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2019/06/15

札幌からのお客様

〇おととい札幌から珍しいお客様がお見えでした。

 お客様とは札幌市西区に御鎮座のN神社に奉職されているT権禰宜で、奥さんお子さんといっしょに来社されました。今回、たまたま連休をいただいたのを機に、こちらに旅行する計画をたてられ、その途すがら当神社に立ち寄られたのです。今回は当社に寄られたあと、サロマ湖(画像・wikipediaより)に向かわれるとのことでした。

 私が札幌の神社に奉職しているときには、たまたまお会いする機会があり、おりにふれてさまざま御指導いただいたものです。

 一時間半ほど今の滞在でしたが、話がはずみ、お子さんもかわいく、ご夫婦ともお元気そうで何よりでした。またお立ち寄りいただければと思います。

2019/06/13

日本人みな食えなかったころ


※けっこう長文です。ご注意ください。

『写真週報』は内閣情報局が編集・刊行したグラフ雑誌で、昭和13年(1938)2月16日号から同20年(1945)7月11日号まで刊行されました。価格は10銭でA4版、20ページ。最大20万部を発行といいますので、時代が時代とはいえ、すごいものです(画像はwikipediaより。概要はリンクをたどり、ご覧ください)。

 さいきん調べものをしていて、たまたま昭和20年6月20日発行の第447・448合併号に記載の「最近の食糧事情」を読む機会があり、おどろきました。

 すでに配給制となってひさしく、終戦まぎわですから窮乏生活をおくっていた人も多かったころです。その記事のはじめは、

 食べ物ばかりでなく、なんでも作り出される分量、つまり供給と、使ふ分量即ち需要が平均してゐれば問題は起らないのだが、この均衡が破れ、供給が少く、需要が多くなると、物は足りなく窮屈になるわけである。この道理から、近頃、とみに窮屈になつた主要食糧事情の裏には、きつと需給の不釣合が起つてゐるに違ひないことが分るのである。

 いえ、「需給の不釣合」じゃなくて、供給が圧倒的に足りなかったのではとツッコミをいれたくなります。

 では、その不釣合はどんな風に起つてゐるのであらうか。

 もともと日本のお米の生産高は、平年作でだいたい内地米が六千三百万石から四百万石、朝鮮米が、約二千万石、台湾米が一期、二期を合せて約八百五十万石程度であつた。ところが、これに対し、内地の食生活に必要な分量は七千八百万石ほどなので、その差引不足分約千四、五百万石は、主として朝鮮、台湾から入れ、多い時には朝鮮から約一千万
石、台湾から約四百万石に上るお米を移入して、内地における米の需給の釣合をとつてゐたのである。

 日本本土だけで6,300万石から6,400万石の供給に対し、需要は7,800万石平年作で1,500万石くらい少なく、最初から日本本土だけでは供給しきれていなかったのです。凶作の際は当然、もっと供給量が少なくなります。

 しかるに、支那事変についで大東亜戦争が起るに及び、日本におけるお米の需要は急激に増え、内地では、ひとり鮮米、湾米の応援ばかりでなく、タイ、仏印等の南方からも相当量のお米を輸入しなければならず、特に大東亜戦争の勃発した昭和十六年には、東北地方の冷害等で、内地の米は五千五百万石といふ、平年作よりも八百万石も少い大凶作に見舞はれた上、更に朝鮮からも計画通りの米が入らなかつたので、十七米穀年度(つまり昭和十六年十一月より七年十月末まで)には南方米を大量に輸入しなければならなかつた。

 戦時中に、なぜ需要が増えるのかが書かれていません。農家の働き手がへるので供給が減るように思うのですが、そうでもないようです。そのうえ冷害により大凶作、このころは輸入米を食べるのはふつうだったんですね。なおこの記事の書かれた終戦の年も、米の収穫はあまりよくありませんでした。

 次いで十八年度はどうであつたかといふと、この年度は、十七年の内地米は非常な豊作で、六千六百七十万石といふ、戦時下には珍しい実収高を示したのであつたが、朝鮮が大凶作であつたため、結局、朝鮮からの移入を防ぐことができず、この年度も相当量の南方米を輸入しなければならなかつたのである。

 豊作でも上の需要量を見ると、とうていまかないきれない状況だったようです。さらに朝鮮で大凶作、日本へと人が流れてくるので需要が増え、結局輸入しなければなりませんでした。

