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2017/05/22

明治末年の神社合祀

 明治維新後、神道は国教化されて各神社、うはうはだった・・・・・・なんて仰る方がたまにいらっしゃいますが、さにあらず、特に田舎の小さい神社など、なかなか大変だったのであります。

 それに、無理やり神か仏かはっきりせい、神様とするなら、なるたけ記紀にあるご神名にすべし、という、いわゆる「神仏判然令」を批判する人がいますね。でも、そういう人が当時に生きていたとして、頑強に反対できたでしょうか。

「ほうそうか、お上がそういうなら、はっきり決めるとしよう。なに、弁天様はイチキシマヒメノ命の別名か、じゃあそうしよう。皆の衆、それでよろしいな」って、どんなシチュエーションか分りませんが、大多数の人は、深く考えなかったのではないかと思います(もちろん、私が当時その場にいたとしても、たいした変わりなかったことでしょう)。
 何はともあれ、過去を批判する際はまず、いつでもいわば後だしジャンケンしていることを肝に銘じるべきではないでしょうか。

 さて、ときに戦前はうはうはだったはずと目されることもある神社界、明治の末年には、こんな大打撃を受けています。

 明治39年8月10日、当時約19万3千あった神社のうち、村社・無格社が多数に登るので、一村につき一社を目安に統廃合せよ―― との勅令第220号が出されました。そして、神社合祀政策が推進された結果、数年で4万社以上が消えてしまったのです。

 村社・無格社はひと口にいうと小さな神社です。また、表向きは「合祀」ですが、稲荷神社、八幡宮、金刀比羅神社、天満宮を合わせたから「稲八金天神社」とする神社が現れるなど、ずいぶん無謀な話だったようです。

 明治末年の神社合祀政策に反対した人の中に、柳田国男と南方熊楠がおります。いわずと知れた大碩学の二人、その意見を読み比べてみると、同じ反対は反対でもかなりの温度差があって面白いです。

 それで以前、神職養成課程にいたとき、「神道史」の期末レポートに書いたことがあります。ちょっと文章に手を加えたいなとは思いますが、そんな時間もなかなか取れないので、恥ずかしながら以下、そのまま載せる次第であります。

――― 以下本文  ―――

 明治末期から大正初期にかけて推進された神社合祀政策に関しては、南方熊楠と柳田国男の意見を徴するにしくはない。両者とも、もっとも旗幟鮮明に反対の立場をとっているからである。そこで本稿では、この二人の碩学の、神社合祀政策に関する意見を考察してみたい。

 明治三十九年、「府県社以下神社の神饌幣帛料供進に関する件」が勅令で発布されると、全国で合祀が推進されるようになった。その結果、神社数が約二十万社あったのが、大正三年には約十二万社に減ったという。単純に考えれば四割減であるが、地域によってはより強制的な合祀が実行されたようである。

 もっとも過激な合祀が行われたのは、和歌山・三重両県である。両県合わせて一万以上あった府県社以下の神社が、千三百ほどに減少した。つまり、九割近くの神社が合祀されたわけである。

 南方熊楠は『神社合祀に関する意見』を記して、多数の問題点を指摘した。

 まず「村社は一年百二十円以上、無格社は六十円以上の常収ある方法を立てしめ、祭典を全うし、崇敬の実を挙げしむ、とあり」とこの法令の末項にあるのを問題視した。

 そもそも「祭典は従来氏子人民好んでこれを全うし、崇敬も実意のあらん限り尽しおれ」るのだし、第一、「幾年幾十年間にこの方法を確立すべしという明示」がないではないか。 

 このように、南方の目は最初から府県社や郷社などの方に向いている。むろん、内務省もしくは同省神社局の意図は、このような小さな社を統廃合し、できるだけ神饌幣帛料を供進できるような、厳選された神社にしたいというところだったろう。したがって、衝突が起きるのは当然だった。

