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2019/06/10

践祚式とは?

〇5月1日より令和の幕開けとなり、元号については発表より1か月間、さまざまに報道されていましたが、この日には践祚(せんそ)もおこなわれております。御代替わりの諸儀式の概観でご説明したように、践祚は御代替わりの諸儀式のうち、核となるもののひとつです。

 では、践祚とはなんでしょうか。以下ご説明してまいります。


践祚とは何か


「践」はふむ、「祚」は祭祀をおこなうため天子がのぼる階段のことです(もとは「阼」)。「皇位につく祭祀をおこなう階段をふむ」ということですので、「即位」や「登極」とことばの上では同様の意味になります。平安時代につくられた法律の注釈書『令義解』には「天皇の即位、これを践祚と謂(い)ふ。祚は位なり」とあります。

「即位」と「践祚」がこんにちのように、はっきりわけられ恒例となるのは桓武天皇からです。文献にあらわれる最初の例は、文武天皇のご即位の際で、このときは持統天皇より譲位されてから17日後に即位の詔をだされました。


近世までの践祚式


 おおむね奈良時代のあいだは「神祇令」の規定どおり新帝の御前で、天皇の長久を祝い祈る、天つ神の寿詞を中臣氏が奏上し、神璽の鏡・剣を忌部氏が奉じました。つづいて紫宸殿に立ちならぶ群臣が拝賀し、拍手しました。

 平安時代にはいると、天つ神の寿詞の奏上は大嘗祭の翌日、辰日節会(たつのひのせちえ)にうつされました。鏡が賢所に奉安されたのでで、践祚式には剣と玉(璽)などが新帝に奉じられるようになりました。これを剣璽渡御の儀といいます。

 室町時代の一条兼良『代始和抄』には、以下のように剣璽渡御の儀が描かれています。

 新帝のとおり道に、掃部寮の役人がむしろを敷き、最後尾から巻いていく。行列の最初は近衛府の次官ふたりで、御剣と御璽を捧げもち、むしろの上をすすんでいく。そのあとを新帝、ついで関白以下が、つきしたがう。近衛府の次官が階段をのぼって内侍(女官)ふたりに御剣と御璽をわたしたら、内侍はそれぞれ御剣、御璽を奉じて、清涼殿の御寝所に安置する。

 即位礼や大嘗祭は当時の事情によって遅れたり、中絶したりしますが、践祚式はだいたいこのような次第で明治時代までつづきました。


近代の践祚式


 明治時代にはいると各種の法令が整備されました。そのうち皇室典範では「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚し、祖宗の神器を承く」とさだめられています(第10条)。さらに登極令第1条では、

天皇践祚の時は、即ち掌典長をして賢所に祭典を行はしめ、且つ践祚の旨を皇霊殿・神殿に奉告せしむ

 とさだめ、その付式第1編では詳細に式次第をさだめています。それによると践祚式はこまかくみると、以下のみっつにわけられます。

①賢所の儀、皇霊殿・神殿に奉告の儀
②剣璽渡御の儀
③践祚後朝見の儀

 ①では宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で掌典長がまず祝詞を、ついで天皇の御名代として御告文(祭文)を奏上します。御告文は初日のみですが、祝詞は三日間奏上されます。

 ②では賢所の儀と同時刻、儀場に男性皇族と高官が立ちならぶところへ新帝が出御し、内大臣が案(机)の上に奉安した剣、璽、御印(御璽・国璽)をご覧になります。

 つづいて③、男女の皇族と高官があらためて参集しているところへ天皇と皇后が出御し、勅語をくだされ、内閣総理大臣が国民を代表し「奉対」の意思を言上します。


昭和天皇の践祚式


『昭和大礼要録』によると、大正天皇は葉山御用邸で御療養中、12月25日未明に崩御されました。

 午前3時すぎ、宮中三殿において掌典長・九条道実が「践祚式をとりおこない、皇位をつがれる」旨の御告文を奏上。

 ほぼ同時刻に葉山御用邸では、儀場の玉座に昭和天皇がつかれ、男性皇族、高官の立ちならぶなか内大臣・牧野伸顕の先導により、大正天皇の御寝所から侍従の手によって捧持された御剣、御璽が玉座の左右に奉安され、昭和天皇がそれをご覧になりました。

 12月28日午前3時、皇居正殿に約400名が参集し、皇位を継承された旨の勅語を発せられ、内閣総理大臣・若槻礼次郎が奉答文を奏上しました。


平成の践祚式(剣璽等承継の儀)


 平成の御代替わりにおいては、践祚式は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」を承け継ぐ剣璽等承継の儀とされ、新天皇の国事行為としておこなわれました。私じしんは践祚式の呼称であるべきと思いますが、以下、剣璽等承継の儀としてご説明します。

 この儀は昭和64年1月7日午前10時、正殿松の間においておこなわれました。天皇以下男性皇族のほか、三権の長と国務大臣の26名が参列。

 昭和天皇のおそばにおかれていた剣璽を侍従が捧持してきて、天皇の前の白木の案(机)に奉安されました。なお、御剣はむかって右、御璽(勾玉)はむかって左、御璽と国璽は一段低い中央の案上でした。天皇が一礼され、御剣、天皇、御璽(勾玉)の順に入御(退出)されました。列の最後に、御璽と国璽がつづきました。この間、9分ほど。

 おなじころ、宮中三殿では奉告の儀がおこなわれました。先にのべたように、賢所では三日間おこなうこととなっておりますので、神殿と皇霊殿は7日のみ、賢所だけは8日と9日にも奉告の儀がありました。

 なお、9日午前11時には即位後朝見の儀がおこなわれ、三権の長はじめ243名が参列しました。


令和の践祚式(剣璽等承継の儀)


 今次の御代替わりに際しての剣璽等承継の儀は、記憶に新しいところです。報道等でご覧になった方もおられるでしょうから、こまかいところははぶきます。

 平成31年4月30日午前10時、宮中三殿において御拝があり(退位礼当日賢所大前の儀、退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀)、同日午後5時、宮中松の間に現在の上皇上皇后両陛下が出御され、退位礼正殿の儀がおこなわれました。参列は294名。

 その後、皇族をはじめ宮内庁長官以下、元職をふくむ職員や皇宮警察本部職員にごあいさつをされ、御所にもどられて侍従長以下侍従職員にごあいさつをされたのは午後7時15分でした。

 翌令和元年5月1日午前10時30分、宮中松の間において剣璽等承継の儀がおこなわれました。参列者は26名。同時刻には宮中三殿において賢所の儀、皇霊殿・神殿に奉告の儀があり、掌典長による御代拝がありました。

 おおむね平成度とかわりませんが、今回は同日の午前11時10分、宮中松の間へ天皇皇后両陛下が出御され、即位後朝見の儀がおこなわれました。参列者は292名でした。

参考文献 皇室事典編集委員会『皇室事典 制度と歴史』、角川ソフィア文庫、平成31年

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