 幸ひ、この頃は戦局もわが方に有利に展開してゐたため、これら南方米の輸入にも、さしたる支障が起らなかつたのであるが、これが昨十九年度になると非常に調子が変つた。即ち、この年度は、内地米は約六千三百万石でほゞ平年作、朝鮮、台湾が平年作よりやゝ悪いといつた成績で、内外地を通じての供給力は、まづまづといふところであつたが、戦局の推移は、漸く我に不利となり、このため、こんどは南方からの外国米の輸入が絶望に近いといふ状態に陥つたのであつた。このため政府では、前年まで南方米が引受けてゐた、内地米の不足を補填する役割を満洲の糧穀に振替へることになり、新たに日満を通ずる食糧自給態勢を確立することとなつたのである。即ち、幸ひにも未曾有の豊作に恵まれた満州国から、大豆や高梁等の雑穀を内地に運び、同時に内地自体においても、お米の代りに甘蔗や麦を配給し、その主食化をはかると共に農家の供出を強化し、他方消費の面においても、お酒を造る米の量を減らすとか、その他いろ/\な業務用米を圧縮削減するなどの手を打つて、やうやく需給の釣合を保つたのであつた。

 戦争の激化により南方米の輸入が困難になった。それで満州より雑穀を輸入、日本ではさつまいもや麦の「主食化」をはかり、農家からの供出を強化。酒造につかう米の量を減らさせる。さまざま努力して「需給の釣合を保っ」たとのことです。でも、日本本土のみ見ると最初から供給が少ないわけで、毎年輸入にたより、需要に何とかあわせていただけにすぎません。

 このやうに昨年度は多分に危険を孕みながらも、どうやら切抜けて今年度に入つたのであつたが、それでは今年度はどうかといふと、あつさりした言ひ方かも知れないが、今年度は昨年度よりもなほ一段の困難が加つてゐるといふことが言へるのである。

 即ち、去年の秋の内地産米は東北、北陸地方の水害、西日本のひでり、その他肥料の不足等が大きく響いて、米の実収穫高は五千八百七十万石と、遂に六千万石を割り、また朝鮮も不作で、鮮米の輸入も当てにならず、一方戦局の進展はいよ/\益々我に不利に傾き、このため南方からの外米はおろか、台湾米さへも入る見込みがないといふ状態なので
ある。

 米の供給に関して、お先真っ暗ということを「あつさりした言ひ方」でいわれてしまいました。

 しかも需要はとみると、本土決戦に備へる軍動員、生産力の増強をはかるための産業要員の動員等から、加配を受ける人の数がぐんとふえるので、結論として今後の需要量は減るどころか、逆に昨年度よりぐつとふえることになるのである。

 さて、このやうにみて来ると、今年の食糧事情は、年度の初めから、つまり出発点において既に需給の間に大きな不釣合が起つてゐたことが明らかなのである。

 戦時下では需要がなぜ増えるのか、ここに書いてありました。筆者の頭をかかえているようすが目に浮かびます。

 そこで、この不釣合を何んとかしなければならない……といふので、政府でも打てるだけの手を打つてきたのである。即ち、供給の面においては満洲から昨年度よりも、より以上大量の雑穀を入れると共に、内地においては、麦、甘蔗、馬鈴薯の大増産を企て、一方、農家の供出を促し、最近に至つては、別項の如く、各農村において調整米の造成をはかり、これによつて、供出後の農村自体の需給調整を強化させる等の措置をとつたのである。そして、他方、需要の面においては前年度にも増して、酒造米、その他業務用米の圧縮をはかり、また配給の適正をはかるため、帰順配給量の改訂、幽霊人口の調整、外食券制度の確立(別項参照)等を順次行つてゐるのである。

 こうした政府の努力にもかかわらず、終戦後まもなく食糧危機におちいったのはいうまでもありません。需要が供給を越えた状態のまま多年放置してきたことの、つけがまわってきたのでしょう。供給量を増やすやりくりがつかなくなって、あわててさまざまな政策を講じたように思えてなりません。

 今年度の食糧情勢は、今日迄のところこのやうな推移を辿つてきてゐるのであるが、さて、それならば、端境期に向ふ、今後の情勢はどうか、といふに、それはいよ/\困難、窮屈を覚悟しなければならないのである。