 また、神社合祀を地方の指導に任せたことも、問題であった。

 合祀の処分は、府県知事の任意とされたが、知事はまた郡長に一任することが多く、功績をあげるために「なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧め」た。その一方で、「金銭は思うままに自由ならず。よって今度は一町村一社の制を厳行して、なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事とな」すようになった。さらには一社に必要な基本財産の額を値上げして、「即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印」させるようになってしまった。

 南方はさらに「あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する」と述べ、怒りをあらわにしている。

 結果としてどのような神社が残されたかというと、「なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり」という状況だった。

 以下、合祀を契機として起こった様々な問題を例示し、後半には意見を箇条書きにまとめている。

 その後半部をまとめてみると、神社合祀は住民の融和を妨げ、慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する。土地の治安と利益に大害がある一方、史蹟や古伝、天然記念物が失われるし、景観が損なわれる。結果として地方の衰微につながり、愛国心のもとたるべき愛郷心も失われる。地方官吏は神社合祀で敬神思想を高めたというが、それは政府当局が騙されているにすぎない――ということになろう。

 では、柳田国男はどう述べているのだろうか。

『定本柳田国男集』をひもとくと、まず、当時より三十六、七年たってから、「氏神と氏子」の中で、以下のように述懐しているのが目につく。

 神社の荒廃と司祭者の欠如は悲しむべきことに相違ないが、しかし是は地方の実情、一つ一つの神社の具体的な状態によって知るべきで、基本財産五千円以上などという全国的目標を立てて、存否を決すべきものでない。

 これは、南方の意見とは基本的に変わらないことを示していよう。

 しかし、その少し前、昭和十八年の「神道と民俗学」においては、歴史的に見て、「官府の慫慂を待つことなしに、以前にもくり返し行われてい」たと述べ、「氏子たちの最も強い希望は、我神を大きく力強く荘厳にすること」で、それが「合併の行われなければならなかった理由」としている。

 また、以下のようにも述べている。

 近年の神社合祀は多くの住民を寂しがらせ、結果必ずしもすべて良とは申せませんが、是はもとあった考え方を失っているままだったからで、説くに方法を以てすれば、又は古人が思って居たような心持を抱くことが出来れば、此後も或はなお可能なことかもしれません。

 こうしてみると、同じ反対の立場をとりながらも、両者が訴えていることには相当違いがあることに気づく。

 南方熊楠にしてみれば、合祀そのもの全てに反対だったのだろうし、和歌山県の田辺という地方にいて、その実態を目にした上で発言している。一方、柳田国男は、歴史的な観点から合祀はよくあることとし、「民情から見」て合祀自体には異を唱えていない。ただ、上意下達で政策として合祀を行うことに疑問を投げかけているに過ぎなかった。また、当時、山県有朋に働きかけて何とか合祀政策を変えさせようとしたところからしても、「中央の目」で地方の合祀を見ている印象がある。

 このように、大碩学の両者は、ともに神社合祀に反対しはしたが、相当の温度差があったわけである。学風の違いだけではなく、一方は民間学者、一方は官吏という社会的な立場もあってのことであろう。

 しかしながら、南方熊楠の耳目をひく扇情的な意見も、柳田国男の、歴史的な事情をより深く考慮した穏健な意見もまた、魅力あるものである。

 今日、神社本庁傘下の神社数は約八万という。本稿にあげた神社合祀以前からすると、約六割が減ったわけである。だが、その一方で約二万人の神職が、計算上、一人につき三社の兼務社をもつという現状がある。

 こうしたことを踏まえてみると、明治末期から大正初期の昔とはいえ、この時期の神社合祀について考えるのは、意義のあることではあるまいか。

   参考文献

「南方熊楠全集 第七巻」平凡社
「定本柳田国男集 第十巻」筑摩書房
「定本柳田国男集 第十一巻」筑摩書房
 なお引用部分では、本字・歴史的仮名遣いを、新字・現代仮名遣いに改めている。
 また、神社合祀に関する歴史的な経緯等は「神道辞典」弘文堂に拠った。

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