2017/05/09

神の祟り

 古い記録に残る、神様が祟った話です。

 はっきり言って、神様は怒ると怖いです。

 祟ります。

 こんな脅すようなことを言うと怪しげな宗教のようですが、神様がどんな風に祟ってきたのか古い伝承を知っていれば「祟られてるからこれ買った方がいいよ」なんて言葉にも冷静に対処できるかもしれません。

 何でもこのタタリという語、もともとタツ+アリで、(超自然的なもの・ことが)顕現する、立ち現れること、を示すそうです。

 それでは、具体例をあげていきましょう。

『播磨風土記』の揖保郡の記事には、こんなくだりがあります。

神嶋と称す所以(ゆゑ)は、此の嶋の西に石神在(いま)す。形、仏像に似る。故(かれ)、因(よ)りて名とす。此の神、顔に五色の玉有り、又胸に流涙有り、是も亦五色なり。

神嶋(現在の上島)と称する理由。この島の西に、仏像のような形をしている石神がいらっしゃって、そこで神嶋という名前なのです。この神様は、顔に五色の玉がはめこまれていて、胸には涙の流れた跡があってそれもまた五色です。

泣ける所以は、品太天皇の世、新羅の客(まれひと)来朝せしとき、此の神の奇(く)しく偉(たけ)きを見、非常の珍玉と以為(おも)ひて、其の面色(おもて)を屠(ほふ)りて、其の一つの瞳を堀る。

泣いているのはなぜなのでしょう。応神天皇の頃、新羅から旅人が来日したとき、この神が珍しく、すばらしいのを見て、これは立派な玉だと思い、その顔を削って瞳にはめこまれていたものを取ってしまいました。

神、由(よ)りて泣き、是(ここ)に於て大(いた)く怒れば、即(すなは)ち暴風を起し、客の船を打ち破りき。高嶋の南浜に漂ひ没(しず)みて人悉(ことごと)く死に亡せき。

それで神様は泣いて大いに怒り、すぐさま嵐を起こして旅人の船を難破させました。船は島の南に沈み、乗っている人はみな死にました。

乃(すなは)ち其の浜に埋(うづ)む。故、号(なづ)けて韓浜(からのはま)と曰(い)ふ。今に其の処を過ぐる者、韓人(からひと)と言はず、盲の事に拘(かかは)らず。

そこで南の浜に埋めたので、韓浜といいます。今そこを通る人は、「韓人」と口に出して言ったり、目が見えないのを話題にすることもありません。

 この話での神の祟りは、現代の私たちにも分かりやすいですね。「新羅の客が神像から玉を削り取った」ことが神の怒りに触れ「乗船を難破させた」と、理由が明確に示されていますし、因果関係がすっきりしています。

『日本書紀』巻二十六、斉明天皇の御代には、こんなことがありました。

七年五月癸卯(九日)、天皇朝倉橘広庭宮に遷り居(おは)します。是の時に、朝倉社の木を斮除(きりはら)ひて、此の宮を作る。

(斉明天皇の)七年五月九日、天皇陛下は浅倉橘広庭宮にお遷りになられました。この宮は、浅倉神社の木を伐採して建てられました。

故れ、神忿(いか)りまして、殿を壊(こぼ)つ。亦宮中に鬼火見(あらは)れぬ。是に由りて大舎人(おほとねり)及び諸(もろもろの)近侍、病して死ぬる者衆(おほ)し。

 それで神様がお怒りになり、御殿を壊しました。また宮中には鬼火が現れました。また、神の怒りが原因で、大舎人や近臣たちのうちでも病死する者が多かったのです。

 同じく巻二十九、天武天皇の御代には……。

朱鳥元年六月戊寅(十日)、天皇の病を卜(うらな)ひますに、草薙剱(くさなぎのつるぎ)に祟れり。即日(そのひ)尾張国の熱田社に送り置かる。

 朱鳥元年六月十日、ご不例であられる天皇陛下の病気を占い申し上げたところ、草薙剱の祟りだと判明しました。その日、すぐに尾張国の熱田神宮に送られ、安置されました。

 斉明天皇の御代の記事は、神社の木を切ったから祟った、と分りやすいですが、天武天皇の御代の記事はどうでしょうか。神様の祟りではないじゃないか、と思われるかもしれませんが、草薙剱はいわゆる「三種の神器」のひとつですし、剣の神様や剣を抜いたときの音から生まれた神様もいらっしゃいます。

 残念ながらこちらは「木を伐ったから」のような明確な理由がありませんけれど、この上ない聖なるものを宮中に置いておくべきではない、という考え方があったようです。

 時代は前後しますが、同じく『日本書紀』崇神天皇の六年の記録。

天照大神・倭大国魂二神を、並(とも)に天皇の大殿の内に祭(いは)ひまつる。然れども、其の神の勢を畏れて、共に住みたまふに安からず。

 天照大神・倭大国魂二神を、いっしょに天皇の大殿の中でお祭りしていました。しかしながら、その神様たちの勢はおそろしく、お祭りするのが不安でした。

故れ、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託(つ)けまつりて、倭の笠縫邑(かさぬひむら)に祭(いは)ひまつらせたまふ。