 即ち、今年の難局切抜けにまづ期待をかけられたものは前述のやうに満洲からの雑穀であつたが、敵が沖縄に足場を固めた今日、内地、大陸間の輸送が思ふやうに行かなくなることは改めて述べる迄もない。従つて、今後満洲糧穀を計画通りに入れることは極めて、むづかしく、かうなると、残るところは内地の麦作と、甘蔗、馬鈴薯などであるが、この麦作が、今年は天候等の関係から余り芳しくなく、予定通りの収穫、供出には相当の困難が予想されるのである。また、馬鈴薯、甘蔗は相当の大増産が行はれても、これにはまた、航空燃料の原料といふ、新らしい使命が課せられてゐるので、それが食糧として振り向けられる分量にも自ら限りがあるのである。

 このころ、すでに沖縄には米軍が上陸しております。確かに満州からも、朝鮮、台湾からも平時そのままに輸入することは困難でしょう。かといって日本本土での増産も期待できない……何だか、弱音ばっかり聞かされているようです。

 このやうに考へると、端境期に直面した食糧事情は、非常な困難が重つてゐるわけで、並々の努力では、この困難を克服することはとても出来ないのであるが、さりとて、食糧が戦力の基盤である以上、われ/\はどんなことをしても増産し、食ひ抜いて行かねばならないのである。

 幸ひに、わが国は昔から千五百秋瑞穂国といはれ、国民の土地の利用の仕方、活かし方、努力、工夫次第で、一億一人として飢ゑることは絶対にないのである。

 それならば、この有難い皇土を活かし、この食糧の問題を解決するには、農村の人、生産者はどうすればよいのか、消費者は如何なる心構へをもつて新らしい食生活を打立てねばならないのか、われ/\は今こそ真剣に考へねばならないのである。

 前述のように政府としても努力をつづけてきたが、今年は特に厳しい。食糧不足を克服するのは困難だが、何とかして生産者、消費者ともに努力せよ、とのことです。

 むかしの人はいまよりもずっと米を食べていましたし、いまは米の需要量より供給量の方がずっと多い時代です。このころほど多くの人が食うに困る事態におちいることは考えにくい状況の中、あとだしで何かいうのはかんたんではあります。それでも、そもそも戦時体制に移行するより前、需要と供給がかけはなれる前に農業政策にもっと力を注いでいればよかったのでは、と思います。

2019/06/06

豆知識5月号

※長文ご注意。

 インターネット上の某所で一日ひとつ、豆知識を披露していることは、もうこのブログで皆さんにお伝えしていますところ、あきっぽい私が先月欠かすことなくアップできたのを記念して(?)ここにまとめて31日分、ご紹介する次第であります。

 なぜ、こういうものをなぜ書こうと思ったかというと、子供のころによく読んだ学研「〇〇のひみつ」シリーズの影響があります。本をひらくとページの両はし、左右に縦書き一行で「まめちしき」が書かれていて、読むと何だか少しだけ賢くなった気分になれたものです。

 下記の豆知識はそれより長く、ツイッターの制限字数の140字以内におさめるようにしましたが、いまのところツイッターには、あげておりません。「〇〇のひみつ」の「まめちしき」ほど短い字数で同様のことをやろうとすると、ほんとうにワンポイントになりますので、むずかしい。アフォリズムをつくるようなセンスが必要でしょう。学研のライターさん、すごい。

 知っていたとて、どうということのない豆知識かもしれません。しかし、私じしんは、知識どうしが思いもよらぬところでつながり、ハッと気づかされることが数知れずありました。それに、すぐには役に立たないであろう知識をもとめる人の多い社会には余裕があり、余裕がある社会はすすんだ社会だと思っています。前置きが長くなりました。順番に意図したところはありませんので、どこからでも、よろしければご覧ください。

▼神武天皇紀によれば、天孫降臨から数えて神武天皇の頃までは、一七九万二四七〇年ほどたっていたという。伝統的な訓では、これは以下のようになる。ももよろずとせ・あまり・ななそよろずとせ・あまり・ここのよろずとせ・あまり・ふたちとせ・あまり・よおとせ・あまり・ななそとせ。

