西木戸キノさん(明治15年生、屯田兵妻女)の話
私の国は加賀じゃ、15で来たんでなもかも忘れてしもた。30年の6月10日に入ったが、おとっつあんは職人で何でもする人だった。せんものは鍛冶屋だけじゃと。そのおとっつあん来たあけの年死んでしもた。それでおっかさん「こんな早よう死んでしもうなら、北海道へこにゃよかった」といった。病気でね。北海道へ行けば1万5千坪の土地もらへるいうのできたんじゃが、実家は内田といってね。兄が屯田兵できたんじゃ、5人まで扶持あたったからうちでは私までで、弟もいたが弟にはあたらなんだ。それで私は来た次の年に西木戸に嫁に来たんじゃ、こゝは4人家内で来たんだから。5人までもらえるんでね。
日露戦争にはうちのとうさんも旅順に行って、あそこで怪傷してね。扶持はなくなる働手はとられる。おまけに怪傷するでしょう。その頃麦つくっていたが、兵隊に行っていて小遣ないから金送れというので、麦1俵2円で売ってね……。そんな話すると今の者は笑うけれどもね。苦労したんだよ。とうさん戦争に行った年大麦8反歩つくっていたが、それ皆手で叩いておとして、それ馬車で宅地へ運んだもんじゃ。酒かなんかになるというのでつくったんじゃ。
着物縫いたくとも糸買えないでしょう。舅爺さんにトーキビ臼でついてもらって、それもって店屋へ行って、それでカナ(木綿糸)ととりかえたの。
この辺は男が3人で手合はしても、まだ手の合はんそんなデカイ桂の木があったよ。今はみな田園になっとるが。
参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月
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