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2019/06/11

境内のようす

〇みなさん、こんにちは。

 本日の相内は晴れ、ここ数日晴れたり曇ったりで、あまり日照時間が多くありません。いま神社の近くでは、画像のように麦が青々と生い茂っています。

 道路のすぐ脇まで畑で、こんなふうにたくさん生えているところがあるのです。画像の山と山のあいだには、本沢地区へとつづく道路がはしっています。小さく見える建物は麦作関係の工場です。

 先月末の暑かったころは、夜になるとカエルの合唱がきこえてきたのですが、最近は静かになりました。かわって昼夜をとわず、独特な声でアオバトがないています。参道のほう、アオサギの雛はずいぶん大きくなったようで、こちらも餌をもとめて昼夜とわず鳴いています。

2019/06/09

境内のようす

〇みなさんこんにちは。本日の北見市相内町はくもり、午後になって天候が回復してきました。つい先日は38℃という信じられない高温だったのが、最近は窓をあけていると、ちょっと寒いくらいです。これで平年並みなのかもしれません。
 
 心配されていた雨量の少なさも、ある程度まとまった雨の降る日や、小雨の日もあって農作物への影響はなく、相内の周辺ではかえって生長がはやいくらいとのことです。

 それで、参道にもたくさん草が侵入してきております。ある程度まとまった時間がとれるたびに抜くのですが、気づいたらいつのまにか大量に繁殖しております。これはだいたい、秋風の吹く九月いっぱいまでつづきます。

 おかげさまで絵入り御朱印は、あいかわらずご好評をいただきまして、まことにありがとうございます。いまの時季、この神社境内にいつ生き物を図案にしておりますので、後日見返したときに思い返していただければと思います。

2019/05/25

今年初の真夏日かもしれません

皆さん、こんにちは。

予報では最高気温30℃になりそうとのことでした。確かに暑い一日で、何度かお伝えしたようにエゾハルゼミの蝉しぐれ、まるで本州の夏のようでした。夕食は、今年初の冷やし中華となりそうです。

それでも北海道では日が落ちると気温もさがってくれるので、まだましです。画像、撮ったときには雲ひとつない青空だと思ったのですが、うっすら雲がかかっていますね。すっかり夏空です。

社務所内は鉄筋なので夏はある程度、涼しいのです。数日、暑い日がつづくと熱気がこもるのですが、きょうあたりはまだ、窓を開けない方がかえって涼しくてよいのです。

あすの予想は最高気温36℃。当神社境内で10時から、ミニ盆栽のつどいが行われるので、ちょっと心配です。

2019/05/23

暑い5月

こんにちは。きょうの北見市相内町は晴れ、ただ雲が多く、晩になるとムシムシしてきました。次の日曜日、月曜日は暑い日になりそうだとのこと。

北見市は夏暑く、冬寒いイメージがあり、私じしんは一昨年の連休中、真夏日になって汗をかきつつ祭事を執り行った記憶があります。

そこで、平成の時代、北見市で5月に真夏日を記録したのは何日あったのか、気象庁ホームページで調べてみました。得られたデータは、見落としがなければ以下とおりです。

平成29年(2017) 4日30.3℃ 19日30.4℃
平成28年(2016) 20日32.1℃ 21日32.9℃
平成26年(2014) 29日31.1℃
平成25年(2013) 27日32.4℃ 28日30.4℃
平成16年(2004) 15日30.8℃
平成15年(2003) 30日30.6℃
平成13年(2001) 15日33℃
平成10年(1998) 16日33.7℃
平成8年(1996) 30日33.9℃
平成6年(1994) 26日30.2℃
平成3年(1991) 22日30.2℃

平成31年は4月までですから、総日数は30(年)かける31(日)で、930日。うち14日が真夏日です。「5月に真夏日のあった年」でしたら上記のとおり11年。ほぼ3年に一度です。

気になるのはここ最近、二日以上真夏日を記録した年が増えてきていることです。平成28年と平成25年(2013)は二日連続ですが、おととし、平成29年は月はじめと月末の二度で、珍しいケースかもしれません。

少しずつ暑くなってゆくならよいのですが、急に暑くなったり涼しくなったりするのは身体の方がついてゆかず、たいへんです。気象庁ホームページでデータを収集中、最高気温がヒトケタの日が何日もある……そんな年もけっこうありました。

今年は11日の最高気温が9.3℃でした。ここからほぼ20日後に20℃以上もあがるとは、なかなか予想できません。夜寝るときも毛布をとったり、かけたり、寝間着を夏用にしたり冬用にしたりと、そんなことをくりかえしています。

2019/05/22

きょうの境内の様子

 
本日の北見市相内町は晴れ、空が真っ青です。きのうは雨降り、風も強かったので参道には小枝や葉が落ちていました。

 北海道ではこの時期、蝉が鳴いています。エゾハルゼミという蝉の一種類だけなのですが、声はちょっとヒグラシに似ていて、ヒグラシよりもやや低い声で鳴いています。本州の人には、朝晩まだ寒いくらいの時期に蝉が鳴いているというのは珍しいかもしれません。

 ほか、境内ではシジュウカラがたくさんおり、朝から晩まで、のべつ囀っております。画像の木の上ではアオサギが巣を作り、子育てに奮闘中です。たまに、餌の魚が参道に落ちていることがあります。

2019/05/19

即位礼・大嘗祭関連の祝詞の語句

 こんにちは。本日の北見市相内町、暑いです。きのうは最高気温28度にまでなり、今日も予報では26度。夏日になりそうです。ちらほらお見えの参拝者さんが皆、いつのまにか薄着になっているところにも、季節を感じることができます。

 参道上の木の梢ではアオサギの雛の鳴く声が、いちだんと高まっています。夜目のきく鳥ですので、夜も鳴いています。あまり夜間参拝する方はおられないと思いますが、びっくりされませんように。当神社の参道上で夜鳴いているのは、ほとんどがアオサギです。

【今日の記事、おおざっぱにいうと】
▼即位礼や大嘗祭に関わる祝詞を書くときに使用できる語句をご紹介。
▼昭和の即位礼・大嘗祭関連の祝詞から祭祀の目的、祈願を示す語句をあげる。
▼最後に、上の語句を用いた辞別祝詞の一例をあげた。