▼能の演目のひとつ『鉄輪』では、貴船大明神への願かけが成就し、生きながら鬼となった女が、自分を裏切った男をとり殺そうとする。結局、安倍晴明の術によって追い返されてしまうのだが、去り際の女の台詞は「時節を待つべしや、まずこのたびは帰るべし」。またくるということである。

▼憑神の代表格である犬神。愛媛県のある地方の伝承によると、犬神持ちの家では家族の人数と同じだけ犬神がおり、家族が増えれば犬神も増え、家族が減れば犬神も減る。犬神持ちの家は富み栄えるが、すべてが思いどおりになるわけではなく、ときには犬神に噛み殺されることさえあるという。

▼山どうしが争ったという伝説は各地にある。関東では赤城山の神がムカデとなって、同じく大蛇と化した男体山の神と中禅寺湖をめぐって争った。いくつかある伝説のバリエーションのうち、ムカデが勝つ話はない。それでも赤城山のふもとでは、ムカデを神と見てか、殺すことを忌む習慣があった。

▼伊豆の御蔵島といえばツゲで有名である。かつてツゲを伐採するのは男、搬出するのは女の役目となっており、用材をとる御山の八合目以上は女人禁制だったという。これを「ヤマドメ」と称し、禁を犯した者は米一升と銭百文を神社に納め、祓を修することとなっていた。米と銭は「祓つ物」であろう。

▼昔は新年の神を迎えるため、年神棚を設けることが多かった。松江市の一部ではこの年神棚を、大晦日の深夜になってから、人に見られぬように吊るすならわしだった。そのため子供の中には「正月様がくるとまず自分で棚をしつらえてから、そこにおさまるんだ」と思っていた者もあったという。

▼かつては「正月ことば」をつかっていた地方が各所に存在する。八丈島では一月四日までの間、日常語を特別なことばに言い換える習わしであった。例えば、僧侶をクロオロコまたはクロウト、猫はカワブクロ、患うことをイネツミ、月経はイトヒキ、死去はクニガエ、芋頭をマイタマなどといった。

▼六月三十日といえば夏越の大祓の日。この日に海または川へ牛や馬をつれてゆき、一日中遊ばせる地方が各所にあり、牛馬が丈夫になると信じられていた。またこの日を川の神や田畠の神の祭日としていたところが多いのを見ても、農耕と禊祓の接点の日といえる。その点が師走の大祓との違いだろう。

▼天武天皇は草薙剣の祟りによって病の床にふせられ、崩御された。祟りが発覚したのは朱鳥元年六月十日のことで、日本書紀にはっきり書かれている。草薙剣は天智天皇の七年、道行という僧侶に盗まれたのだが、このときも不可思議ないきさつを経て宮中に戻っている。

▼食べても食べても食べ足りない。これを昔、カワキノヤマイといった。山陰地方や四国では、爪を切ったものを火にくべるとこの病になるといった。長野県北安曇郡では、猫の毛を食うとカワキノヤマイにおかされるといったそうだが、そんなものを食う人がいたんだろうか。

▼仮に大祓詞の存在しない世界だったとして、神職養成課程に在籍中の学生が全く同じ文を祝詞作文の時間に提出したとしたら、少なくとも四か所、神明への敬意が払われていないとして、敬語が補われるはずである。なぜ敬語が抜けているか、誰も指摘していないし、その理由も不明である。

▼人が亡くなったとき、枕元に逆さ屏風を立てる風習は平安時代からすでにあったようだ。『源氏物語』や『栄花物語』にそんな描写がある。同じく枕元には燈台を立てるが、光が本人に当たらないようにする。死に顔を見るには、別に蠟燭をともす。近親者の衣をかけ、無言念仏を唱える。

▼日本では物忌の期間中、断食をする例は少ないようである。その数少ない例を、ひとつ。かつて千葉県安房地方には、九月二十四日は三食のうち一食だけしか食べないという風習があった。里見氏が滅びた日だからという。また、この日は麦の播きはじめをする日となっていたが、時季が早いので儀式的にひとつかみほど播いた。

▼厄祓というと節分に付随した行事のようになっているが、正月中に行っていた地方もあった。香川県仲多度郡では氏神詣でをして、その帰りに四辻で紙緒の草履を脱いでそろえる。その緒を小刀で切り、じぶんの年の数だけの銭を添え、投げ捨てる。この間、だれかに会っても口を聞いてはいけなかった。

