百物語 第八十三夜
ニホヒノフシギ
※怪談です。苦手な方はご注意ください。
コウドウって知ってるか?
香道……カオリのミチ、と書く。
お香をたいて、それを嗅ぐ……ああ、嗅ぐなんてホントはいっちゃいけないんだ。
お香は「聞く」もの。
おれのおばさんが熱心でな。嗅ぐなんていっちゃ怒られるんだ。
その、お香を「聞く」……これが大きく分けてふたつに分かれる。
お香を聞いて「ああ、いいですね」と鑑賞する。つまり、ただ聞くだけだな。
もうひとつは、そのにおいを聞いて、なんのにおいか当てるというもの。
たくものはカオリのキと書いて、香木という。
たまにおばさんがたくのをおれも聞くがな、なんともすばらしいにおいなんだぜ。
鼻ですうーっと吸い込むと、えもいわれぬ……なんともいいがたいにおいが、身体の中へ中へと少しずつ広がってゆく。
日頃のストレスなんてブッ飛んじまって、だんだん気持ちよくなるんだ。
いちど、機会があったらやってみろよ。
薬物じゃないからよ、変なことはないし……って、こんなこというとまたおばさんに叱られるか。
チッ……なんだよ、そんな顔して。
おれがいうことばにゃ、説得力がないって?
ま、信じないでもいいさ。いっぺんお香を聞いてみたら分かるんだから。
おばさんていうのは、オフクロの姉だ。
バアサンも……オフクロの母親の方な、このバアサンもちょっとは齧ったらしい。
どうもおれの母系の方に、代々香道をやってる人がつづいてるようなんだ。
バアサンの母、これはつまり、おれにとってはひいバアサンだな。
ひいバアサンの母、これは高祖母。
母、母の母、母の母の母と……こんがらかってくるが、とにかく女の方に香道やる人が出る。
いや、香道ってのは、べつに女性に限るんじゃない。
男子禁制ってわけじゃないんだ。
よいにおいを聞く、聞いてなんの香木かを当てるっていうのは、あまり男性的とはいえないかもしれないけどな。
おばさんがついているお師匠さんのところへも、けっこう男が通ってるって話だ。
とはいえ、お師匠さんていうのも、おばあちゃんらしいんだけどな……。
それで、つい先日のことだ。
稽古中に、お師匠さんがいったんだ。
珍しい香木を手に入れたから聞いてみましょう、ってな。
ああ、おばさんもそこにいた。
ふつう香木ったら、伽羅、沈香、白檀……。
ま、これが御三家だ。
上物の伽羅なんて、聞いた瞬間にブッ飛びそうになるんだぜ……いやいや、こりゃいかんな。
こんないい方。おばさんに叱られる……伽羅の上物なら、一グラムで軽く五万くらいはする。
沈香や白檀ならうんと安いけれども、週にいちど集まって、においを聞く連中だぜ、もう鼻が慣れてしまってる。
おばさんはな、てっきりこれは伽羅の上物だって思ったそうなんだ。
お師匠さんがその香木とおぼしきものを懐から出して、
「貴重なものだから、心してお聞きなさい」
そう注意して、香炉の中に香木をおいた。
えっ? なんだって?