このところ祝詞のことばかり書いておりますが、興味の方向が祝詞に向かうのでしょうがありません。今日は即位礼や大嘗祭について祝詞で言及するときにどんな語句があるのかを、きのうの記事でご紹介しました昭和度の祝詞の中から、ご紹介します。

目的の語句

祭祀の目的を示す部分をまずあげます。文中の日付は、今次即位礼と大嘗祭の月日に改めてあります。また、【  】内は即位礼と大嘗祭のどちらに言及しているのか、またその一連の語句がいつ使用できるのかを示します。

 下記でいつでも使用可という言い方はしていますが即位礼、または大嘗祭当日は、今日の生日の足日に今日の生日の足日の朝日の豊栄昇になどが穏当ではないかと思います。各語句の( )内の数字は、この記事の末尾に示した祝詞につけた番号と一致しています。

【即位礼・大嘗祭、いつでも使用可】
今年の十月二十二日を良月の良日と撰び定めて、皇御孫命の天つ日嗣、高御座に即(つ)き給ふ大御典(おほみのり)を行ひ給ひ、十一月十四日を以ちて、大嘗祭を行ひ給ふによりて(①)

【大嘗祭、いつでも使用可】
天つ神の御子の随に高天原に事始めて、遠皇祖の御代・御代、天皇御子の生れ坐さむ弥継継に、天下知ろし食し来る次と、今年の十一月十四日を以ちて大嘗祭を行はせ給はむとす。かれ……(②)

【即位礼、いつでも使用可】
十月二十二日、神随も遠皇祖の御代・御代、弥継継に知ろし食し来る次第と、天つ日嗣、高御座に坐して、食国天の下知ろし食す大御典(おほみのり)を行ひ給ふがゆゑに(③)

【大嘗祭当日】
高天原に事始め給ひて、皇御孫命は豊葦原の瑞穂の国を安国と平けく知ろし食して、天つ御饌の長御饌の遠御饌と、万千秋の長五百秋に斎庭の瑞穂を聞し食せと事依さし奉り給ひし随に、食国天の下知ろし食す大御代の始の大御典(おほみのり)と、今日の生日の足日に天皇命の大嘗聞し食すに依りて(④)
※傍線部を今年十一月十四日などに換えれば、大嘗祭当日でなくても可能

【即位礼・大嘗祭とも日にちに言及、いつでも使用可】
天皇命は天つ神の御子随らも高天原に事始め給ひて、遠皇祖の御代・御代、天皇御子の生れ坐さむ弥継継に天の下知ろし食し来る次第と、十月二十二日の日に天つ日嗣、高御座に即(つ)かせ給ふ大御典(おほみのり)を行ひ給ひ、十一月十四日の日に大嘗祭を行ひ給へるに依りて(⑤)

【大嘗祭当日】
食国天の下知ろし食す大御代の始の大御典(おほみのり)と、今日の生日の足日に、天つ御饌の長御饌の遠御饌と、天皇命の大嘗聞し食すに依りて(⑥)
※傍線部を今年十一月十四日などに換えれば、大嘗祭当日でなくても可能

祈願の語句

つぎに、祈願の語句をあげてみます。【 】内は祈願の語句のおおまかな内容。この中から適宜、取捨選択して「~給ひ、~給ひ、~給へと恐み恐みも白す」とすれば、まず失敗することはありません。ただし取捨選択するとはいえ、【大御代の安寧や繁栄、皇位安泰】の中から必ずひとつ、語句を選ぶことになります。

【大御代の安寧や繁栄、皇位安泰】
・天皇の大御代を手長の御世の厳し御世に護り幸はへ給ひ(①)

・天皇の大御代を茂し御代の足らし御代に護り幸はへ給ひ(②)

・天地日月と共に遠く長く、万代に大坐し坐さしめ給ひ(③)

・天皇命の大御代を厳し御代の足らし御代に天地日月の共、無窮(とこしへ・とこしなへ)に立ち栄えしめ給ひ(④)

・皇大御神の見霽し坐す四方の国は、天の壁き立つ極み、国の退き立つ限り、青雲の靄(たなび)く極み、白雲の墜居(おりゐ)向伏す限り、青海原は舟の艫(へ)の至り留まる極み、陸路は馬の爪の至り留まる限り、狭き国は広く、峻しき国は平けく、遠き国は八十綱打ち懸けて引き寄することのごとく依さし奉り給ひ、幸はへ奉り給ひ(⑤)

・天皇命の大御代を手長の大御代と、ゆつ磐村のごとく立ち栄えしめ給ひ(⑤)

・天皇命の大御代を堅磐に常磐に斎ひ奉り、厳し御代に幸はへ奉り給ひ(⑥)

・豊明(とよのあかり)に明(あか)り坐さむ天皇命の大御代を、万千秋の長五百秋に聞し食さしめ給ひ(⑦)

【守護・神助・繁栄】
・親王等・諸王等を始めて、食国天の下の国民に至るまで、長く平けく護り恵み幸はへ給ひ(③)

・親王等・諸王等を始めて、天の下の国民に至るまで、撫で給ひ、恵み給ひ(⑥)

・天皇が大朝廷を始めて、天の下の国民に至るまで、弥高に弥広に五十橿八桑枝の如く立ち栄えしめ給ひ(⑦)

【奉仕】
・天皇が大朝廷に五十橿八桑枝のごとく立ち栄え、仕へ奉らしめ給ひ(③)

【四海の平穏】
・天の下、四方の国安く穏ひにあらしめ給ひ(①)

【各祭儀等の無事斎行】
・大御礼(おおみゐやわざ)障ることなく、漏るることなく、遂げ行はしめ給ひ(①)

定め坐しし日月に大御礼(おほみゐやわざ)を安く穏ひに遂げ行はしめ給ひ(②)
※即位礼や大嘗祭当日の場合、不可。当日ならば傍線部をとる。

辞別祝詞の例

いまご紹介した目的・祈願の語句から、一例として辞別祝詞をつくってみます。実作の際に調整、加除されることを踏まえ、ただつなげたものを示すだけにとどめます。

辞別きて白さく、【目的】今年の十月二十二日を良月の良日と撰び定めて、皇御孫命の天つ日嗣、高御座に即(つ)き給ふ大御典(おほみのり)を行ひ給ひ、十一月十四日を以ちて、大嘗祭を行ひ給ふによりて、【祈願】天皇の大御代を手長の御世の厳し御世に護り幸はへ給へと、恐み恐みも白す

