「オカルト」ということばはかつて、今とは使い方が少し違っていて、自分と見解の合わない人に対し「おまえの説はオカルトだ!」なんて言っていたそうです。
本来は「隠されたもの=知覚できないもの」という意味でありましから、その言葉自体、宗教的な感性と相性がよいようです。
「隠されたもの」「知覚できないもの」といえば、私なら神主ですから、すぐに神様が思い浮びます。逆に、お祓い中に白髪のおじいさんが現れて「わしゃ神様だ」とおっしゃったら、まずは疑います。
だいたい、明治天皇御製にも、こうございます。
目に見えぬ神に向ひて恥ぢざるは人のこころのまことなりけり
神様は「目に見えぬ」存在なのです。
そんなわけで、神様が現れたらまずは疑います。もちろん神様の存在を疑うわけではなく、その「神様」だと名乗る方の存在を疑います。
仏教でもキリスト教でも、初めは釈尊の像や磔刑されたキリストの姿を見せて「これがブッダだ」「救い主イエスはこんなお姿をしておられる」ということは言っていなかったのでありまして、布教のための方便だったと聞いたことがあります。
我々は「見る」ことで非常に多くの情報を得ていますけれど、かんたんに錯覚を起こしますし、不必要な情報は脳の方で処理しないとも言います。第一、「見る」こと自体非常にあやふやな行為であります。
机なりノートなり、空なり……何でも我々は「見る」と言ってはばかりませんが、実際にその物体を見ているわけではありません。太陽光線がその物体に反射する、その光をとらえているのに過ぎず、光がなければもちろん「見る」ことはできません。
さて、神様が、そんな人間の都合に合わせてくれる、つまり、人間が視覚で捉えうるお姿で、わざわざ現れてくださるとは、ずいぶん虫がよい話ではないでしょうか。
(ここでの神の定義は、神道におけるものと考えてくださってけっこうです。例えば、イエスを神とする立場では、あてはまりません。いうまでもなく、イエスが実在の人物とするなら、太陽光線を反射するはずだからです。)
もちろん神道信仰においても、目に見える神様もいらっしゃいます。
例えば、歴史上の人物がご祭神としてお祭りされている場合。
それから、山や滝、大きな岩などが祭られている場合。
ただ、東郷さんでも乃木さんでも、また天神さまでも、写真や肖像を拝見することはできても、神様となった現在の、そのお姿を拝することはできません。
それに、自然物が祭られている場合にしても、それ自体が神様なのではなく、神様がそこにお宿りになるのであって神様そのものではない―― それが伝統的な考え方であります。「○○山は、山そのものが御神体」という言い方は、その山に神様がいらっしゃるとしても、山そのものが神様ではないのです。したがって、実はこの場合も、神様は目に見えません。
これはたいていの神社でも同様で、本殿の扉を開けたら、まさか山や滝があるわけではありませんけれど、御神体が安置されています。「同じ」ところは、それが、あくまでも神様が宿っているものなのであって、神様そのものではないということです。
明治の文明開化時、思想界において指導者の立場にあったある人が、こんな回想をしています。とある祠のご神体をのぞいて、そこに石ころがあるのを見た。人々がこんなものを拝んでいるのを知って、ばからしくなった。
この方はかなり有能で、多くの人に影響を与えましたが、神様と御神体の関係が全く分っていませんでした。ご神体の石を神様そのものだと思い込んでしまっています。口さがなく言えば、欧米流の啓蒙思想に毒されていたからでしょう。
とはいえ、この方を批難してばかりはいられません。
ひとたび御神体が神様と等しいと考えれば、神様は見えるものなんだ、ということになってしまいます。もちろん、御神体じたいは物質だからです。
こうして考えてみると、神様が見えるものなんだ、という考え方は、物質文明から生まれたものかもしれません。
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