橋爪仁太松さん(明治11年生、屯田兵)の話
橋爪キンさん(明治15年生、妻女)の話
私達石川県です。石川県が70何戸か来たはずです。こゝだけ(3中隊3区)でも6戸か7戸ありました。井戸組にも2戸でしたから心強かったですよ。他よりは……石川県の者は皆七尾から船にのりました。私の家は小作農家でしたので、それが5町歩の土地がもらえるというもんですから、30年の6月10日に入りました。
この家のまわりはクルミの木が沢山ありました。こゝは宅地だけで、二給地は留辺蘂よりです。ひどい笹藪でした。木はあまりありませんでしたが、私が入って4年目に隣の和気さんという家でごみ焼きした火がもえて、和気さんの家が火事になり、私のとこもそのもらい火でやけてしまいまして、また建て直してもらいました。31年の水害のときこゝは水がつかなくてよかったといっていたら火が来ましてね。
日露戦争では満州に行き、奉天の戦争に参加しましたが、この部落では山下さんという人が戦死しました。私は死ぬとは思えませんでしたが、いつ帰るかとそれが心配でした。奉天では夜襲をかけましたが、夜なもんじゃから、28聯隊と私は26聯隊の1大隊でしたが、それがあんた、味方同志暗いもんじゃからぶつかりましてね。
今でも屯田川屯田川と言うとりますが、この裏を通っています。ポン湯の上から引いたんです。あれほるときイナキビの弁当かついであんた、冬も夏もね。
参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月
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