▼鹿児島県頴娃地方では、かつて正月十五日の夜にその年初の粥を食べていた。世帯主は粥ができると鍋の中央部から一杯すくい、きれいな器に入れて床の間にあげておく。翌朝、粥のかたまり具合を見て、一年の吉凶を占った。いわゆる粥占である。したがって七草粥は粥とはせず、雑炊であった。

▼『古今著聞集』によると仁安六年六月、仁和寺近辺に住む女がこんな夢を見た。賀茂の大明神が現れ、最近の政治が不正だから外国に行くという。翌月上旬、今度は祝の久継という者が同様の夢を見た。その後どうなったのかは不明。当時は平清盛の全盛期だが、久継はこのときまだ生まれていなかったようである。

▼群馬県ではかつて、正月三が日の間に神棚にあげていた飯、汁、あつものを四日に下げ、皆いっしょに煮て家族の食事とした。お供えを下げることをタナサガシと称し、いっしょに煮たものをフクワキと呼んでいた。「棚探し」「福沸」の意味だろう。ちなみに鏡餅はフクデといっていたが、これは「福出」ということだろう。

▼江談抄によると、鹿肉を食べた日には参内ができなかったという。当時は正月三が日の間、餅に雉肉を添えて食っていたが、かつては鹿や猪の肉を添えていた。清涼殿の年中行事の障子には「獣」肉を食った日の参内を不可としており、それで大江匡房もどう折り合いをつければよいか悩んだようである。

▼大神宮棚はいつからあるのだろう。初代・辰見屋久左衞門が拾った金を大神宮棚にあげ、どうぞ落とし主に会わせてくださいと願をかけたところ、無事に会うことができたという話が『江戸禁談』にある。辰巳屋騒動なる事件が元文五年に起きており、これは数代目かの久左衛門であるから、少なくとも二百八十年以上前であるといえる。

▼怪談会で百話を数えると怪異が起きるとよくいわれるが、江戸時代の百物語を題材とする話では、参加者が幸福になったり、富を得たりする結末が意外に多い。武士などは胆力を練るために怪談の会を催したというから、その応報ともいうべきか。なお、近世の書籍は百物語と銘打っていても、百話ないものがほとんどである。

▼五月五日、子供が菖蒲を束にしたもので、地面を叩いて歩く風習があった。新潟県北蒲原郡では、村中をまわって最後は神社の境内で叩きおさめ、社殿のうしろの空地に埋める。もしくは屋根へ投げあげたり、川に流したりし、決して地上に置きっぱなしにはしない。となりの集落の子供と喧嘩して、負けると不作になるともいった。

▼クダンは牛から生まれ、人面牛身の姿。予言をしてすぐに死んでしまう。漢字では人偏に牛で「件」と書く。江戸中期に現れたクダンは豊作と疫病の流行を、先の大戦中は敗戦を予言した。吉凶をともに予言していたのが、凶事しか予言しなくなってしまった。ちなみに、小松左京『くだんのはは』に描かれているクダンは牛面人身である。

▼称徳天皇の大嘗祭のとき、道鏡がどう行動したかははっきりわかっていない。延喜式の規定を見ると、悠紀殿の儀の前に大嘗宮の南で拝礼の儀があって、諸臣はひざまずき、柏手をうつことになっている。道鏡はその一か月前に太政大臣に任じられているが、その場にいたかどうか。拍手をしたかどうか。

▼鼠小僧の墓は各地にあって、岐阜県各務原市もそのひとつ。大正十年頃、墓を移して学校を建てたところ、化学実験室で原因不明の火事が起き、さらに新築してまもなく、また全焼したことがあった。鼠小僧の祟りだとの噂が立ったので、所在不明となっていた墓を現在地に移して、ねんごろに供養したという。

▼仁明天皇の御代、葛野郡庁前(現京都府)のケヤキを伐って太鼓を作ったところ、ときどき遊行してきていた松尾の神が怒り、伐採者多数が死亡、関わった官人も落馬して怪我をした。洪水も起きたため、神威を恐れ太鼓を神社に奉納するとおさまった。後年、この太鼓が古びたので金具が売られたときにも祟りがあったという。

▼平成十九年度、國學院大學神道学専攻科における入試で「天下三戒壇」を答えさせる問題が出た。戒壇は僧尼が戒律を受けるための施設で、受戒すれば正式に僧尼となる。神職資格を得る課程でこのような知識が要求されたのは面白い。ちなみに「三戒壇」をもった寺は、東大寺、筑紫の観世音寺、下野国の薬師寺である。