辞別きて白さく、【目的】天皇命は天つ神の御子随らも高天原に事始め給ひて、遠皇祖の御代・御代、天皇御子の生れ坐さむ弥継継に天の下知ろし食し来る次第と、十月二十二日の日に天つ日嗣、高御座に即(つ)かせ給ふ大御典(おほみのり)を行ひ給ひ、十一月十四日の日に大嘗祭を行ひ給へるに依りて、【祈願1】天皇の大御代を茂し御代の足らし御代に護り幸はへ給ひ、【祈願2】天皇が大朝廷を始めて、天の下の国民に至るまで、弥高に弥広に五十橿八桑枝の如く立ち栄えしめ給へと、恐み恐みも白す

参考にした祝詞 ※リンク先は当ブログ内の記事です

大嘗祭期日決定につき皇大神宮・豊受大神宮大御饌供進祝詞
大嘗祭期日決定につき皇大神宮・豊受大神宮奉幣祝詞
即位礼当日皇大神宮・豊受大神宮祝詞
大嘗祭当日皇大神宮・豊受大神宮大御饌供進祝詞
神宮親謁の儀・皇大神宮大御饌供進祝詞
大嘗祭当日宮司祝詞
大嘗祭当日幣帛供進使祝詞

2019/05/18

昭和の即位礼・大嘗祭の際に行われたお祭りの祝詞

こんにちは。きょうも北見市相内町は晴れていますが風があります。気温があがり、夏日を記録しそうですが参道初め木蔭になっているところは涼しいです。
 画像、境内社の相馬神社あたりも同様なのですが、木蔭のために春は雪がなかなかとけず、夏・秋は雨も乾かずで残念なことに近年、ご社殿がかなり傷んできています。

【今日の記事・おおまかにいうと】
▲おもに昭和の即位礼・大嘗祭の際に行われたお祭りの祝詞をご紹介。
▲ネット上で閲覧できる過去の官報、書籍のリンクを紹介。 
▲当ブログには書き下し文があるので、そのリンクもついでに紹介。

 今年は全国各地と同様、当神社のある北海道神社庁網走支部でも、総代会にて新帝陛下御即位の奉祝祭を斎行いたします。その際に斎主をつとめられる方ときのう電話で祝詞について話したのですが、御代替わり時にさまざま行われるお祭りの祝詞は意外と少なく、ちょっと困る。そこで今日は、同じような事情で困っている方のために、ネットで閲覧できる祝詞をご紹介しようと考えたしだいであります。

官報などネット上で閲覧できる祝詞

国立国会図書館デジタルコレクションでは、戦後まもなくのころまでの官報を読むことができます。探しますと、昭和の即位礼・大嘗祭の際に伊勢の神宮初め、神社で奏上する祝詞が見つかります。以下ご紹介しますと、

昭和3年1月16日付官報(内務省令第1号) には、即位礼と大嘗祭の期日が決まったため伊勢の神宮にて奉幣の儀が行われたときの祝詞がのっています(リンク先の2コマ目。内宮と外宮あわせて2折)。

昭和3年10月27日付官報(内務省令第37号) には、即位礼と大嘗祭の当日、伊勢の神宮にて行われる祭祀の祝詞、そのあとの「神宮に親謁の儀」の際の祝詞がのっています(リンク先の2~3コマ目、計5折)。

同日付官報 には官国幣社以下、神社で行う祭祀の祝詞もあります。即位礼当日、大嘗祭当日、大嘗祭の幣帛供進使の祝詞の計3折です(同日付官報の方のリンク先の3コマ目)。

 官報以外だと『今上即位勅語及寿詞謹解』の56~57コマ目に官国幣社以下神社で奏上する祝詞(宣命書き)があります。同じく62~66コマ目に、伊勢の神宮で奏上される祝詞があります。同書は大正の即位礼、大嘗祭の際の祝詞で、ほぼ上記、官報にのった祝詞と同じ文面です。

 これらの10折ほどを読めば、どういう発想でつくればよいのか、どんな語彙をつかえばよいのかも、だいたい見えてくると思います。ただし、きのうの記事(祝詞文中の最高敬語)のように最高敬語を用いている祝詞も含まれていますので、ご注意、ご検討ください。

当ブログ内の祝詞

上記、国会図書館のリンク先の画像が見にくかったり、印刷して不鮮明であったりするなら、このブログ内にも書き下し文がありますので以下、ご参照ください。

 伊勢の神宮関連の祝詞は、まず即位礼・大嘗祭の期日が決まったときの祝詞として、大御饌供進祝詞 奉幣祝詞、即位礼当日祭の祝詞は 即位礼当日祭、大嘗祭当日の祝詞は大御饌供進祝詞 奉幣祝詞、親謁の儀の際の祝詞は 大御饌供進祝詞 奉幣祝詞

 官国幣社以下、神社の祝詞は 宮司祝詞(官国幣社)、社司(社掌)祝詞(他の神社)、幣帛供進使祝詞 の以上の各リンクに、祝詞の書き下し文があります。

 小説初め一般の文章だと90年前のものは、なかなか読みづらいですけれども、祝詞の場合は今と変わらず読めるのがいいところです。

2019/05/17

祝詞文中の最高敬語

 こんにちは。本日の北見市相内町は晴れ、でも風が強めで国旗がはためいています(小さいですが画像の中央)。国旗掲揚塔のすぐむこうは桜、右側の白樺の木は最近、ずいぶん葉が繁りだしてきました。
 昨日初めてエゾハルゼミの声を聞きました。このあたりではセミの声は夏ではなく、春にきくものなのです。ヒグラシのような鳴き方で、ヒグラシよりやや低い声で鳴きます。
 それでは今日の本題。

