2017/04/29

守谷武文葬祭詞

守谷武文葬祭詞 折口信夫 昭和十四年二月「院友會會報」第十四年第二号

「声やめよ、虚空(オホゾラ)のあまびこよ、声やめよ、み山のこだまよ」
われどちが此のる声の、きそ行きて今日も還りまさぬ守谷武文ぬしの遠世(トホヨ)の耳にとほり到るを障(サヤ)ることなく、おのも〈声ひそめて、われどちと共に、このよき人のよかりし一世(ヒトヨ)の言語(コトガタ)りするを聴けかし。
守谷武文大人の命、夙(ハヤ)く東京に生ひ立ちて、都のてぶりに馴れつゝ、しかすがに尚、父母の旧国(フルグニ)の国ぶりを忘れ失ふことなく、年若くして、麹町なる國學院大學に、この国の古ごと学びの学生(ガクシヤウ)となり、道の博士々々に問ひ明めて倦むことなかりしそのかみ、又海の外、近き東洋の国々の行くすゑ、心にしみて思ふこと深かりしかば、東京外國語學校支那語科に学びの二年をさへ過し給ひつ。
み雪降る国の国びとのたつきの様の見まほしさよと常申し給ひしかば、即行けと赴け給ふ師のみ言のまに〱、高志の道福井中學校教諭となり行きしを初めに、やがて還り来まして、東京府立第一商業學校教諭、建安商業學校教授としていそしみ給ふまに〱、家事(イヘゴト)見る人なくてはと言ふ人言(ヒトゴト)によりて、光子の刀自よびとりて家内(ヤヌチ)いよゝ照り栄えき。
大正十四年八月、大人の才大人の人がらを知る人の心によりて、迎へられて学問のふるさと國學院大學に帰りて、教務のわざに携ることになりしより、こゝぞおのが身のつひのすみかと、ねもごろに思ひ定め給ひて、人の楽しむ娯しみにも、人の遊ぶ遊び事にも、まじはることなく、誘惑(ヲコジク)する者にもおびかゝることなく、ひたぶるに、この大学の弥栄えに栄ゆかむ時の盛りを、いつしかも見てしがと努め緊り給ひき。
其間(アヒダ)に生みの子の四人(ヨタリ)五人(イツタリ)弥殖(フ)え行き、族(ウカラ)拡(ヒロ)りにひろりて、家のすぎはひ事足らずなり行くにも、歎息(ナゲキ)することなく、貧しきこと訴(ウタ)ふる刀自の君を叱りはげまし、乏しきに堪へて日の本のやまとの国の旧(モト)つ教へを、愈世人(ヨヒト)に教へさとさまくはげみましゝを。
ことし七月、國學院大學主事として、教務専(アヅカ)り行ふ教務課長になりのぼり給ひしかば、知るひとのこと〱、そのところえて、理想を遂げむ日の到れることを喜びことほぎ、大人も亦然思ひ給へりけむを。
国の外(ト)には戦ひ進み、国内(クヌチ)は照りはたく八月、九月過ぎ、十(ジフ)月秋催すまゝに、大人のみわざいや緊りに緊り、いや進むに進むこと、山河の激(タギ)ちの水の猛(チハヤ)きが如、唯三月のほどになり整ほり行く教務課の様、われどちは見驚き、大人も亦ひとり笑みましけむを。
十一月に入りて、来む年の学事(ガクジ)の予業(アラマシ)、内外(ウチト)の事いよゝ繁くなり行きて、憩ふ間だに惜しみ給ひ、立ちては居、居ては立ち、心のどけき一日一時(ヒトヽキ)もなく勉め給ひしを。
廿日(ハツカ)あまり八日(ヤカ)と言ふ日、ゆくりなく病み出で給ひしかど、尚学校の事繁きに、心ふり起し出で立ち給ひしが、心悩ましく身は疲らして、遂に起ち難くなり給ひき。
芝なる東京病院に移しゝ頃は、病重りに重りて、癒さむすべは、夙(ハヤ)く絶え居ぬ。大汝(オホナムチ)、少御神(スクナミカミ)の
活薬(イククスリ)もがも。今一(ヒト)度ありし日ながらに起き出で給へと、われどちをぢなき心に祈りしものを。
あはれ大人の命や。おのが命の既に迫れるを知り給ひて、言ひ出づる言(コト)ぐさの一言(コト)だに、國學院大學の運命に繋(カヽ)らぬことなく、ひたぶるにこそ丈夫(マスラヲ)さびて宣り出づる語(コト)のよろしかりしか。
かくしも俄かに此世去り給ふべしや。
十二月十七日午後一時半と言ふに、うつし国離れ、かくり身にかへり給ひき。大人とわれどちとの間に、大きなる虚(ムナ)しきものはるかにたゝなはりて、ことゝひかはすすべ知らずなれり。
守谷武文大人の命。
いまし命の此れの世に遺し給ひしいそしみのあとは、いや久に、いやとこしへに、我どちの心に活きて、國學院大學の古くして、弥遠長き使命は、われどちなし〈てなし了へざる所あらむには、われどちの後に出で来(コ)むともがら、又大人にならひて、努めいそしみなし遂げなむものぞ。
遠世の耳安らかに、今しは、この申すことをうべなひ、心おだひに、しづまり給へと申す。



この祝詞は『折口信夫全集27巻』(中央公論社、平成9年)によります。

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