百物語 第五十一夜
妻を刺せば
久しぶりにあったかと思えば、怖い話あるかって……おまえさんも、物好きだなあ。
昔、このへんにいた漁師で……当時はその噂で持ち切りだったけど、いちおう名前は教えないでおくよ。
町のはずれに住んでて、毎晩のように飲みに出かけてたんだと。ちょっと酒乱の気味があって、たびたび飲み過ぎるんで、財布を落としたり、どぶに落ちたりしてたんだ。
それでカミサンに、よく嫌味をいわれていた。
飲みに行くといったらうるさい、ってんで毎度、何かと口実を作って出かけてたんだな。ああ、飲みに行くとはいわないで、他の用事で行くふりをしていたわけだが、あらかた嘘だってバレてたんじゃなかろうか。
あるとき、刺身包丁が古くなったから代わりを買いに行くといって、出かけたんだな。
包丁を買ったらすぐ居酒屋に入って、しこたま飲んだのはいうまでもないね。
その帰り道、次の角を曲がれば家が見える、というところまできたとき、街灯に照らされて、妻が立っているのが見えた。
男は、ぎょっとして足を止めたんだよね。
夜も更けているし、こういうときカミサンが迎えに出てきたことはないから。
それどころか、カミサンの腰から下が透けていたんだ。そのむこうにある塀の色が、ぼんやり見えている。
男は一気に酔いをさまし、恐怖のあまり買ったばかりの包丁をとりだし、気合もろとも刺した……。
ところがカミサンは、刺した瞬間に消えてしまったのさ。
男はそのまま包丁を捨てて、走って逃げた。
息せききって家に着くと、ただならぬ気配を察してかカミサンが寝ぼけまなこで起きだしてきた。
「ああ、よかった」とカミサンがいう。「今、怖い夢を見てたから、起こしてもらって助かった」
何でも、夢の中でカミサンは家の近くを散歩していて、突然包丁で切りつけられんだ、と。
それを聞いた男は、冷水を浴びるような心地だった。
翌日、男は確かめてみたんだ。ゆうべ妻が立っていた場所をな。
そこにはまだ、男が放り出した包丁が落ちていた。
なぜか、先端が欠けていた。
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