【この記事を、おおまかにいうと】
▲祝詞の中で最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」を用いることの是非について。
▲神社本庁から今回送付されてきた例文では、天皇にご祭神より敬意を払うべき、ということになる。
▲小職は延喜式祝詞以前のように、最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」を用いない方がよいと考える立場。
5/30 舌足らずなところを加筆修正しました

最高敬語とは


 先日このブログで指摘しましたように(御大礼にあたっての辞別祝詞)、神社本庁より今回送付されてきた祝詞の例文には、敬語のつかい方に疑問点がありました。いわゆる最高敬語「~せ給ふ」「~させ給ふ」を、天皇にのみ用いている点です(それが不徹底であるのは今回あえて目をつぶりますが、それにしても気にかかります)。

 最高敬語平安時代にうまれ、天皇および皇族を初め、特に尊ぶべき存在に対して用いていたものです。尊敬語をふたつ重ねてつくり(みっつと考えられるものもあります)、尊敬の助動詞「す」「さす」に「給ふ」をつけ「~せ給ふ」「~させ給ふ」のかたちをとるのが代表例です。

 今回の例文では他に「看行(みそな)はす」がでてきています。もともと「見す」に「行はす」がくっつき「見そこなはす」から「見そなはす」となりました。「見す」と「行はす」の「す」が尊敬の助動詞、かたちはかわっていても、もとはふたつつかっていた、というわけです。 

祝詞で最高敬語をつかうと


 最高敬語を祝詞の文中で用いるとき、天皇と、その祝詞を申し上げているご祭神とのあいだに、どうしても上下関係ができてしまいます。より正確には、祝詞の作成者(もしくは奏上者)が、天皇とご祭神と、どちらにより敬意を払うのか、その態度がはっきりしてしまいます。今回の神社本庁の祝詞でしたら、天皇の方がご祭神よりも上です。

 このことの是非はどうなのでしょうか。つぎの五パターンがあります。

①天皇にも、ご祭神にも最高敬語を用いる。
②天皇には最高敬語を用い、ご祭神には用いない。
③ご祭神には最高敬語を用い、天皇には用いない。
④天皇にも、ご祭神にも最高敬語を用いない。
⑤文脈しだいで用いたり、用いなかったりと区別しない。

 今回の例文は前述のように、おおむね②の立場。あるいは⑤かもしれません。

 祝詞の作成者の信じるところにしたがい、天皇がご祭神より上と信じるなら②、ご祭神が天皇より上と信じるなら③。上下関係がないとするなら①か④です。意識せずに⑤となっているなら論外ですが、じぶんの中で基準をきめて⑤の立場をとる、ということもありそうです。

 ただ、前述のように一か所だけ、ご祭神に「看行(みそな)はす」と申しており、ここで最高敬語をつかっています。多数決ではないですが、例文ではほかに最高敬語にしていないあたりが、どうしてもひっかかります。

最高敬語をつかう場合の問題点


 上記のようなこと考えた場合、非常に難しい問題が出てきます。

 明治天皇がご祭神の神社は、どう考えればよいのでしょう。明治天皇と今上陛下とのあいだに上下関係をつけることじたい、そもそも不敬な気がします。祭祀は高天原の始原のすがたを再現するものなのだから、そのときの天皇は皇孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の資格をお持ちだとする考え方もあります。ご祭神が天照大御神とすると、最高敬語のつかい方いかんによって、お孫さん(瓊瓊杵尊)の方が上のような書き方になってしまいます。これみな、上の②③⑤の立場をとると、当然出てくる悩みです。

 御代替わりの佳節だから、奉祝の意味で最高敬語を用いるという考え方もあるでしょう。しかし、今後ある時期からまた用いないようにするのもどうかと思いますし、これまでその祝詞の作者が用いていなかったとしたら、整合性がとれません。皇位の継承を尊んでのことだとしても、御代替わりの機会にだけ尊ぶようでスッキリしません。

小職の私見


 小職はおおむね④の立場です。天皇と神様が平等、と考えるからではありません。そのような判断をすることじたい不敬と考えます。

 おおむねというのは「看行はす」ならばよくつかっていますし、もっともひっかかるのが最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」の取り扱いだからです。ですので、条件つき①ともいえます。

 これらの語形は最初に申し上げたように平安時代にあらわれたもので、延喜式に所載の祝詞の多くは、それ以前に成立しました。

 もっとも、延喜式祝詞を見ていると、こんにちのわれわれから見て当然、敬語をつかうべきところで、つかっていないことがままあります。そうした箇所に敬語を補いつつ参照して、できるだけ平安時代より前の語彙・文法を用いて祝詞を作成したい、というのが小職の立場です。

最高敬語のつかい方・テスト


 最後に、今回の「御大礼にあたっての辞別祝詞」につき、最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」をつかえるだけつかった場合と、まったくつかわなかった場合とをあげてみます。「~(さ)せ」と「~しめ」は同時につかうことができず、同じ意味ですのでここは「~(さ)せ給ふ」の方でやってみます。

 誤用は修正済み、「稔り足らはしめ給ひ」「畢へしめ給へ」の「しめ(しむ)」は使役の意味ですので、助動詞「せ(す)」「させ(さす)」とはいっしょにつかえません。つまり、ここは最高敬語にできません。

〇つかえるだけつかった場合
辞別きて白さく、畏くも天皇には今年十月の吉日に即位礼執り行ひ、十一月の吉日に大嘗祭をも、厳しく 斎ひ行はせ給ふ事の由を仰せ出して、古の法の随に、神卜に卜はせ給ひし程に、この(都道府県)を悠紀(主基)の地方と勅定めさせ給へり。かれ、県内挙りて 厳の誉れと喜び祝き奉りて、仕へ奉る状を、愛ぐしと看行はし、大神たちの大御稜威以ちて、県内隈なく祓へ清めさせ給ひて、悠紀(主基)の の奥つ御年を初めて、県内より献らむ海川山野の種々の 物実をも、浄く清しく豊かに稔り足らはしめ給ひて、天皇の大御代に一度の御大礼を厳しく美はしく畢へしめ給へと、恐み恐みも白す

