田中リヨさん(明治16年生、屯田兵妻女)の話
私のところ31年の新兵でね、山形の舘岡というところから最上川を舟でくだって、酒田まで3日2晩かゝってね、酒田でも随分とまって、本間さんのお祭あったでにぎやかでにぎやかで、皆遊んでいたり「火事だ火事だ」って火事ぶれして、皆集まったら、汽船が入ったからのらんければならんというので、その時は物凄かった。それで船にのったでしょう、そしたら客船でなくて、荷物船でしょう。その段々の棚ついたところさつっこまれて、そしたらペンキ臭いというんだか何だか、そしたら上で小便したの漏ってくるしさ、そして4日4晩かかって網走のかげ(ポンモイ)さあがって、山越えて町さ出たの。そして荷物小舎にとめてもらってね。次の日暗いうちたって、網走湖舟できて1号の駅逓にあがったら、ポツポツ雨がふってね。そこワラジはいて、ベチャベチャって歩いて来たの。だから忘れられない。私が16になって4つの子供おぶってね、母親が子供できるようになって歩かれないで馬車でつれてきてもらったの。私たちね内地でるとき、田中の妹がうちの兄さんに嫁に来て、私が田中に来てやりとりしたの、式は内地でしたが、本当にやりとりしたのは来た次の年の春だったの。
私の兄弟沢山いて8人家族だったが、こまかったから、あたり前に来もらうの戸主と嫁さんと、父親と母親だけ、だから実家ではこまったよ。それに9月に来たんだから、何もつくれないでしょう。家もひどい家さ、台しなければ入れない土台の高い家さ、入ったら中に木生えているんだもの。むさいなアと思ったね。
それに私嫁になったって身体小さいし年はゆかんし、力はないし、どんだけ恥しい思ひしたか、泣いて泣いて子供できるまで泣いたね。身体小さいでしょう力弱いでしょう。それでも嫁でしょう。あれで嫁さんかといわれるの恥しくて、かせいで休むとき水のみに行くふりをして、川の中へ顔つっこんで何ぼ泣いたか、そして顔洗って来てやったもんだ。
それでつらいから時々実家に行くの。うちに行くといいわ。それで帰るの一分でものばすべと思って……帰るとき東相内の坂のところ、アンアンて大声あげて泣いて帰って来たんだ。そしたら叢のかげからヒョコッと女衆が顔出したので、びっくりしてやめてしまったの。今だから笑うけんどアハハハ……。
本当に子供できるまでいつ死んでもいいと思った。風呂が四辻にあったがよるねる前に風呂へ行って帰り、神社の前通るのでお賽銭あげて手合はしたもんだ。子供できたら心おちついて、こったらことしていれないと思ったね。私の姑さんはあとのない人(生地悪でない人)だども、何でもバリバリいう人だべさ、つらかったよ。家へ帰れば実家の母親は「それほどつらかったらお前何とかせといひたいが、うちえだけは来てくれんなよ、うちには子供多いし、こうして嫁さんに面倒みてもらわなければならないしするから……」というから泣くよりないべさ、やったり、とったりだも、私帰ったら嫁さんいれなくなるべしね。私も嫁さんも小さいときから奉公した人だから、お互苦労したんだ。
ハッカ作ったときもつらかったね。雨ふったら縄ない。天気いゝと夜半過ぎまでハッカかけ、帰りいつも夜半過ぎだから、心がねむって歩いているんだ。だから足がテックラテックラってして目あけて、帰って風呂入ってねて、朝また暗いうちに出かけるんだ。今の人は五時になってお天道さまがあがっても、おきないけれども。昔朝しないで朝飯食べたことなかったよ。
私の実家は内地で大工だったの。百姓なんて知らなかったが、北海道へ行ったら絶対大工しないといっていたが、兵屋がひどいのでたのまれて随分家なおしたね。舅爺さんは木を倒すとそこら一杯になるので、木にのぼって枝おろすの。それで何度も死ぬ目した。堤防にあった大きな桂の枝おろしたときも、網で木からおりて来たら、網が木の枝にひっかかって、中ぶらりんになってしまって、手はなせば下はおとした枝が槍みたいになっているべさ、それで皆がハシゴつないでもとどかないし、大騒ぎになり婆さん神様さおあかしあげてたのむべさ、どうにも仕様なくて思いきってとびおりて、それでもハシゴと木の間におちて助かったの。27号でも枝おろしていておちて馬車に乗せられて来て……器用な仕事の上手な人だった。苦労した人なもんだから、こまってる人をどれだけ泊めたかしらない人だった。昔汽車も馬もないとき旭川へ行くのに、歩くよりないでしょう。その人達が毎晩にうちへ泊ったね。だからおかずつくるとき余分につくっておかなければなんなかった。自分のところで子供も多いのに、ちゃんとお客あつかいして警察から乞食までとめたよ。道路人夫や鉄道のタコもかくして、人に見られないようにして、夜車で送ってやったりしてね。
私は悲しいとき念仏をうたにして、草取りでも何でもうたいましたよ。歌なんてうたえなかったね。かせぎがつらくてね。ナマンダブツ、ナマンダブツ、ナマンダブツ。
日露戦争の時は子供1人、腹ん中へ1人おいて行ったの。金の心配だけは舅さんしてくれたからよかったが。……何だって仕事に苦労したんだ。もうその頃は扶持米もないでしょう。それに米はとれないしさ、蕗とかウルイ(タチギボウシ)とかとって来て、飯に入れました。味噌がなくてゴショイモ煮てつぶして塩入れて、それで味噌のかわり。その塩だって網走まで行かないと買はれないし、買物には馬で夜通しかけて出かけたものです。うんまいもの食はなかったから、病気も一つもなかったね。
参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月
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