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2017/04/27

屯田の頃4

藤沢イヨさん(明治13年生、屯田兵妻女)の話

 わしら同じ村から3軒来たんじゃ、わしの妹がこれ西木戸で、わしは藤沢に嫁になったんじゃ。端野の吉田さんも同じ村じゃ。藤沢と内田の2軒は三中隊(相内)の2区に入ったの。

 わしゃ内地でキンバタとかシャクリ織という、足でふむ織ね、姉が嫁に行った先の加賀の小松というところに行ってならっていたの。内地は織おらんと嫁に行かれんと、いうもんだから、裁縫はどうでもいゝが、織ならわんにゃ駄目だというもんじゃから、いっしょうけんめブーンブーン糸ひいて、河内木綿つくって隣にまけちゃならん、あっちに負けちゃならんというて……そしたらね2年つづけて大水出して2年目はドロドロの水がいつまでもひかんので、2階にあがって火たかれんから、加賀ではコーセンを食べるので、コーセンばかりたべていました。加賀ではね、水車でコーセンひいてもらって、コーセンばかり腹一杯たべてあと一杯だけご飯を食べたもんよ。昔は殿様へ年貢にみんな米もって行かれるんよ。それ一合たらいでも提灯とぼいて、たのんますたのんますといって、金かりに貧乏なおとさん言って歩いたものよ。そんなとこじゃからコーセン食べるのよ。麦をいってそれ水車がひいてもらうか、家で石臼ひくかして、ソバなんかもまぜてね。昔よくよそへ奉公に出るのに、どこそこはだめじゃ、小皿に一杯より飯あたらんからといったもんじゃ。ところによっては小皿に一杯のご飯もあたらなんだ。昔はね。それが2年つゞけて水が出て、その僅かな水田も皆石川原になって何もとれないの。そしたら私の兄が21になったら兵隊に行かんならんでしょう。兵隊にとられたらこまるから、屯田願うたら1万5千坪あたるし、小屋も米も着物も皆あたるから、行かないかというのだ、それなら藤沢の家でも端野へ行った吉田も、そんならといって、そしたら合格して来たの。昔は殿様に年貢はかるのに、皆米とられるのでね。うちらの村で強盗の提灯持ちをして歩いたというのがいてね、その人捕って網走の監獄所に来ていたが、それが天皇陛下様の何かお祝で出されて、そこから帰って来て、わしらこっちへ来るお祝いに来て酒のんで、天気のよい日は網走から樺太の灯が見えるから、女ゴ沢山連れて行くと、樺太から女ゴ買に来るといっておどかすやらね、それから熊が沢山いて窓から入るというがで、わしのお父さんは針金を沢山買って、それで網こしらえて張るといって来たんだよ。だけど来てみたら、そんなことなかった。

 国から歩いて金沢まで出て、檀家寺へお別れだといって一晩泊めてもらって……そこから汽車もないので能登まで歩いて行ったでしょう。そしたら七尾へ行って8日船を待って、船で8日。その船も荷物つむ船で、上の子供が小便するでしょう。するとダダダともってくるでしょう、水をかやしたんだというけどくさいもの。お茶はくさいし、ご飯は塩からくて一ぜんたべたらもう、酔っぱらってしまって網走へ着くまで一遍もご飯たべなんだ。小樽へ着いたら菖蒲湯をつかわすといっていたので有難いなアと思うとったり、どっこい水積むところおとして、海の水発動機でシアーと入れて、わかして女達入ったら、男共はのぞきに来るのぞきに来る……。そして女入った湯ダーとおとして新しい水くんで、こんだ男の人が入る。それだから私ら飲み水だいうてもろうてのんだの、水だと思ったら風呂の水じゃったのかといったが、そのあと洗ろて、またのみ水入れたもんじゃ。

 網走へあがったら、運のいゝ人はよい宿屋でとても御馳走あったというのに、わしらはとっても貧乏たらしい宿屋で、ゴンボのおつけとヒジキのおつけだから泊ったものが金出して魚買って来て食べたよ。同じゼニもろとって、そんなにちがったよ。

 網走から小蒸気にのってきたが、わしの下駄片いっ方大蒸気におといて来たので、それが網走で買ふと思ったが、売ってないの。弟達は小さから馬車で来たで、私はちょこし大きかったのでハダシで歩いて来たの。

 こゝへ入ったら芹にも毒ある芹あるぞ、こんなものも毒じゃぞと説明されたの、こゝへ来たときまだできん家もあったの。私のおとっつあんの大工ぢゃったから、残り板で箱つくってもろて、家に来るときそれもろて来たの。

 その頃の北見市は店が1軒と、木挽小屋と大工小屋とだけでした。屯田の家つくるのに板ひいたり、家つくるのにね。それでね、5年も6年も、こんなとこなら来ないばよかったと思ふた。今なら来ていかったと思ふがね。よく夫婦喧嘩してたもんさね。おれは来たくないのに、お前が来る来るいふたからちうてね。わしも家はおれんで毎日畑おこし、兄は大隊本部に銃直に行くしさ、稼ぐものがないから、わしとおかさんばかりで働いた。北見の町中なんかアイヌ株(やち坊主)ばかりで、ギワズ(鮭)がギアギアギアギアないていたところじゃ。

 わしら何も買ふことできないしさ、西木戸へ来た妹と土地半反歩もろてさ、そんであてから(明治31年)来るものに売ってやらんならんちゅうて、野菜つくってそれで帯買ったり着物かったりしたん。食物といったらキビと麦だけじゃろ、お客来たときだけ米のマンマたくだけ、米のマンマはお客と仏さんで、子供にもあたらんのじゃ。今の豚よりもおぞいもの食べたさ。今の者は天皇陛下様よりんまいもの食とるわ。でも麦めし粟めし食ふとったとき病気せなんだぞ。金時豆1俵と長鶉1俵うって、内地米の米1俵と換えたことあった。その米も金とりに働きに行くものだけ、家のものは麦とキビだけよ。砂糖なんて正月に黒砂糖あれば上々。



参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

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