 そこで、アマテラス大神を豊鍬入姫命に託して、笠縫邑で祭らせました。

 伊勢の神宮の起源説話のひとつであります。なお、倭大国魂二神も別な方に託され、宮中の外で祭られるようになります。

 本文には鏡とは書かれていませんが、ご神体の御鏡を姫命に託されたのでしょう。また「託」に「ツク」と訓が施されているあたり、学生時代ちょっと気になって先生に質問したことがありました。

 ツクは「憑依」の「憑」と同じで、ここでは大神がシャーマン的に、姫命に乗り移った状態で移動したのでしょうか、と。先生はそうだろうと仰っていたのですが、今考えてみると単に御鏡を奉じて移動したとしても不自然ではないような気がします。

 それはともかく、崇神天皇としては神々のパワーがすさまじいので、お祭りする上で粗相があってはならない、とお考えになったのでしょう。草薙剱の場合も、事情は同じだったと考えられます。

 つづいて『常陸風土記』の久慈郡の条。

東の大山を賀〓(田+比)礼之高峰(かびれのたかね)と謂(い)ふ。即(すなは)ち天神(あまつかみ)有(ま)す。名(みな)を立速日男命(たちはやひをのみこと)と称(まを)す。一名(またのみな)は速経和気命(はやふわけのみこと)なり。

 東の大きい山をカビレの高峰といいます。そこには天つ神がいらっしゃいまして、立速日男命、またのみ名を速経和気命と申します。

本天より降りて、即(やが)て松沢の松樹の八俣の上に坐(ま)しき。神の祟、甚(いと)厳(おごそか)なりき。

 天から降ってすぐの頃、松沢の松の枝が広がったあたりにいらっしゃいました。

人有りて向きて大小便(くそゆばり)を行(ま)る時は、災を示し疾苦(やまひ)を致さしめしかば、近側(かたへ)に居る人、毎(つね)に甚く辛苦(くるし)みて、状(さま)を具(の)べて朝(みかど)に請ひまつりしかば、

 人がそこにいて大小便をするときは、災いを示してその人間を病気にするので、近くに住む人はいつもひどく苦しんでおり、状況を述べて何とかして欲しいと国司のもとに訴え出たので、

片岡大連(かたをかのおほむらじ)を遣(また)して敬ひ祭らしめて、祈(の)み曰(まを)さく、

 片岡大連が派遣され、このようにお祈りしてお祭りしたのです。

今、此処(ここ)に坐(いま)さば、百姓(おほみたから)近くに家(いへゐ)して、朝夕に穢臭(けがらは)し。理(ことはり)、坐(いま)すべからず。宣(よろ)しく避(さ)り移りて高山の浄き境に鎮(しずま)りたまふべし、と、まをしき。

 今ここにいらっしゃると、皆の衆の家が近く、いつも汚いです。こんなところにいらっしゃっていては、いけません。どうかここを去って、高い山の清らかなところにお移りください。

是(ここ)に神、祷言(ねぎごと)を聴きたまひて、遂(つひ)に賀(田+比)礼之峰に登りたまふ。

 ここで神様はお祈りごとをお聞き届けになり、結局カビレの峰に登りなさったのです。

其の社は石を以て垣とす。中に種属(やから)甚多(さは)なり。併(また)、品(くさぐさ)の宝・弓・桙(ほこ)・釜・器(うつはもの)の類、皆石と成りて存(のこ)れり。凡(およ)そ諸の鳥の経過(す)ぐるものは、尽(ことごと)に飛び避(さ)りて、峰の上に当ること無く、古より然(しか)あり、今に為(な)りても亦同じ。

 そのお社は垣根が石でできており、神様のご眷属さんもたくさんおります。また、いろいろな宝・弓・桙・釜・器がみな石の状態で残っています。およそどんな鳥でもこの上を通過することはありません。昔からそうで、今となっても同じです。

 今回の祟りも、当り前といえば当り前ではないでしょうか。原因は、人間が近くに住んでいて、神様の近くで大小便をすることさえあるせいでした。

 また、本文中の片岡大連さんの(「大連」は役職)「祷言」は本人が「理」という字を使っているようにちょっと理が勝った内容ですが、興味深いです。神様に申し上げる言葉なので当然祝詞といえますが、似たフレーズが『延喜祝詞式』にもあるのです。

今、此処に坐さば、百姓近くに家して、朝夕に穢臭し。理、坐すべからず。宣しく避り移りて高山の浄き境に鎮りたまふべし【本文再掲】

此の地(ところ)よりは、四方(よも)を見霽(みはるか)す山川の清き地に遷り出で坐して、吾が地と宇須波伎坐(うすはきま)せと……【遷却祟神祭】

【大意】この場所にいらっしゃるよりは、見晴らしのよい山や川の清らかなところにお移りくださいまして、自分の土地と領知なさいませと……

 言葉はあまり似ていませんが、移ってくださいとお願いしている場所が「浄き」または「清き」と、ほぼ同じです。

 でも、何というのか、開発が進むとともに(清浄な場所とはいえ)神様を遠くへ追いやるといったような、そんな現代に通じるテーマもうかがえます。また、こうした発想は、理由ははっきりと申し上げられませんが、小国家があちこちにあった時代から律令制がしかれるようになるまでの間に、徐々に醸成されていったものなのでしょう。

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