれを全うし、崇敬も実意のあらん限り尽しおれ」るのだし、第一、「幾年幾十年間にこの方法を確立すべしという明示」がないではないか。 

 このように、南方の目は最初から府県社や郷社などの方に向いている。むろん、内務省もしくは同省神社局の意図は、このような小さな社を統廃合し、できるだけ神饌幣帛料を供進できるような、厳選された神社にしたいというところだったろう。したがって、衝突が起きるのは当然だった。

 また、神社合祀を地方の指導に任せたことも、問題であった。

 合祀の処分は、府県知事の任意とされたが、知事はまた郡長に一任することが多く、功績をあげるために「なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧め」た。その一方で、「金銭は思うままに自由ならず。よって今度は一町村一社の制を厳行して、なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事とな」すようになった。さらには一社に必要な基本財産の額を値上げして、「即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印」させるようになってしまった。

 南方はさらに「あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する」と述べ、怒りをあらわにしている。

 結果としてどのような神社が残されたかというと、「なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり」という状況だった。

 以下、合祀を契機として起こった様々な問題を例示し、後半には意見を箇条書きにまとめている。

 その後半部をまとめてみると、神社合祀は住民の融和を妨げ、慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。土地の治安と利益に大害がある一方、史蹟や古伝、天然記念物が失われるし、景観が損なわれる。結果として地方の衰微につながり、愛国心のもとたるべき愛郷心も失われる。地方官吏は神社合祀で敬神思想を高めたというが、それは政府当局が騙されているにすぎない――ということになろう。

 では、柳田国男はどう述べているのだろうか。

『定本柳田国男集』をひもとくと、まず、当時より三十六、七年たってから、「氏神と氏子」の中で、以下のように述懐しているのが目につく。

 神社の荒廃と司祭者の欠如は悲しむべきことに相違ないが、しかし是は地方の実情、一つ一つの神社の具体的な状態によって知るべきで、基本財産五千円以上などという全国的目標を立てて、存否を決すべきものでない。

 これは、南方の意見とは基本的に変わらないことを示していよう。

 しかし、その少し前、昭和十八年の「神道と民俗学」においては、歴史的に見て、「官府の慫慂を待つことなしに、以前にもくり返し行われてい」たと述べ、「氏子たちの最も強い希望は、我神を大きく力強く荘厳にすること」で、それが「合併の行われなければならなかった理由」としている。

 また、以下のようにも述べている。

 近年の神社合祀は多くの住民を寂しがらせ、結果必ずしもすべて良とは申せませんが、是はもとあった考え方を失っているままだったからで、説くに方法を以てすれば、又は古人が思って居たような心持を抱くことが出来れば、此後も或はなお可能なことかもしれません。

 こうしてみると、同じ反対の立場をとりながらも、両者が訴えていることには相当違いがあることに気づく。

 南方熊楠にしてみれば、合祀そのもの全てに反対だったのだろうし、和歌山県の田辺という地方にいて、その実態を目にした上で発言している。一方、柳田国男は、歴史的な観点から合祀はよくあることとし、「民情から見」て合祀自体には異を唱えていない。ただ、上意下達で政策として合祀を行うことに疑問を投げかけているに過ぎなかった。また、当時、山県有朋に働きかけて何とか合祀政策を変えさせようとしたところからしても、「中央の目」で地方の合祀を見ている印象がある。

 このように、大碩学の両者は、ともに神社合祀に反対しはしたが、相当の温度差があったわけである。学風の違いだけではなく、一方は民間学者、一方は官吏という社会的な立場もあってのことであろう。

 しかしながら、南方熊楠の耳目をひく扇情的な意見も、柳田国男の、歴史的な事情をより深く考慮した穏健な意見もまた、魅力あるものである。

 今日、神社本庁傘下の神社数は約八万という。本稿にあげた神社合祀以前からすると、約六割が減ったわけである。だが、その一方で約二万人の神職が、計算上、一人につき三社の兼務社をもつという現状がある。

 こうしたことを踏まえてみると、明治末期から大正初期の昔とはいえ、この時期の神社合祀について考えるのは、意義のあることではあるまいか。

   参考文献

「南方熊楠全集 第七巻」平凡社
「定本柳田国男集 第十巻」筑摩書房
「定本柳田国男集 第十一巻」筑摩書房
 なお引用部分では、本字・歴史的仮名遣いを、新字・現代仮名遣いに改めている。
 また、神社合祀に関する歴史的な経緯等は「神道辞典」弘文堂に拠った。

