イエスは十字架にかけられて殺されたあと、復活しました。
イスラムの『コーラン』にも「神は生まず、生まれず」なんて一節があったと記憶します。
神道の神様は生まれて、死にます。もっとも、死なない神様もいます。
これだと何だかはっきりしないので、本居宣長の『鈴屋答問録』を開いてみます。
これはタイトルの通り、本居宣長が質問に答える形式で書かれていまして、文語文でもそう難しくはありません。
引用は安永6(1777)年冬、門人の荒木田瓠形(尚賢、伊勢の神宮の神主さんです)との問答。
【問】神代の神は死なないと思っていましたが、ニニギノ尊は崩じたとも言われています。とすれば、クニトコタチノ尊など天地の初め以来の神様はみんな、亡くなってしまったのでしょうか。亡くなっていないとすれば、その違いはどのあたりにあるのでしょうか(意訳)。
それに対して、宣長先生はこのように答えています。
【答】高天原にいらっしゃる神様は、永遠に生きつづけます。地上の神様はみな亡くなります。また、高天原の神様でも、地上に降りてしまえば、死をまぬかれることはできません。そこで、その神様が天にいるか地にいるかで判断するとよいでしょう。
しかし、亡くなった後も御霊(みたま)は留まっている状態ですから、時としてお姿を現すことはあります。
こう説くのは臆断ではありません。理屈のみをもって説くのは中国かぶれの人がよくすること。私は『古事記』『日本書紀』の記述から、そう考えるのです(意訳)。
ははあ、なるほど。
仕事が仕事ですから、よく『古事記』『日本書紀』を読みますけれど、そのエピソードの場所が天(高天原)か地上かはあまり意識して来ませんでした。
ちょっと見てみましょう。
『古事記』の割と最初の方に、イザナミノ命がカグツチノ命を生んで亡くなり、カグツチノ命もイザナギノ命に殺されるという大変ショッキングな場面があります。イザナミノ命・イザナギノ命はこのとき、高天原から天降って国生み、神生みをしていました。
スサノヲノ命がオオゲツヒメを殺害するという、これもショッキングな場面が、そのちょっと後で出てきますけれど、この前の場面でスサノヲノ命は高天原を追放されています。
ということで、宣長説は間違いない! と帰納法的に言い切ってしまって終わりたいのですが、ビミョーな例もあります。
『古事記』のホントに最初の方に、高天原に現れた神様たちは、「身を隠した」とあります。これは「亡くなった」とも取れます。そもそも古代では「死」をタブー視する意識が非常に強かったわけですから「死んだ」とストレートに書かなかったのではないかと。
ここで「解釈」が必要になります。「死んだ」とはっきり書いていない以上、その前後の状況から死んだかどうかを判断せざるを得ず、そうなると人によって意見が分かれることもあるでしょう。
しかしながら、演繹的に「高天原の神様は死なない。地上の神様は死ぬ」説を原則として個々の例を考えた場合、とてもすっきり、腑に落ちます。
このすっきり感がクセモノですね。いかにも正しそうです。
はたして、宣長先生の御説は正しいのか。こう疑う余地があるのは、自分で『古事記』『日本書紀』を読んで判断しろという、宣長先生の指導法のあらわれなのかもしれません。
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