▼本居宣長『玉勝間』の一節に「これいはゆるムスコビアなり」とある。ムスコビアはつまりモスクワのこと。その後、喜多村筠庭は『喜遊笑覧』に「むすこびあは魯西亜の旧都、莫斯哥(もすこう)是なり」と記述。江戸時代中期にはすでに、ロシア語風と英語風の呼び方の双方が伝わっていたようだ。

▼八重山諸島の漁師は団体で漁をして、とった魚を人に分配するとき、その分け前をタマといい、網主へやるのをアミダマ、船主へやるのをフナダマ、加勢の者へやるのをヒトダマといった。得た魚をサチではなく、タマというのがおもしろい。もっとも古代において、サチは分割できないが、タマは無限に分割できたもののようである。

▼かつて毎月一日には念仏を忌む風習があり、沙石集などに散見できる。同集所載の説話では、元日の祝いの膳を給仕していた女が思わず念仏を唱えたのを、不吉だとして主人が折檻を加える。だが、この女の身体には傷がつかなかった。この女の篤信を哀れんだ阿弥陀仏が身代わりになったのである。

▼戦前の神職資格「学階」。「学正」「一等司業」「二等司業」に分かれているうち大正十年度、二等司業の試験問題。祝詞作文で「北条時宗の霊を祀る詞」。一等司業では同じく「新井君美の功績を称ふる詞」。学正では「藤原百川を祀る詞」。一等司業と学正では傍訓も要求。なぜか日本史の知識も問われていたようだ。

▼律令制下における大嘗祭での潔斎期間は、長く見て一か月。それに対し、出雲国造の代替わりのときには二年もの間、厳重な潔斎をし、二度上京をして神宝を献じ、神賀詞を奏上していた。出雲国造の代替わりの方が、古式をとどめているといえる。日常の政務との兼ね合いから、大嘗祭といえど合理化をまぬかれなかったのだろう。

2019/06/03

5月をふりかえる

 令和と元号が改まってから一か月が過ぎました。実はこのブログ、過去の記事をさかのぼっていただくと分かりますが、長期間更新しなかったのを、ご改元を機に再開したものです(とある神社の宮司さんが再開しなさいと仰ったことも大きいです)。

 継続は力なりと申しますが、その力を出すのが大変です。継続する上で、いちばん励みになるのが皆さんの反応で、アクセス数が多くなるとやはり嬉しい。再開したばかりでまだアクセス数は少ないですが、このブログにも記事の閲覧数が表示される機能がついています。それをたまに見つつ、記事作成の参考にしております。

 そして今日は、先月どんな記事を書いたかをご紹介しつつ、振り返ってみたいと思います。アクセス数は5月中のものです。

 まず今月1日のご改元を奉祝すべく、当神社では絵入り御朱印の頒布を初めました。その図案を5月1日付記事でお知らせし、5月10日付記事では来月の図案の候補について書きました。境内に生息するいきものを図案にする、月替わりのものは、その時候に境内で見られるいきものを図案にする方向で今後も参りたいと考えております。総アクセス数は122。

 斎田点定の儀が5月13日に行われ、大嘗祭で献じられる米などをつくる国郡を亀卜で占い、決められました。当ブログでは翌日より三日間にわたり、明治期の祝詞(5月14日)、江戸時代の唱え詞や祭文(5月15日)、ネット上で閲覧できる史料(5月16日)などをご紹介しました。これら三つの記事の総アクセス数は138でした。

 本年10月には即位礼が、11月には大嘗祭が行われます。そこで神社本庁から今月上旬、祝詞の例文が送られてきました。ひとつは「践祚と改元を奉祝する祭祀を行うときはこの例文を参考につくってね」というもので、これは5月11日付記事でご紹介し、問題点を指摘しました。アクセス数は45。それともうひとつ「これから行われるいずれかの祭典で、その祭典の祝詞に添えて奏上してね」という例文(辞別祝詞)があり、これを5月12日付記事において、問題点をいくつか指摘しました。アクセス数は61。

