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2017/04/28

屯田の頃5

早田ミシヨさん(明治23年生、屯田兵妻女)の話

 私8つで来ました。私の本当の名はミスヨというのでしたが、私たちの班の班長さんが山形県の人だったので、スをシと間違いてミシヨになったのです。

 私の国は広島県です。そして九州の人のところへ家に行ったんです。九州の久留米の人のところへ17のときでした。

 はじめ4月に来るはづだったのが9月になったでしょう。それからあっちこっちで兵隊をひらって(拾って)来たでしょう、だからおそくなってしまって、着いたときは何もないでしょう。カイベツとったあとのいらんところの青いところだけ残っているの。そういうところもらって、お汁のみにしたり、母親がないので父親がイモの屑もらって皮もむかんでおやつにゆでておいてくれて、それ重箱に入れて大事にしていただきました。それが今きくとさきの藤沢さんの帯になったのでしょう。私が8つ姉が12でしたが、その2人が家にいてご飯支度をするんでした。鍋なんか1人でもたれんから、2人が両方からつるもってかけたり、はづしたりして、ごはんたきしたんです。そのご飯もおひるだけお米で、あとは色々イラクサや何か入れたお粥ですもの。蕗がでれば蕗を刻んで入れて、お粥をすゝって大人は開墾に出たもんです。戸主さんは兵隊に行くし。学校はそんなありさまですから、行ったり行かなかったり、時々行く程度でしたが、別にやかましくもありませんでした。それでも時々やってもらいましたから、何とか仮名だけは用が足りますが。何しろあついところから寒いところへ来たものですから、寒さが一番こたえました。山形県の人は綿入れなんかを着ますが、吾々は綿の入ったものといったら袖無だけよりないのですもの。せいぜいあわせか単衣でしょう。もう寒くなると山形の人が綿の入ったの着てあるくの見るとけなるくて(うらやましくて)つくってもらいたくとも母親はいないし、子供2人ですもの、母親は4月に来るといったが、9月までのびている間に亡くなったんです。今更やめるわけにもいかず、父親もこまったでしょう。

 網走では又十の倉庫に泊って、そこからは雨にふられてふられて、一寸そこまでだというので父親は柳行李を背負って、私達はもんぺもないし、尻をはしょっておこしだけでビジャビジャビジャビジャ歩いて、端野のお寺に夜ついて、びっしょり濡れたの着換えはないし、父親が火鉢ですっかりかわかして、それまた着て次の日こゝに着きました。どこが家があるんだか、木と葡萄蔓がからまって何も見えんのです。ヒョコヒョコと人が出てくるから、あらっこんなところにも家があるのかと思いました。戸主さん達でも夜になったら家から出られませんでした。用は窓から窓へどなって連絡したものです。まアまア麻の中に家たてたようなものさね。それ百姓だけでなく、ソーメン屋もあれば染屋もあるというのでしょう。そんなだから、大きな木なんかしばらく立ったまゝでした。

 この通11軒ありましたが皆国がちがふんでしょう、まづ言葉がわからんで、お前馬鹿だといわれても、ハイハイと返事するよりないんです。本当にまア。

 大きな炉に丸太入れて火たいて、それに腰かけてあたるんです。カンテラとぼしてね。塩なんかも真黒でね、それでもこんどの戦争中のよりはいかったね、砂まじってなかったから、あれなら味噌も何もたけなかった。

 イタヤの汁とってなめましたよ、ガンガンを木の傷にのところにさげてね。

 たのしみといふと冬になると旅芸人といっても、祭文かたりの少してのいゝようなの来て、一冬いたこともありました。色々な芸やってね、そんなものでしたよ。それから2区と3区の戸主さんたちで芸のすきな連中が合併して10人位が壮士芝居をして網走の方まで行って来たのありましたよ。まだ日露戦争の前でした。上手にやるとハナを投げたりしましてね。


参考文献
札幌中央放送局放送部『屯田兵~家族のみた制度と生活~』、昭和43年5月

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