〇つかわない場合
辞別きて白さく、畏くも天皇には今年十月の吉日に即位礼執り行ひ、十一月の吉日に大嘗祭をも、厳しく 斎ひ行ひ給ふ事の由を仰せ出して、古の法の随に、神卜に卜へ給ひし程に、この(都道府県)を悠紀(主基)の地方と勅定め給へり。かれ、県内挙りて 厳の誉れと喜び祝き奉りて、仕へ奉る状を、愛ぐしと看行はし、大神たちの大御稜威以ちて、県内隈なく祓へ清め給ひて、悠紀(主基)の の奥つ御年を初めて、県内より献らむ海川山野の種々の 物実をも、浄く清しく豊かに稔り足らはしめ給ひて、天皇の大御代に一度の御大礼を厳しく美はしく畢へしめ給へと、恐み恐みも白す

2019/05/16

斎田点定の儀3

 本日の北見市相内町は快晴、身体をちょっと動かすと汗ばむくらいの陽気でした。参道にたくさん散らばっていた桜の花びらのピンク色が茶色に変わったので、大掃除したところ、けっこう草が生えていたので、草を抜きつつ掃除、これから秋までのあいだは草との格闘です。

 毎春まずキタコブシ、つづいて桜、ほぼ時期を同じくしてツツジやサツキが咲き、まだ花盛りの木もあります。画像は毎年今頃、御社殿裏手でひっそり咲いている、おそらくエゾノコリンゴ(蝦夷の小林檎)だと思いますが、違うかもしれません。


 隣接する公園ではタンポポが満開。市の保護樹になっているヤチダモの木の上にも青空がひろがっていました。

  さて、きのう一昨日と話題にしてきた斎田点定の儀、きょうでネタ切れなので一段落です。きのうに引き続き、寛延元年(1748)8月25日に行われた際の史料から、式次第の部分をご紹介します。

 ひとつここで、皆さんにお詫びしなければならないことがあります。斎田点定の儀としてご紹介してきましたが、この名称は大正度の大嘗祭以来で、それ以前は国郡卜定の儀と申しました。きょうまでお伝えした記事についても、細かく申しますと国郡卜定の儀です。

 では寛延元年にもどりまして、原文そのままだと何のことやらわかりませんので、史料を現代語にし、順をおって説明いたしましょう。したがって文責は小職にあります。もしかしたら、解釈が誤っているかもしれませんので、あしからずご了承ください。

①亀の甲羅を初め祭具の入った箱を持って、祭員一同、祭場に入ります。箱は今回の報道で映像として写されたものとほぼ同様ではないかと思います。

②合図とともに、まず悠紀の国を占う者が箱を引き寄せ、亀の甲羅を箱から二枚とりだして並べます。

③次に、竹、木、火ばしなどをとりだして置き、それから主基の国を占う者に箱をわたします。

④主基の国を占う者が、同様に亀の甲羅、竹、木、火ばしをとりだします。

⑤中臣祓を奏上します。これは、こんにちの大祓詞とほぼ同文です。

⑥祭文を奏上します。

⑦亀の甲羅、竹、木を手にもち、まじないの言葉を唱えます。

⑧亀の甲羅を置き、ははかを火にくべます。ははかはウワズミザクラのこと。細く裂いた約15センチの皮つきのものをつかいます。

さまし竹を一枚とって、まじないの言葉を唱えます。その場にみな集まり、座ります。甲羅を焼くと油が出ますので、灰や水をかけます。それを払うのにつかうのが、さまし。長さ約24.8センチ、幅約8センチです。

⑩亀の甲羅を火にあぶり始めるときの唱え言葉があります。それを唱えながらまず裏からあぶります。

⑪三種祓を唱えつつ、甲羅を何十回もあぶります。三種祓はネット上でもかんたんに本文を読むことができますので、検索の上ご参照ください。

⑫こうして二枚、あぶり終わったら、甲羅に炭をぬります。

⑬竹に水を少々そそいで、昇神の詞を唱えます。

⑭主基の国担当の者が竹、木、火ばしなどを箱におさめます。ついで亀の甲羅を箱におさめ、悠紀の国担当の者にわたします。

⑮悠紀の国担当の者は、亀の甲羅、計四枚をふたつにわけて紙でつつみます。それから竹、木、火ばしを箱にいれます。

⑯斎主の前に亀の甲羅を置き、結果を見てもらいます。

⑰斎主が悠紀の国担当の者を呼びます。悠紀の国担当の者は亀の甲羅を受け取り、もとの位置にもどってから箱におさめます。

⑱祭員一同退出。

 上記の文中にある唱え詞と祭文は、きのうご紹介したとおり。
 寛延元年(1748)の次第は、明和元年(1764)8月24日、文政元年(1818)4月24日、嘉永元年(1848)4月24日に行われた際も踏襲されました。寛延度は桃園天皇、明和度は後桜町天皇、文政度は仁孝天皇、嘉永度は孝明天皇の大嘗祭のために、この儀が行われました。この間、明和から文政の間には、安永度の御桃園天皇、天明度の光格天皇の大嘗祭がありましたが、この二度に関しては上のような次第であったかは不明です。

 ネット上では、元文か明和期に書かれた 国郡卜定次第 や、それとほぼ同内容ながら、明和の大嘗祭のおりの記録である 禁裏御所御用日記 (218コマ以降)を見ることができます。祭文等はのっていませんが、こちらの方が式次第については詳しいです。

 大嘗会儀式具釈 (7コマ以降)では、元文の大嘗祭のおりの次第について、荷田在満が注釈をくわえており、活字ですので古文書が苦手な方にはおすすめです(ただし古文です)。

 活字でも古文はちょっとという方には、おおまかなことしか書かれていないのですが、御即位大嘗祭大礼講話  がおすすめです。昭和の大嘗祭前に刊行され、明治の国郡卜定の儀については、リンク先の 57 コマ以降、大正の斎田点定の儀については 、同じく93 コマ以降に記述があります。

〈斎田点定の儀については、これにて一段落〉

2019/05/15

斎田点定の儀2

 本日の北見市相内町は雲量が多いのですが、おおむね晴れ、境内は小鳥のさえずりで賑やかです。きのうお伝えしたように、今日も神社裏のグランドではタンポポがいっせいに花開いています。くもりや雨の日は、逆にこれがいっせいにしぼみ、面白いです。