おいおいおい、かんべんしてくれよ。
線香じゃないんだから、直接火をつけるんじゃないんだ。
いくつか方法があるが、基本はあらかじめ炭をおこしておいて、それを埋めるんだ。
炭っていっても、タドンのことだからな……念のため、いっとくと。
で、その上に銀葉っていうもんを乗せる。こりゃあ、雲母でできてるそうだ。
こんな下準備をしてから、初めてその上に香木を乗っけるんだ。
ああ、香木ってのは……ウッドチップってあるよな? あれくらいの大きさに切ってある。
刻んでもっと細かくしたもんもあるけどな。
さて、お師匠さんがみずから香木を灰の上にのっけた。
なんともいえぬ芳香が、ほんのりと立ちのぼるはずが……。
おばさんには、全然いいにおいじゃなかったんだ。
ああ、むしろ変なにおいだった。
てっきり伽羅の上物だと思ってたんだからな、その落差たるや推して知るべし、さ。
苔がくさったような、古い家のカビやホコリが混じったようなにおいって、いってたっけ。
おばさんが周囲を見ると、みんなうっとりしている……どれもよく知ってる顔だったからな、「ああ、これって本当はいいにおいなんだろう」ってことは分かった。
さすがに、お師匠さんが貴重なものっていうくらいだからな。
うん……おばさんは、じぶんの鼻がどうかしたって思ったんだ。
回りはなんともないんだからな。そう思うのもわけはない。
ただ、香木をたいた香炉がな……まわってくるんだよ。
ふつう香を聞くときは、そうなんだよ。茶道の茶碗のように、香炉が順ぐりにくるんだ。
で、ひとりずつ香を聞く。
どうしよう、と思った。
ひとり目の弟子が聞き始めると、香炉が近づいたからだろう……いっそうひどいにおいに感じられる。
直接聞いたら、吐いてしまうかもしれない。その前に中座するべきだろうか。
いや、そんなことはできない。お師匠さんがさっき、心して聞くよう申し渡したばかりではないか。
そうこう思い悩んでいるうちに、となりの人が香炉を受け取って二度まわし、持ち上げた。
おばさん、絶体絶命なわけだが……どうしたと思う?
あんたなら、くさいにおいがするときって、どうするよ?
ああ……そうさな。それが妥当なとこだろう。
常識的なセンだ。
おばさんも、現にそうした。
香炉がじぶんの膝の前にまわってきたところで、口でおおきく息を吸い込んだ。
それで、息を止めたんだ。
……こうしてなんとかやり過ごして、香炉がお師匠さんとところへと無事もどった。
この日のお稽古が終わってからも、みんな興奮さめやらぬ様子で、ああやっぱり違いますね、分かりますかなんていってた。
おばさんも、そうですね、本当によい香りでしたこと、なんて話を合わせてた。
おばさん、ずいぶん打ち込んでたからなあ、ショックだったけれども、鼻がどうかなったに違いないって。
今晩は早く休んで、まだ変なようなら病院に行かなきゃならない……。
帰り支度をしてたらな、引き上げたお師匠さんがもどってきたんだ。
で、おばさんにちょっと残って、といった。
ああ、やっぱりバレたかあ……なにいわれるんだろうって心配になった。
みんな帰ったあとで、お師匠さんと向かい合って正座。
叱られる覚悟をしていたんだけれども、お師匠さんがこんなことをいったんだ。
変なことを聞くけれども、と前置きして、
「あなたのご家族の中に、サイパンで亡くなった方がいないかしら?」
うん、確かにいるんだ。
昭和十九年かな。サイパンが玉砕したのは。
そのとき、バアサンの妹が亡くなってるんだ。
この人、やっぱり香道をしててさ。おばさんのように、ずいぶん入れ込んでたそうだな。
「ええ、おりますが、それがなにか……」
すると、お師匠さん、
「さっきの香木はね、サイパンに住んでる人から送られてきたものなのよ」
おばさんは、はあ、としかいいようがない。
「その人、浜辺でこの香木を見つけたそうなのね。もちろん、サイパンの……ひょっとしたら、その亡くなられた方が、お持ちになってたものじゃないかしら」
「それはどうでしょう……分かりません」
するとお師匠さんは笑って、
「さっきのあなたの反応を見てれば、すぐ分かるわよ」
そういって、くだんの香木を渡されたそうだ。ああ、全部。全部さ。
香木が見つかった浜辺で、バアサンの妹が死んだとなれば、ツジツマはあうけれども……実際のところ、本当かどうなのかは分からない。
お師匠さんは、サイパンにいたおれのバアサンの妹が、香道を習ってたなんてことは知らなかったようだけれどな。
ああ、おばさんはな……せっかく受け取ったっていうのに、たいたことがない。
仮に親族の手に渡ったとしたんなら、いいにおいがしてもよさそうなもんだけどな、いまだにくさいっていってるんだ。
おれも聞いたことが……いや、香炉でたいたわけじゃないから、ちょっと嗅がせてもらったってとこか。
うん、そんなにすばらしいもんでもないけど、まあまあいいにおいだったよ。
おばさんだけなんだ、くさいっていうのは。
ん?……ああ、もちろん病院に行ったようだぜ。
異状なんて、どこもなかったとさ。
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