2017/05/19

北海道の神社の旧社格

 明治以降、戦前の神社には社格というものがございまして、トップが官幣(かんぺい)大社、ついで国幣(こくへい)大社、以下、官幣中社、国幣中社・・・・・・と続きます。今も神社の入口に○幣○社、なんて彫った石碑があるところもありますね。

 これらの神社には大きなお祭りのときに幣帛がおくられるのですが、官幣社は神祇官(変遷していきます)、国幣社は地方官からおくられるという違いがあります。

 また、このランキングで行くと国幣小社が最後ですが、この下には、特に大中小の別のない別格官幣社があります。功績のあった歴史上の人物をご祭神にしている神社が多いです。今ランキングと言いましたが、実際には、例えば官幣大社と国幣大社とで、日々の業務や人事面での任用のされ方、その他諸々の面で大きな違いがある訳ではなかったようです。

 これらをひっくるめて官社と言います。かつて官社の神職は神葬祭に携われませんでした。国家の宗祀ゆえです。お葬式って、宗教色がかなりはっきり出ますよね。そこが困る訳です。

 じゃあこれら官社は神道じゃないのか、宗教じゃないのか、という問題はその当時から議論されていましたが、ここではあえて深入りしません。難しい問題なので、逃げます。

 さて、官社ばかりが神社ではありません。その下に、総称すると諸社(民社という人もいます)があって、これは府社・県社、郷社、村社、無格社に分かれていました。

 ランキング順もこの通りです。戦中に東京が府から都になったためか都社はなく、北海道だからといって道社があった訳ではありません。

 また、面白いですが無格社は「格がない」と名づけられた「格」なんです。伊勢の神宮も少し似ているんですが、こっちは格などというものを超越している=格付けできない、のであって、全然意味が違います。

 ここで北海道の神社では・・・・・・と考えて調べ出したんですが、挫折しました。CD-ROMの「北海道神社名鑑」から総当りしようとしたんですが、旧社格が書かれていないことが多く(多分殆どは無格社だろうとは思うんですが)、村社の数が余りに多くて時間がかかる。そこで、県社と郷社とをひとまず調べてみました。もし抜けがありましたら申し訳ありません。

 まず官社。札幌神社(現・北海道神宮)が官幣大社、函館八幡宮が国幣中社。この二社のみです。

 では、諸社の数をブロックごとに分けて、見てみましょう。

 北海道はでっかいどうなので以前、道庁の下に支庁がありました。いまは総合振興局もしくは振興局となっています。ここでは以前の支庁ごとにまとめてみます。地理的にどの辺りかは最下部をごらんください。

 なお、村社から郷社、郷社から県社・・・・・・などと社格がアップすることがありますが、最終的な社格で調査しました。

【石狩】県1郷10
【渡島】県2郷5
【桧山】県0郷5
【後志】県2郷12
【空知】県5郷12
【上川】県4郷5
【留萌】県1郷4
【宗谷】県0郷1
【網走】県1郷2
【胆振】県2郷5
【日高】県0郷7
【十勝】県2郷4
【釧路】県1郷1
【根室】県0郷1
【合計】県21郷74

 はっきり分かるのは、札幌周辺が多いこと。石狩・空知・後志で県社が8(全体の約4割)、郷社が34(全体の約5割)。札幌から遠い宗谷や網走、釧路や根室は全体からみてかなり少ないですよね。

 なお、現在は社格というものは存在しません。神社本庁包括下の神社の中には「別表神社」と呼ばれるところがあって、これを一種の社格として捉える方もいるそうですが、規定類を読みますと、何ら社格を意味するものではないと書かれています。

 最後に、郷社はさすがに数が多いので勘弁していただくとして、今回調査してピックアップした県社をすべてあげてみます。

【石狩】三吉神社(札幌)
【渡島】松前神社(松前)、東照宮(函館)
【後志】余市神社(余市)、岩内神社(岩内)
【空知】岩見沢神社(岩見沢)、空知神社(美唄)、滝川神社(滝川)、新十津川神社(新十津川)、深川神社(深川)
【上川】鷹栖神社(鷹栖)、旭川神社(旭川)、上川神社(旭川)、永山神社(旭川)
【留萌】留萌神社(留萌)
【網走】網走神社(網走)
【胆振】室蘭八幡宮(室蘭)、樽前山神社(苫小牧)
【十勝】帯広神社(帯広)、十勝神社(広尾)
【釧路】厳島神社(釧路)