 では本題、斎田点定の儀についてのつづきです。寛延元年(1748)の史料をご紹介します。
 祭場に祭員一同が入って祭具等の準備が済んだら、まず中臣祓(ほぼ現行の大祓詞と同じ)を、つぎに祭文を奏上します(後述)。
 祭文奏上後は亀の甲羅、竹、木を手にして以下を唱えます。

現天神光一万一千五百二十神、鎮地神霊一万一千五百二十神、総じて日本国中、三千余座、この座に降臨す。全く我咎なし。神の教へのごとく、そのこと、善にも悪にも尊神の御計りたらむ。

「さまし竹」を手にとるときには、以下を唱えます。

上一寸(ひときだ)は太元不測神、中一寸、大小諸神、下一寸、一切霊神。

 甲羅を火にあぶり始めるときには、以下を唱えます。

すべて、それがしがなすわざにあらず、善悪神の御計りと申して、神の置く手に任せて申すと申すなり。

 甲羅をあぶっているあいだ、三種祓を唱えつづけますが、これはよく知られていますので略します。
 以上、ご紹介しました唱え詞は道教や陰陽道の影響を受けているようです。
 いまご紹介している寛延元年(1748)の唱え詞や下記の祭文は、明和元年(1764)8月24日、文政元年(1818)4月24日、嘉永元年(1848)4月24日において踏襲されました。なお、寛延度は桃園天皇、明和度は後桜町天皇、文政度は仁孝天皇、嘉永度は孝明天皇の大嘗祭のために、この儀が行われました。
 なおこの間、明和から文政の間には、安永度の後桃園天皇、天明度の光格天皇の大嘗祭がありましたが、この二度に関しては上のような次第であったかは不明です(小職が史料をもっていない、という意味)。
 かんじんの祭文は、以下のとおり。長いので送り仮名はつけませんでした。気になる語句がある方はご遠慮なくコメントいただけると、幸いです。
 下記は祭文の書き下し文ですが、あまり読み通す方はいないと思いますので先に申しますと、占いにつかう用具・祭具については古事記の天の岩屋戸の段(の占いの部分)そのままに、実際に香具山から用材をとっていた事情を踏まえています。
 また、この祭文は延喜式祝詞「遷却祟神」の前半部分と似ています。天孫降臨の伝承では失敗をくりかえし、ついに成功という話の流れになっていますが、それと同様にこの祭文でも、まず白真名鹿が失敗します。ただし「遷却祟神」とは違い、大詔戸命が「では、わたくしが」と進み出て申し上げた、その発言内容だけで終わっています。
 そのほか祭文を読んで感じるのは、神魯岐命と神魯岐命が直接、荒ぶる神を鎮めたり、皇孫への「事よさし」、つまりこの国を平安に治めなさいと委ねられたことが不鮮明な記述であったりすること。この祭文をつくった人は、延喜式祝詞にあるような語句を解釈する能力にとぼしかったのかもしれません。
 ただ上記のように、嘉永の大嘗祭に際してもこの祭文がつかわれたらしいことから、きのうご紹介した祝詞は、江戸時代中期までさかのぼれるものではないことがわかります。そこで、きのうの祝詞は恐らく明治の大嘗祭のために、つくられたものと仮定しておきます。
 なお、末尾におおまかな意味をつけましたが、上記のような誤認そのままには訳していません。祭文本文の逐語訳ではありませんので、ご了承ください。

高天原に神留り坐す皇親・神魯岐、神魯美命、荒ぶる神は掃ひ平けて、石・木・草・葉はその語を断ちて、群神に詔はく、わが皇御孫命は豊葦原の水穂の国を安く平けく知ろし食して、天降し寄さし奉りしとき、いづれの神を皇御孫尊の朝の御食・夕の御食、長の御食・遠の御食と聞し食すに、仕へ奉るべき神を問ひ賜ふときに、天の香具山に住む白真名鹿(しらまなか)、われ仕へ奉らむと、わが肩の骨を内抜きに抜きて、火なし出だして、卜以ちてこれを問ひ給ふときに、すでに火の偽りをいたす。大詔戸命、進みて啓さく、白真名鹿は上つ国の知れど、なんぞ下つ国のことを知らんや。われはよく上つ国・下つ国の天神・地祇を知る。いはんやまた人の憤りをや。わが八十骨を日に乾きさらし、斧を以ちて打ち、天のち別きにち別きて甲の上、甲の尻に真澄の鏡取り作れ、天の刀を以ちて町を掘り、刺し掃へ、天の香具山のふもり木を取りて、火燧りを造りて、天の香火を〓(木へんに造)り出で、天のははかの木を吹き着け、天の香具山の節なき竹を取りて、卜串を折り立て問へ。土を曳かば下つ国の八重までにまさに聞かむ。天を曳かば高天原の八重までにまさに聞かむ。神の方を通し灼かば、衆神の中、天神・地祇まさに聞かむ。まさに青山を枯山になし、枯山青になし、青河を白川になし、白川を青河になさむ。国は退き立つ限り、天雲は壁き立つ限り、青雲は棚曳く限り、白雲は向伏す限り、日は正に縦さまに、日は正に横さまに聞き通さむ。陸の道は馬の蹄の詣るところの限り、海の路は船の艫の泊まるところの限り、人の方を灼かば衆人の心の中の憤りのこと、聞かしてまさに知るべし。かれ、国の広く曳き立つ、高天のごとく隠れなからん。慎みてな怠りそ。

