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2017/06/05

人形感謝祭祝詞2 冒頭部

 実際に「人形感謝祭祝詞」の草稿を、つくりはじめるところからです。

前述のように六つあるスペースのひとつめ、すなわち三行を冒頭部とするつもりでいますので、もっともよく見受けられるような単純なかたち、

 掛けまくも畏き〇〇の大前に恐み恐みも白さく

 では分量が少ないことは明白です。

 したがって、ここからふくらませねばなりませんが、ひとまずこの部分を確定させておきます。祖霊殿のみたまさんに申し上げることはすでに決まっているとして、斎主たるじぶんの職氏名をいれます。

 挂けまくも畏き代代の祖先等(みおやたち)の御霊(みたま)の御前に職氏名い、恐み恐みも白さく

「挂」は「掛」とほぼ同じ。実際に墨書するとき「掛」よりバランスがとりやすいために使ったまでで、深い意味はありません。前例をあげると、祝詞式の出雲国造神賀詞などでつかわれています。

また、「職」は宮司、「氏名」は私の名前がはいります。出張祭典ならば「〇〇神社宮司某い」とする方がよいのでしょうが、祖霊殿は奉仕神社の社務所内にありますので神社名は不要でしょう。

「御前」は、これも私見なのですが、奉仕神社のご神前で申し上げる場合のみ「大前」とする、と考えるのによります。他に候補をあげるなら、みたまさんを複数お祀り申し上げていることから「広前」でしょうか。

 そのみたまさんは「代代の祖先等の御霊」が穏当でしょう。「御霊」は「御魂」でもよいのでしょうが、じぶんの場合、奏上するときにぱっと見てミタマと読めるのは「御霊」の方なので、こちらをつかいます。冒頭部に限らない話ながら、奏上者たるじぶんが可能な限り読み誤らないような字を選ぶ作業は、草稿の段階から必要なのではないでしょうか。

 もちろんこの部分、まだ舌足らず、ことば足らずの感はいなめません。

 みたまさんは当神社の神道会の方々のご先祖、それから当地が屯田兵によって切り開かれた経緯から、屯田兵の方々をもお祀りしています。あわせて「代代の祖先等の御霊」としていますが、この語句に修飾語句をつけくわえて、どんなみたまさんなのか、詳しく説明することにします。

是の某神社の祖霊殿(みおやどの)に鎮り坐す挂けまくも畏き代代の祖先等(みおやたち)の御霊(みたま)の御前に職氏名い、恐み恐みも白さく

「~鎮り坐す」という語句は汎用性が高いといえます。「~」には具体的な地名を入れることも、「称辞(たたえごと)」を入れることもできます。前者では「五十鈴の川上に鎮り坐す」のような、後者では「此の大宮を静宮の常宮と鎮り坐す」のような例がすぐに思い浮かびます。
 ここでは地名ではありませんけれども、具体的なタイプを採用するとして「この神社の祖霊殿にお鎮まりになられている」という意味の語句をつけくわえました。

 なお「祖霊殿」はソレイデンと音読みしてもよいのでしょうが、じぶんの場合できるだけ訓読み、やまとことばの音で読みたいのでミオヤドノとしました。「神社」にしてもカミノヤシロ、カミノミヤシロと読みたい。ただ、「祖霊殿」をソレイデン、「神社」をジンジャと読む方が参列者には耳慣れておりましょうから、悩ましいところではあります。

 さて、奉書紙に六つ書くスペースがあり、そのうちのひとつのスペースに、三行二十五字程度で冒頭部を書く予定だと先に述べました。でも、二行ならともかく、三行ではこれでもまだ分量が少ない。

ここからさらに膨らませるには、さらに修飾語句をつけくわえるしかありません。

といって、どんなみたまさんなのか、より具体的に説明する語句をすでにつけくわえたばかりですので、今度は「称辞」の方を採用するとして、どうお鎮りになられているのかを描写してみます。

しばし考えて思い浮かんだのは、祖霊殿のある社務所内の大広間はけっこう日当たりがいい、ということでした。東西に窓の面をひろくとってあって、一日中、日が差し込みます。そこで、神代記の天孫降臨のくだりにある邇邇芸命のおことばが連想されました。

此の地(ところ)は韓国(からくに)に向ひ、笠沙の御前(みさき)を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る國なり。此地は甚(いと)吉(よ)き地。

 また、式祝詞の龍田風神祭に、似た表現があります。

吾が宮は朝日の日向ふ処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に、吾が宮は定め奉りて……

 神代記では「朝日がまっすぐさす国で、夕日が照る国である」。式祝詞では「朝日に向かうところで、夕日が隠れるところ」と、直訳すればそうなりますところ、要は一日中、日があたる、そのような場所がよいところだと考えられていた、ということなのでしょう。

 いま引用していますが、草稿をつくっているときにはそれぞれにあたって確認をしたわけではありません。じぶんの記憶にある語句を想い起こして、すでにこしらえていた語句につなげられるようにしたのです。

すると、以下のようになりました。

此の処(ところ)は朝日の直刺す処、夕日の日隠る処のいと吉き処と

 ちゃんぽんになっていますけれども、一日中、日があたるよい場所という意味の「称辞」である点では同じですし、論文ではありませんので、正確に引用する必要もないでしょう。

蛇足ながら、たまたまこのような語句が出てきたのでついでに申しますと、引用文中、あるいはそれを参考に私がつくった語句には、上代日本語の発想というか、癖というべきか、大きな特徴があります。

「処」に注目すると、「此の処」を展開してどんなところなのかを述べるのに、「Aな処」(であって)、「Bな処」……と、ABで対句を用いています。内容上は、「此の朝日の直刺す、夕日の日隠る処」もしくは「朝日の直刺す、夕日の日隠る此の処」でよいでしょうし、一日中、日があたるわけですから、もっと単純に「此のひねもす日の直刺す処」、もしくは「此のひねもす日の当たれる処」などで十分、意は尽くします。

 なぜ、このような回りくどい言い方をするのでしょうか。

おそらくは口承していた時代の語句がそのまま残ったからではないかと思います。暗唱する便がよいために、このような対句を用いた表現で語り継がれたのではないかと。

そして、祝詞はいうまでもなく、小説のように読んで楽しむものではなく、神霊や祖霊などへ口ずから申し上げるものですから、口承時代の表現に見られる発想と非常に相性がよいといえます。

作文のとき、草稿段階ではなかなか音読することはなくとも、実際に奏上したときのリズムを絶えず念頭に置く必要があり、そのためにも、このような口承時代の特徴を色濃く残した表現には注目したいところです。

以上をもって、最初に想定していた分量におおむね達しましたので、ここで冒頭部はひとまず完成として、つぎに移ります。

推敲は、一折分すべてできあがってからにします。細かいところが気になっても、とにかく全部書いてしまってから直す方がよいようですので。

最後に、ひとまず完成したこの祝詞の冒頭部分を掲げて、つぎに進みます。

此の処(ところ)は朝日の直刺す処、夕日の日隠る処のいと吉き処と

是の某神社の祖霊殿(みおやどの)に鎮り坐す挂けまくも畏き代代の祖先等(みおやたち)の御霊の御前に職氏名い、恐み恐みも白さく

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