百物語 第十夜
廊下のつきあたりの黒い影
※怪談です。苦手な方はご注意ください。
こういっては何ですが、私の実家はそこそこの旧家です。
火事にあったり白蟻にやられたりして何度か建て替えたり、建て増ししたりしてはいますものの、家屋のうち、いちばん古い部分は幕末の頃にできたと聞いております。いいえ、自慢するつもりはなく……田舎におりました頃にいい記憶はあまりございませんし、いずれ故郷に帰ろうとも思っておりません。いまはお盆と年末年始に帰省するくらいでございます。数日過ごしただけで何だか気がめいってくるようで、そう長くはおりませんけれども。古い家ですから薄暗い場所が多くて、それで鬱々としてしまうのでしょう。実家には生まれてから高校卒業まで住んでいたというのに、いちど離れてしまったからでしょうか、その陰気さがもう、耐えられないのです。
今年のお盆に帰省したときのことです。
その日、私は居間で昼食を終え、かつて使っていた自分の部屋に戻ろうとしておりました。
通常は縁側に面した廊下を通っていきますので、そのときもまずは廊下に出ました。
そうして歩きだしてすぐ、前方、廊下のつきあたりに何やら黒い人影が見えたのです。
弟か、と思いました。弟はあまり家族といっしょに食事することがなく、そのときも「後で食べる」といって、じぶんの部屋で何かしておりましたので。昼食をとる気になったので、居間に向かうところなんだと思ったわけです。
でも、弟にしてはその人影、ずいぶん小さい。弟の身長は百八十くらいです。夏ですから左手の縁側は開け放っていましたし、南に向いていて差し込む光も強いため、私の眼の加減で小さく見えているのか……そう思いました。
立ち止まって見ると、その人影は廊下の突き当たりに立っており、右手でしきりに頭をかいているようなしぐさをしています。
弟がそんなしぐさをするときとは、どこか違う。やっぱり弟じゃない。じゃあ、いまそこにいるのは誰なのって、私は身構えました。
泥棒だとは思いませんでした。何だかのんびりしているような印象でしたし。近所の人が勝手にあがり込んできているんだろうと。田舎ですし、そう珍しいことではありません。
それにしても暗い廊下のつきあたりで、なぜ頭をかいているんだろう。
こちらに向かってくる気配こそございませんでしたが、そこを通らなければ、じぶんの部屋に戻ることができません。いえ、いちど居間に戻ってから、じぶんの部屋に向かうこともできるのですが、遠回りになります。
遠回りすべきか。あくまでこのまま進み、黒い影の脇を通り抜けるか。
私はその影を廊下のつきあたりに見据えながら、迷っていました。
あいかわらず、黒い影は右手で頭を……そう、頭をかいていたのでございますが、そのうち私は変なことに気づきました。
右手が動くにつれ、その下の方で何かが揺れ動いている。目をこらすと、どうやらそれは着物の袖らしい。黒い影は、黒い着物を着ているようなのです。そのうえ、袖には白く家紋が染まっていて……それはうちの家紋だったんです。
はい、そうです。それで近所の方でもないんだと、はっきり分かりました。
私は一度気が遠くなりかけたんですけれども……ハッと急に意識がはっきりしたので、慌てて回れ右をして、居間に逃げ込みました。
居間には祖父と弟がいました。弟は昼食中、祖父は煙草をふかしながら、ボーッとテレビを見ています。居間につづく台所では、母が流し台に向かって皿を洗っているようでした。
「あら、あんたごはん食べてたの?」と弟に聞くと、ああ、とぶっきらぼうな返事をして、そのままごはんを食べつづけています。
それ以上聞いたらうるさがると思いましたので、
「ねえ、いま誰かきてるの?」と、これは誰にともなく尋ねると、みんな、誰もきてないと口々にいいます。
「いまね、そこの廊下の突き当たりに黒い影が……頭をかいてる」
私がいうと、祖父がおいっと叫んで、さえぎりました。
「黒いやつか、着物を着た」
そうだと答えると、祖父は煙草の火を灰皿に押しつけるように消して、こう尋ねました。
「どっちの手だ?」
「え……手って、何? おじいちゃん……」
「頭をかいてた手。かいてたのは、どっちの手だ」
祖父がそんなに怖い顔をしているのは、初めて見ました。
右手、と答えると、祖父はハアーッとひとつ、長い溜息をついて、
「ああ……よかった、右手だったか」といいました。
ふと気づくと、母がいつのまにか台所と居間の間に立っていて、私を見ています。弟はと見ると、これも箸を止めたまま、かたまっています。
「えっ、いったい何なの……あの黒いのが何だっていうの?」
すると、祖父が座りなさいと私を促したので、私は祖父と向かい合ってソファーに腰かけました。
祖父がいいました。
この家には、たびたびそんな黒い影が現れる。
いつも着物姿の女性で、頭をかくようなしぐさをしている。右手で頭をかいているのを見たならよいが、左手で頭をかいていたなら見た者はまもなく死ぬ。この家の者が死ぬときにはみな、必ずその女性を見ているんだと。
初めは弟かと思ったと私がいうと、弟はやめてくれよと叫んで憮然としておりましたけれども、これは単純に私の印象によるもので、これまで見た人はみな女性だったといっていたそうです。
しかしながら、その黒い影……死期を知らせるときだけ現れて、左手で頭をかけばいいんじゃないのと思いますのに、なぜわざわざ右手で頭をかく姿を見せに現れるのでしょう。祖父もそこまでは知らないとのことでした。
「どうしていままで教えてくれなかったの?」と聞くと、いや話した、と祖父はいいます。
私がまだ実家に住んでいた頃に……ですが、どう考えてみても聞いた記憶がありません。
そのうえ、母と弟は、確かに祖父がその黒い影のことを私に話していた記憶があると、口々にいいます。
聞いた、聞かないで、それ以上もめたくありませんでしたので、結局私が折れることにしました。ええ、それから? それからは……部屋にはもどらず、一時間ほど居間でダラダラすごしてから廊下に出たら、その黒い影はもう消えておりましたよ。
お盆が明けると私は実家をあとにし、東京にもどったのですが……それから何となく体調がすぐれないのです。
寝ても眠りは浅いし、疲れは取れないし……もともと持病があるわけでもなく、身体のどこが痛いのでもありません。何となく具合が悪い。いまも、重い睡眠不足のようにボーっとしているんです。はい、お医者さんに参りまして、いくつか検査を受けました。でも、悪いところは見つからなかったんです。
祖父には、少し認知症が出ております。
ふだんいっしょに暮していないので、どの程度なのかはこの目で見てはいませんけれども……。ひょっとしたら祖父は、左右をまちがえているのではないでしょうか。そうだとすれば、私は死んでしまうのではないか。
近頃、そう疑っております。
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