【大意】高天原に神々しく留りなさり、天皇陛下と近しくいらっしゃる男女二柱の御祖神が、荒ぶる神を退けておとなしくさせ、石や木や草葉もことばを発するのを止めさせたとき、諸神に「わが皇孫は下界の国を平安にお治めになるように」とおっしゃって、皇孫に神々をお伴させ、下界のことを委ねようと向かわせた。その際に、皇孫の朝夕、永遠に食べていくことのできるお食事につき、お仕え申すのはどの神がよいだろうと問われたところ、天の香具山に住む白真名鹿が「わたくしがお仕え申しましょう」と、じぶんの肩の骨を内抜きに抜いて、火を起こしてあぶり、占いでその是非をお問いなさろうとしたが、どうしても占うのによい火が起きなかった。そこで大詔戸命が進み出て申し上げるには「白真名鹿は高天原のことは知っているが、下界のことは知らない。わたくしは高天原の天つ神、下界の国つ神をよく知っている。人の気持ちなどもちろんのことだ。わたくしの骨を高天原でするように天日で乾かし、斧で打って分け、甲羅の上下を澄みきった鏡のようにせよ、神聖な刀でマチを掘って刺し掃い、天の香具山でふもり木を取って火を切る用具をつくり、清らかな火を起こし、ははかの木をたきつけにし、節のない竹を折りとって卜串を立てて神意を占いなさい。もし下界のことを占うとても、下界のさらに奥底までこの由聞こえ、天について占うとても、高天原の上の極みにまで、この由聞こえるだろう。神について占うなら、天つ神も国つ神もすべてが聞くだろう。青々とした山を枯れた山にし、枯れた山は青々とした山にし、青々とした川は白々と、白々とした川は青々とした川にするだろう。陸地の続くかぎり、雲が立ち上るかぎり、棚引くかぎり、雲が陸地に覆いかぶさるかぎりの場所までも、縦横に聞くだろう。陸地の道は馬がゆける限りまで、海路は船のへさきがゆけるところまで。人について占うなら、どの人間の心中、どの感情についてもお聞きになり、知らせるだろう。だからこそ下界のことがはっきり占いに示されるのは、高天原でのことのように隠れなきものに相違ない。身をつつしみ、怠慢なことがあってはいけない」と。

2019/05/14

斎田点定の儀

 本日の北見市相内町は快晴、神社裏のグランドでは野球をしている人がいました。タンポポがいっせいに花開いていて、北海道の春らしい風景になりました。画像は社務所裏からで、この桜が例年いちばん咲くのが遅く、最後まで咲いています。
 
 さて、きのう午前「斎田点定の儀」が皇居内の神殿の前庭にて行われました。神殿は宮中三殿のひとつで、八百万の神をお祀りしています。南側から拝すると、中央が賢所、向かって左が皇霊殿、神殿は向かって右になります。この斎田点定の儀では、亀卜をもって「悠紀国」と「主基国」を決定します。おおむね東日本から悠紀国、西日本から主基国を選び、この両国でとれた米などを、今秋の大嘗祭で供します。
 亀卜は亀の甲羅を伸ばしたものをあぶり、その亀裂のぐあいで占うというもの。今回は、昨年秋、東京都小笠原村をつうじてアオウミガメの甲を確保し、都内のべっこう職人に依頼して加工したそうです。縦24センチ、横15センチ、厚さ1.5ミリで、将棋の駒のような形状にしたとのこと。厚さ1.5ミリって、すごいですよね(この亀情報は、以下のサイトを参考にしました FNN PRIME)。
 
 画像はわが家の亀です。これはクサガメ(ゼニガメとも)で、今年満17歳。けっこう成長しましたが、残念ながら亀卜には適さないようです。
 さて、このサイトではテレビで報道された内容そのままに「こんな亀裂がでたから、どこそこの国」と、その判断する方法は非公開だ、といっています。「でも恐らくこうではないか」と専門家の方が仰っている内容も説得力がありました。
 このように占い中心の儀式ですから占いじたいが注目されましたけれど、宮中三殿の神殿前で行われていますし、これも神事であることは、疑いようがありません。実は、宮内庁が隠したいのは神事の次第の方じゃないかと勘繰るのですが、これも非公表でしょう。
 ただ、上記の亀卜のように古い資料がありますから、そこから「現在もほぼこうではないか」と推測することができます。そして小職はその古い資料をなぜか、たまたま持っておりまして、ちょっとだけ公開しようと考えた次第であります。
 明治4年の記録では、ご祭神は太祝詞命と久慈真智命(くしまちのみこと)で、神籬に両神をお招きします。実際に亀の甲羅を火にあぶる前後の次第しかこの記録にはないのですが、卜部が祝詞を奏上。祝詞の内容から、お供えもします。亀の甲羅をとりだしたあとには、身曽貴祓詞を奏上します。「正笏して祓詞(身曽貴祓詞)を読む」とありますので、奉書紙に書かれたものを読んだのではなく、暗誦していたんでしょう。
 このとき卜部が読んだ祝詞を、書き下し文にしてみます。文中「太祝詞命」が「大祝詞命」になっているのは、本文そのままです。

掛け巻くも恐き大祝詞命・久茲真知命の大前に、卜部朝臣良義恐み恐みも白さく、掛け巻くも畏き天皇の御代の始めの大嘗(おおにえ)聞し食さむとして、皇神の大前にして、悠紀・主基の国郡を卜へしめ給ふ。かれ、御酒は甕の上高知り、甕の腹満て並べて、青海原の物は鰭の広物・鰭の狭物、奥つ藻菜・辺つ藻菜、甘菜・辛菜、菓どもを奉り置きて、斎き奉り卜へ仕へ奉らむことを見行はし聞し食して、皇神の大御心に御饌・御酒奉らむ、悠紀・主基の国郡を撰み定め給ひて、この卜事に出で示し給へと白すことの由を、高々に聞し食せと、恐み恐みも白す

【大意】心に思い掛けるのも恐れ多い、太祝詞命、久茲真知命のご神前にて、卜部朝臣良義が恐れながら申し上げますことは、こちらも心に思い掛けることすら恐れ多いのですが、天皇陛下が御代の初めに大嘗を召し上がりますとて、こうして尊い神様のご神前にて、悠紀・主基の国郡を占わせなさることとなりました。そこで、御酒は酒器をいっぱいに満たせて並べ、海の物は鰭の広いものと、狭いもの、沖合でとれる海藻、浜辺でとれる海藻。また甘い野菜、辛い野菜や果物をたてまつりましてお祭り申し上げ、占い申し上げることを、どうか神様たちにはご覧になり、お聞き届けくださいまして、天皇陛下に御饌・御酒を奉るであろう悠紀・主基の国郡を選び定めなさって、こたびの占いに神様たちのお心をお示しくださいませと、このように申し上げますことを、どうかお聞き届けくださいますようにと、恐れながら申し上げます。