各旧支庁のおおまかな地理的位置
【石狩】は札幌周辺。
【渡島(おしま)】南西部にYを逆にした形の「渡島半島」があります。その大部分。
【桧山(ひやま)】は渡島半島西部。
【後志】は小樽やルスツなどの周辺。
【空知】は石狩の東、内陸部。
【上川】は旭川、富良野など内陸部ですが、中央・かなり南北に長い地域です。
【留萌】石狩の北、日本海に面したこれも細長い地域。
【宗谷】北の果て。稚内や宗谷岬のあたり。
【網走】オホーツク海沿岸の大部分です。
【胆振(いぶり)】室蘭や苫小牧、登別の周辺で、東西に細長い地域です。
【日高】は南部、襟裳岬の辺りです。
【十勝】帯広を中心とした広大な地域です。
【釧路】は十勝の東、阿寒湖や摩周湖、釧路湿原があります。
【根室】は東の果て。北方領土がすぐ東にあります。

2017/05/18

戦前の「学階制度」

 神社本庁の階位は現在、浄・明・正・権正・直の各階です。権正階の「権」は「仮の」または「副」なので置いておくとして、じゃあその他の浄・明・正・直はどこから出てきたかというと、神道で理想とされる心の有様からであり、神に仕える者の心構えからでもあります。

 順番や字の異同などはありますが、天武天皇14年1月21日に改正された爵位のうちに、明位(みょうい)と浄位(じょうい)があって、これは皇子や諸王の位階。一方、臣下の位階には正位(しょうい)と直位(じきい)がありました。その後も例えば続日本紀に「明き浄き直き誠の心」(文武天皇元年8月17日の宣命)、「清き明き正しき直き心」(神亀元年2月4日)などとあります。

 時代は下って明治以降、戦前にはこうした階位はありませんでした。

 明治15年に皇典講究所という機関が設立されると、同年より内務省令により、府県社以下の神社に任用するための条件として、同所を卒業するか、同所または同分所が実施する試験に合格しなければならないと定められました。

 ついで明治19年には学階制度が設けられ、5等級の「学正」と8等級の「司業」が置かれました。しかしこれは、級の数が多いためか、大正10年には「学正」「一等司業」「二等司業」の三つに改変されております。

 明治35年には、同所の学階「学正」を持っていれば無試験で奏任官(※1)待遇に、同じく「司業」保持者は判任官(※2)待遇の神職として任用されることになりました。そして終戦まで、主だった神職養成機関として多数の神主さんを送り出して来た訳です。

 上記の「同所または同分所が実施する試験」に注目してみます。

 まず試験科目は「学正」と「司業」とでほぼ共通。「道義」「歴史」「国文」「法制」「祭式」の五科目。「学正」はこの他に口述試験が課されます。また、「学正」は年一回、皇典講究所にて、「司業」は年二回、同所と同分所とで試験が行われます。

 ちなみにこの間、国会図書館のデジタル文書を見ていますと、この試験の対策問題集が多数ありました。今も昔も試験に臨む人の心理は変わりないようですね。

(※1)(※2)
昔、お役所に勤めていた人のレヴェルのようなものです。大別して上から順に、以下の四つ。戦前のことを調べていると、よく出て来ます。

【親任官】親任式で任命されます。偉い人なので「閣下」と呼ばれます。「親」は「みずから」ですから陛下が自ら任じる訳です。総理大臣や大審院長(今でいう最高裁長官)、神宮祭主、陸海軍大将などなど。

【勅任官】「勅」をもって任ぜられる官吏ということで、この人たちも「閣下」です。なお、広い意味では親任官も含め「勅任官」だそうです。大まかには中央省庁本省の次官や局長、府県知事、陸海軍中将・少将など。

【奏任官】この奏任官までが「高等官」で、3等から9等までありました(1、2等は勅任官)。総理大臣が奏上し陛下がいいよと仰って任命されます。判任官から昇進する人もおり、高等文官試験に合格・採用されたキャリアもいました。軍人さんでは士官に相当します。

【判任官】上記の三つと異なり、陛下の委任を受けた行政官庁によって任命されました。警察官でいうと警部、警部補で巡査部長、巡査は判任官「待遇」とちょっと落ちます。軍人さんでは下士官が相当しました。