 上記のような次第で、われわれ神職が、各種祭典の祝詞中で即位礼や大嘗祭について申し上げる機会が必ず出て参ります。そう機会があるわけではないですから、作文に悩む方もいらっしゃるだろうと考え、5月18日付記事(アクセス数48)で、ネット上で閲覧できる昭和の御代替わりの際の祝詞を、ご紹介しました。これだけでは能がないので、5月19日付記事(アクセス数59)で、祭祀の目的を示す部分と、祈願の部分の語句を抽出して、系統分けしてみました。

 祝詞の中で欠かせないのが敬語。天皇と神様へは尊敬語を用いますが、尊敬語を重ねて最高敬語とするのはどうなのか、特に「~(さ)せ給ふ」をつかうことはどうなのか、そのことについて書いたのが5月17日付記事です。天皇と神様、どちらかに最高敬語を用いると当然、上下関係の意識が反映されてしまいます。アクセス数は107。

 今秋斎行される大嘗祭は、皆さんにとってもそうかもしれませんが、神職にとっては重大な関心事です。そこで私も5月20日付記事で折口信夫先生の論文の内容をご紹介しました。アクセス数は82。

  38℃という5月の史上最高気温を記録した日に、当神社境内でひらかれたミニ盆栽講習会について書いたのが5月26日付記事。この講習会では北見市に所在する凡才会によって企画、実施され、アットホームな感じで、初心者でもはいってきやすかったのではないかと思います。どんな会なのか興味をもたれた方は、どうぞ記事をごらんください。アクセス数は46。

 このようにアクセス数が非常に少ないので、気になる記事がありましたら、リンクをたどってご覧いただけるとありがたいです。

 そのようなわけで今月もよろしくお願い申し上げます!

2019/05/23

暑い5月

こんにちは。きょうの北見市相内町は晴れ、ただ雲が多く、晩になるとムシムシしてきました。次の日曜日、月曜日は暑い日になりそうだとのこと。

北見市は夏暑く、冬寒いイメージがあり、私じしんは一昨年の連休中、真夏日になって汗をかきつつ祭事を執り行った記憶があります。

そこで、平成の時代、北見市で5月に真夏日を記録したのは何日あったのか、気象庁ホームページで調べてみました。得られたデータは、見落としがなければ以下とおりです。

平成29年(2017) 4日30.3℃ 19日30.4℃
平成28年(2016) 20日32.1℃ 21日32.9℃
平成26年(2014) 29日31.1℃
平成25年(2013) 27日32.4℃ 28日30.4℃
平成16年(2004) 15日30.8℃
平成15年(2003) 30日30.6℃
平成13年(2001) 15日33℃
平成10年(1998) 16日33.7℃
平成8年(1996) 30日33.9℃
平成6年(1994) 26日30.2℃
平成3年(1991) 22日30.2℃

平成31年は4月までですから、総日数は30(年)かける31(日)で、930日。うち14日が真夏日です。「5月に真夏日のあった年」でしたら上記のとおり11年。ほぼ3年に一度です。

気になるのはここ最近、二日以上真夏日を記録した年が増えてきていることです。平成28年と平成25年(2013)は二日連続ですが、おととし、平成29年は月はじめと月末の二度で、珍しいケースかもしれません。

少しずつ暑くなってゆくならよいのですが、急に暑くなったり涼しくなったりするのは身体の方がついてゆかず、たいへんです。気象庁ホームページでデータを収集中、最高気温がヒトケタの日が何日もある……そんな年もけっこうありました。

今年は11日の最高気温が9.3℃でした。ここからほぼ20日後に20℃以上もあがるとは、なかなか予想できません。夜寝るときも毛布をとったり、かけたり、寝間着を夏用にしたり冬用にしたりと、そんなことをくりかえしています。

2019/05/13

wikipedia……その後

 こんばんは。今日の北見市相内町はよく晴れて気温もあがり、春らしい一日となりました。
 寒かったぶん境内の桜が長持ちします。だいたいどれも終わりかけているのですが、日当たりのあまりよくないところに植わっている桜は、まだ満開のままです。
 寒暖の差がこのところ激しく、人間の方はなかなか体がついていきませんが、桜の方はどうでしょうか。


 さて、先日お伝えしましたように、最近 wikipedia の相内神社のページをつくりました(相内神社:wikipedia)。熟練の方にときどき手伝っていただき、何とかまとまったのをいいことに、隣接する(というより、囲まれている)相内公園のページもつくってしまいました(相内公園:wikipedia)。多少編集にも慣れたので、割と短時間でここまでたどり着きました。

