神道における神様っていったい何なのか、色んなことを言う人がいます。まずまちがいないのは、キリスト教やユダヤ教、イスラム教の神のように唯一絶対の存在ではないということです。
私が子供のころによく友人間で話し合っていた疑問に「神様がいるんだったら、なんで地上から戦争がなくならないんだ」というものがありました。この疑問には、神が人間にとって善なる存在なら、かつ絶対的存在なら戦争が起きて人がたくさん亡くなることなど、ありえないだろう、だから神はいない……との意を含んでいたようです。
神道における神は唯一の存在ではありませんし(「八百万神」といいますよね)、絶対でもありません。まちがえることもありますし、失敗することもあります。
同じ「神」と呼んでいても、意味内容が現代ではみなごっちゃになってしまっていますので、注意が必要です。
ここは神社のブログですので、神道での神はどんなものかを紹介しましょう。
江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』で示した定義がもっとも優れているといわれ、私もそう思っています。該当部分をあげてみましょう。
さて凡(すべ)て迦微とは、古の御典等(みふみども)に見えたる、天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社(やしろ)に坐(い)ます御霊をも申し
カミとは、古典に登場する天地の諸々の神を初めとして、その神を祭っている神社にいらっしゃるミタマのこともそう申し上げ
又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ、海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり
また、人は言うまでもなく、動植物の類、海や山など、その他何であれ普通でなく「すぐれたる徳」があっておそるべきものをカミと言うのである
まとめると、
①神典(古事記や日本書紀を初めとする神道古典)に記載のある神
②神社に鎮まる神
③人やその他の生物、自然
④その他
上の訳で「すぐれたる徳」と括弧づきにしたのは、どう捉えるかちょっと難しいからです。ですが宣長はこの段のすぐ後に、以下のような補足を付け加えています。
すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず
「すぐれたる」は尊い・良い・勇ましいなどの意味で優れたことだけを言うのではなく
悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云ふなり。
悪いもの怪しいものなども、非常に優れていて畏怖すべきものを神と言うのである。
ここまでで引用は終わり。
どうでしょうか。「神道の神」といったときの、あなたが考える神様と同じでしょうか。全然違うという方はまずいらっしゃらないんじゃないかと思います。
この宣長の定義を全否定して、「いやいや、神道の神はこうだよ」といえる人はいないでしょう。
①から③を検討してみますと、疑問がないわけではありません(④は「その他」なので置いておくとして)。
①はどうでしょう。古事記の最初に現れる天御中主神、高御霊神、神御霊神は「神」という字が使われています。でも、イザナミ・イザナギの二柱の神は「命」だったり、「大神」とも書いてあったりする。日本書紀では「命」じゃなく「尊」だし……神様といっていいの?
②神社におまつりさてている神様っていうのは分かるけれど、じゃあ極端な話、普通の家に「○○神社」って看板をつけて、神様がいるってことにすれば、それも神様なの?
③人も神になるっていうけど、あの憎たらしい人が神とはとても思えん。動物にしても、うちで飼ってるハムスターが神様だとしたら、籠に入れるのはかわいそうだ。海や山が神様なら、うかうか海水浴も登山もできやしない。
などなど、優れた定義とは申しましたが、この「宣長が列挙」した部分だけ見れば、色々疑問が出てくることと思います。そこで宣長は前述④その他に続けて、「何であっても『すぐれたる徳』があって、畏怖すべきもの」を神であるとしました。やはり普通じゃ駄目なんですね。
ところが、これでもまだ宣長の考える神を正確に言い切れていないのです。さらに続け、「すぐれたる」という言葉について「尊きこと善きこと、功(いさお)しきこと」など良い面ばかりではなく、「悪きもの奇(あや)しきもの」でもよい、としています。悪くても不思議なものでも神様になります。
悪い神様、確かにいますね。例えば貧乏神は別に貧乏じじいでもよいのに、「すぐれたる徳」がある、つまり生活を貧しくしてしまう、人智では計り知れない力を持っているから、我々の祖先が「神」と呼ぶようになったんでしょう。奇妙な、怪しい神様もいます(もっとも、古語の「奇(あや)し」は「不思議な」という意味もあります)。
ただ、よい・わるいを初め、そう感じるのは人間の方で、神様はそんな人間の価値判断からは超越しているのでしょう。
「可畏(かしこ)きもの」の「かしこき」はもちろん、賢明であるという意味ではなく、畏怖の感情を抱くべき、という意味です。思わず恐れかしこまってしまう存在が神様、というわけです。
ここまで見てきました本居宣長の神の定義から、日本の文化について考えると理解しやすくなることが、たくさんあります。
わが国に仏教が定着したのは、すごーく単純に言ってしまうと、ゴータマ=シッタルダというインドの一小国の王子が、我々凡人がはかり知ることのできない難しいことを考え、わかるように説明した、すごい。じゃあ敬おうではないか! ということです。
仏様を神様と分けて考えるのはほんの百数十年前からのことで、江戸時代まではどっちも同じ「尊いもの」でしたし、宣長の定義に従えば、もちろん仏陀も神となりえます。本来あった神とはこういうものだ、という観念に仏陀が当てはまったから、簡単に受容できたし、ここまで定着したのでしょう。
キリスト教はどうなのでしょう。確かに、イエス=キリストも仏陀と同じくすごいことを考え、言った。しかしながら(色んな宗派がありますけれど)キリスト教では、神なる父と聖霊と神の子イエスは一体であるなどと考えはしますが、基本的に神はひとつ。他には存在しません。邪宗門であった歴史的な経緯はあるにせよ、このあたりが仏教の受容とは異なり、いまいち浸透してこなかった理由なのかもしれません。
宣長の定義によるなら、サンタクロースは神であるとも言えます。真赤な服を着た異形の姿、白いひげは福神によく見られます。クリスマスイブに一軒ずつ家をまわり、よい子にプレゼントを置いて帰って行く。これはかつて折口信夫博士が唱えたマレヒト信仰に似ています。神様がやって来て、福徳をもたらし、帰っていく……そういう信仰が古来存在しているのです。
現在も石川県の能登半島にアエノコトという風習が残っていまして、以下に詳しいので御参照ください。
西野神社社務日誌より アエノコトについて
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20081205
二十年ほど前でしたか、デパートの一隅にお宮のようなものを設置して、とあるプロ野球の投手をお祭りしていたことがありました。
その投手は優勝に多大な貢献をしました。そのお宮にお参りすれば、投手が所属するチームが勝利を収めるに違いないという思いもあったのでしょう。商業主義もあるのでしょうが、人が神と崇められた身近な例です。その後、その投手が打ち立てた記録が破られ、本人のプライベート問題もあったのでしょうが、そのお宮は撤去されたと記憶します。
一口に神と言っても神道から考えたとき、多種多様な神様がいらっしゃいます。
西欧的な二項対立の考え方でもって、こっちの神様が尊い、いやこっちの方がすごい、などと考えれば、そこから摩擦・軋轢が生じるのは当然でして、そうした意味では神道における神についての考え方の方がいいんじゃないかな、と思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