『相内村史』(23-27頁)に当時の状況が書かれていましたので、支給品等について、ご紹介してみましょう。
家屋
木造柾葺平屋で建坪17.5(57.9平方メートル)、うち15坪(49.6平方メートル)は5間かける3間の本屋、それに下屋・便所2.5坪(8.3平方メートル)が付属。内部は6畳と4畳半の二部屋。畳建具つき。4畳半の部屋には9尺(約2.7メートル)の押入がついていました。6畳の方は囲炉裏つきで板敷き。ほか家屋の内部には土間があり、流しが付属。広さは7.5坪(24.8平方メートル)で、収穫物のとりいれ作業や貯蔵につかわれました。
天井板がなく、冬季は隙間から雪が入り、布団の上に積もるなど、けっして快適ではありませんでした。
家具や夜具
鍋大小1 茶碗5 手桶1 小桶1 担桶1 ひしゃく1 灯具1 鉄瓶1 布団計5農具
鍬大小1 唐鍬大2、小1 砥石、荒砥、中砥、鎌砥各1 なた1、やすり2 斧1 のこぎり大小1 鎌、草刈、柴刈各1 むしろ20 熊手2 培養桶1 ほか4戸につき唐箕1、6戸につき臼と杵各1種子
以下を現品で支給されるはずが、代品や代金で支給されたものもあったそうです。・1斗を支給 麻種子 大麦 小麦 大豆
・5合を支給 小豆
・ほか、じゃがいも4斗、蚕卵紙4枚半
※1斗は約18リットル、5合は約9リットル
食料
一戸につき5人まで、到着、移住の日から数えて満5年間、食料が支給されました。満5年を2年、1年、2年の三期に分け、満14歳~60歳を甲、61歳以上と満7歳~13歳を乙、満7歳未満を丙と区分しました。第1期(2年)
甲 玄米2斗2升5合 塩菜料45銭
乙 玄米1斗5升 塩菜料30銭
丙 玄米9升 塩菜料21銭
第2期(1年)
甲 玄米1斗3升5合 塩菜料30銭
乙 玄米9升 塩菜料21銭
丙 玄米5升4合 塩菜料15銭
第3期(2年)
甲 玄米4升5合 塩菜料7銭5厘
乙 玄米3升 塩菜料4銭5厘
丙 玄米1升8合 塩菜料3銭
食料・塩菜料は足りていたか
まったく足りていなかったようです。まず食料は一戸につき5人までですが、当時は平均して一戸ほぼ7,8名でありました。そのうえ粗悪品が支給されることもあり、子弟教育のため積み立てるとの名目で、この支給額から天引きもされていました。移住後、すぐに作物がとれるわけではなく、最初の一年は野草を、特にフキをとってきて、ごはんのかさを増していました。二年目からは収穫されたじゃがいもに変わりましたが、ほかの作物、物品が不足しているため、芋味噌、芋餅、芋飯と何にでもじゃがいもをつかっていました。それで当時、商人や漁師からは「ごしょいも屯田」とバカにされたそうです。「ごしょいも」はじゃがいものこと。
だんだん開拓がすすんでくると豆、麦、キビなどとれるようになりましたが、支給米の量がぐんと減ったので特別なときしか米は食えず、5年で満期を迎えたのちは、まったく米を食えない人がほとんどだったそうです。
塩菜料もしても同様でした。
一戸あたりの平均支給額は、月額にして第一期でほぼ1円50銭、第二期は22銭、第三期は25銭ほど。
明治~平成値段史というサイトによると、明治33年(1900)では第一期の金額で白米10キログラム、第二期と第三期では砂糖1.5キログラム、たまご10個、ビール大瓶1本、そば・うどん10杯ほどになります。
北海道の僻地までの運送料を加味すると、買える分量はこれより少なかったに違いありません。
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