 原文では「天皇」「皇神」の前を一字分空ける「闕字」にしています。これは尊崇するものを示す語の上に、他の語を置かないように表記することで敬意を払うという、古式ゆかしい書式。
 本職としてこの祝詞を読んでどう感じるかというと、まず現在の祝詞とそう変わらないこと、つぎに、簡潔ながら要点を押さえた祝詞だなあということです。
 ただ、終わり方がちょっとくどいかなという気はします。「この卜事に出で示し給へと白すことの由を、高々に聞し食せと、恐み恐みも白す」は「この卜事に出で示し給へと、恐み恐みも白す」でよいのではないかと。お願いごとをしている語句ですから、こう遠まわしに申し上げるべきだ、という考え方なのかもしれません。逆に、現代のわれわれ神職は、昔の人から見るとズケズケと遠慮なく、神様にお願いしているのかもしれません。
「聞し食す」を「聞し食して」「聞し食せと」と、二度つかっていること、「掛け巻くも畏き」を二度用いているのは、修辞上の反復法ではありません。これらは単に不用意につかったものではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
 この祝詞がいつ制作されたのかはわかりません。このとき初めてつくられたかもしれませんし、以前つくられた祝詞の、奏上者の部分だけ変えて(書き下し文の「卜部朝臣良義」の部分)読んだものかもしれません。ただ、現代の祝詞とそう変わらないわけですから、おおざっぱながら少なくとも江戸時代中期以降、と見てまちがいありません。というのも、寛延元年(1748)の史料では、また別の祝詞(史料内では「祭文」)が記録されているからです。
 ちょっとこの話題、ひとつの記事として長くなりすぎました。日を改めてご紹介します。

2019/05/09

5月9日 境内の様子

こんにちは。
 きのうの相内は一日中、ほとんど雨で桜の花もけっこう散ってしまったのですが、今日は快晴で気温もあがり、すごしやすい一日となりました。
 近くの幼稚園の子が先生につれられて、散歩しにきたりなど、ちらほら参拝、花見、散歩に来られる方がいらっしゃいました。 
  前述のとおり、桜の花びらが参道をはじめ、あちこちに散らばっております。秋の落葉時には風であちこちを舞って参道の掃除がたいへんです。
 でも、例年桜の花びらはそのままにしておきます。きょうあたりは参道が花びらのじゅうたん状態になっておりました。
鳥居を入ってすぐの場所は、上の木の梢でアオサギが巣を作っておりますので、小枝が落ちてくることがあるので、ご注意ください。日増しにヒナの声も大きくなってきました。
 アオサギに混じって、シロサギもきょう確認でき、びっくりしました。似た生態をしていて、いっしょにコロニーをつくることもあるそうです。この後、シロサギも増えるんでしょうか。
 それでは今日は、このへんで。

2019/05/06

桜通信三日目

  桜通信三日目です。
 まずは今月限定の御朱印の絵柄にもしましたシロハラゴジュウカラが写った画像を。すぐに逃げてしまうので、こんな小さくしか撮れませんでしたが、中央の鳥です。

 神社の裏手でも、満開になっています。今日は十連休最終日とあって、参拝者だけではなく、花見に来られる方がたくさんいらっしゃいました。
 カメラを手にされた方、敷物をしいて家族と 食事を楽しまれる方など、さまざまです。



 残念なことに、今日は風が強く、けっこう花びらが舞っていたのですが、あすは今日より10度ほど気温が下がるとのこと。少し寒いくらいの方が、開花期間が長くなります。
 去年のこの時期はもっと寒かったので、ちょうどよいくらいの気温かなと思います。ただ、お年寄りや子供にとっては、こう寒暖の差が激しいと体調管理がたいへんで、連休明け、体調を崩さないよう祈るばかりです。

2019/05/05

桜通信二日目


桜通信二日目です。
 きのうの温かさで一気に開花した桜、当神社境内やその周囲のすべて、ほぼ満開となりました。
 旧相内村村長・河原鶴造さんの背後の桜も昨日よりいちだんとピンク色が強くなっています。この桜も満開といっていいでしょう。



  午前中の空は真っ青でした。日があがるにつれて、だんだん青色が薄くなってきましたが、この画像ではまだ青が濃いですね。
 参拝者の方ばかりではなく、桜を見にこられた方も、きょうはたくさんいらっしゃいました。連休の中でも、家族全員休みということもなかなか少ないようですね。
ちょっと見にくいですが、画像の中央あたり。庭のアカマツの木にきたヤマゲラです。キツツキのように木の幹を突いて虫をとって食べるので、もちろん木が傷みます。
 それであんまり歓迎していないのですが、ヤマゲラの方でも遠慮しているのか、あまり境内では見かけません。

2019/05/04

桜が咲きました


 本日の北見市相内町は最高気温が25度に達し、風もなく春の行楽日和となりました。境内地周囲の公園では、きのうほころび始めた桜が一気に開花しました。鳥居脇、社号標の桜もようやく三分咲きくらいでしょうか。


 もとの相内村村長、河原鶴造さんの像の背後に立つ桜も、だんだん色づいてきました。北見市内では数日前から、すでに満開の桜がちらほら見受けられたのは、品種が違うからでしょうか、日当たりのよしあしでしょうか。


 日当たりのよしあしによって、すでに開花した木もたくさんあります。これらの画像、午前中に撮ったものですので、今はもっと開花した木が増えているかもしれません。


 雲量少なく、いちめんの青空で気持ちのよい一日でした。一週間ほどこのブログでの桜通信、つづきそうです。

2019/05/03

桜のつぼみが膨らんでいます

こんにちは。本日の北海道北見市は昼頃から晴れてまいりましたが、風が強いです。

 境内では、ようやく桜のつぼみが膨らみはじめました。令和初の桜でございます。

 先月24日、札幌に行く用事がありまして北海道神宮さんにお詣りしたところ、もう鳥居横の桜が咲いておりました。平成最後から令和初の桜と、ふたつの元号をまたげましたかどうか。

 当神社は、日本全国でも桜の開花が最後に近い地域にございますので、残念ながら平成最後の桜は昨年となりましたが、令和初の桜、そろそろ咲きそうです。長い冬がようやく終わり、春となりました。