そこで今度は、祝詞について編集してみようと蛮勇をふるい、國學院大學日本文化研究所編『神道事典』(弘文堂)にのっとって、書き出したのですが……これが非常にたいへんでした。
もともと祝詞のページじたいはあったので、加筆したり修正したり、減らしたりと、ひさしぶりに脳みそをつかいまして、何とか今のような形になりました(祝詞:wikipedia)。
 ただ、延喜式祝詞についてなど、これでもまだ不十分。作法についても、一般の人でもわかるように書こうとして、失敗してしまっています。
 また加筆しようと思いつつも、いったん休むことにしました。社務のあいまに少しずつ書いてきましたが、腰を落ち着けて書く方がよいような気がしますし、なかなかそういう時間もとれませんので。そのうち、どなたかわかりやすく書いてくださることも、期待しつつ。

2019/05/08

豆知識

 某所で、令和ご改元記念として一日ひとつ、豆知識を披露していま
す。まとまってきたので、こちらでも一週間分を。

5/1神武天皇紀によれば、天孫降臨から数えて神武天皇の頃までは、一七九万二四七〇年ほどたっていたという。伝統的な訓では、これは以下のようになる。ももよろずとせ・あまり・ななそよろずとせ・あまり・ここのよろずとせ・あまり・ふたちとせ・あまり・よおとせ・あまり・ななそとせ。

5/2能の演目のひとつ『鉄輪』では、貴船大明神への願かけが成就し、生きながら鬼となった女が、自分を裏切った男をとり殺そうとする。結局、安倍晴明の術によって追い返されてしまうのだが、去り際の女の台詞は「時節を待つべしや、まずこのたびは帰るべし」。またくるということである。

5/3憑神の代表格である犬神。愛媛県のある地方の伝承によると、犬神持ちの家では家族の人数と同じだけ犬神がおり、家族が増えれば犬神も増え、家族が減れば犬神も減る。犬神持ちの家は富み栄えるが、すべてが思いどおりになるわけではなく、ときには犬神に噛み殺されることさえあるという。

5/4山どうしが争ったという伝説は各地にある。関東では赤城山の神がムカデとなって、同じく大蛇と化した男体山の神と中禅寺湖をめぐって争った。いくつかある伝説のバリエーションのうち、ムカデが勝つ話はない。それでも赤城山のふもとでは、ムカデを神と見てか、殺すことを忌む習慣があった。

5/5伊豆の御蔵島といえばツゲで有名である。かつてツゲを伐採するのは男、搬出するのは女の役目となっており、用材をとる御山の八合目以上は女人禁制だったという。これを「ヤマドメ」と称し、禁を犯した者は米一升と銭百文を神社に納め、祓を修することとなっていた。米と銭は「祓つ物」であろう。

5/6昔は新年の神を迎えるため、年神棚を設けることが多かった。松江市の一部ではこの年神棚を、大晦日の深夜になってから、人に見られぬように吊るすならわしだった。そのため子供の中には「正月様がくるとまず自分で棚をしつらえてから、そこにおさまるんだ」と思っていた者もあったという。

5/7かつては「正月ことば」をつかっていた地方が各所に存在する。八丈島では一月四日までの間、日常語を特別なことばに言い換える習わしであった。例えば、僧侶をクロオロコまたはクロウト、猫はカワブクロ、患うことをイネツミ、月経はイトヒキ、死去はクニガエ、芋頭をマイタマなどといった。

2019/05/07

Wikipediaに相内神社のページをつくりました


 当神社のWikipediaのページを編集してみました。文章、画像ともに、ほとんどはこのブログ内からの引用なのですが、よかったら見てみてください。
「誰でも自由に編集できる」とうたわれているのは、その通りなのですが、初心者にとって編集するのはなかなか大変でした。熟練者の方からみれば、まだまだかと思います。
 境内施設の画像が思っていたより少なかったので、今後は画像をもう少し増やす予定です。

2019/05/02

「令和」の練習


 きのうはたくさん御朱印を受けに来られる方がいらっしゃり、今日もちらほらと。そこで、空き時間に今さらながら「令和」の練習を。「平成」よりも書きやすく、バランスが取りやすいような気がします。