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2019/05/28

BOOK REVIEW『社を持たない神々』

▼日本人の原風景というと、田んぼの中に藁ぶき屋根、よく手入れされた里山が背後に控え、春は桜が花咲き鳥がうたい、秋は紅葉が舞い虫が鳴く。そんな「まんが日本昔ばなし」の一こまのような情景が思い浮かぶが、私が生まれ育った土地では米が収穫できず、家の屋根はトタン、桜は五月の連休明けくらいにようやく咲いて、すぐに散る。秋は虫が鳴き始めたと思ったら、あっという間に霜が降り、雪が降り、長く厳しい冬となる。生をうけた頃は、おりしも高度経済成長期が終焉を迎え、公害はなかなか解決できず、若者はつぎつぎに都会へと出てゆく。田舎では政府の政策によって米の収穫が制限され、そのためじりじりと兼業農家が増えていった。そんな時代だった。

▼神崎宣武『社をもたない神々』を手に取ったとき、まさか日本人の原風景がそこにあるとまでは想像しなかったけれど、読後、神社には祀られていない神々に、やはりある懐かしさを覚えた。道端にも、峠にも神がいる。山や滝そのものが神だってこともあり、その山や滝を拝するために生まれた神社もある。家に帰ると、神棚以外の場所のそこここに神がいる。カマドにも便所(断じてトイレではない)にも、床の間にも、天井裏にも。こうした神々を総称して、一般に民俗神という。幼い頃に住んでいた土地には、神々しい山も滝もなかったし、家にはカマドも床の間もなかった。それでも、こうした民俗神について懐かしさを感じるのは、なぜなのだろう。

▼これは、私が神職だからではあるまい。日本の文化の風土に生まれ育った人と、じゅうぶん共有できる感覚だろう。第一章の「歳神と田の神」を読めば、正月を心待ちに待っていた頃を思い起こす。第二章の「原初に神体山あり」では、ありありと富士山の山容を思い浮かべた。第三章「神宿る樹木とその森」を一読すれば、西欧の観念と違い、森がわれわれにとっていつも近しい存在だったこと、古代から連綿と伝わる樹木信仰に思いを馳せることができる。第四章「境を守る『塞の神』」は、実際に目にしたことはないのに塞の神がその場に立ち現われてくるようである。第五章「地神・産神と産土神」は、土地とそこに坐す神との関係についての記述が興味深い。

▼終章は「まじないと流行神」だが、これは実際に読んでのお楽しみとしておこう。最後に念のため申し添えると、各章の初めには「ケーススタディ」として、岡山県北部の「かつてあった」ではなく「現在も生きている」信仰の姿が描かれている。筆者は氏子宅などでは神仏習合したままの次第で、神祭りを行っているという。神職の立場からすると、その次第について、また筆者がご父君からどのような薫陶を受けられたのかも伺えたのは、おおきな収穫であった。神道学者の中には神仏習合の歴史や信仰形態を目の敵にし、悪の根源のようにいう者もいるが、信仰の形態じたいには本来、善も悪もないはずだ。信仰を利用することにつき善と悪が生まれる、とのみ言っておこう。

書誌情報

神崎宣武『社をもたない神々』(角川選書)、平成31年1月、1,700円(税別)