本日の北見市相内町は快晴、身体をちょっと動かすと汗ばむくらいの陽気でした。参道にたくさん散らばっていた桜の花びらのピンク色が茶色に変わったので、大掃除したところ、けっこう草が生えていたので、草を抜きつつ掃除、これから秋までのあいだは草との格闘です。
毎春まずキタコブシ、つづいて桜、ほぼ時期を同じくしてツツジやサツキが咲き、まだ花盛りの木もあります。画像は毎年今頃、御社殿裏手でひっそり咲いている、おそらくエゾノコリンゴ(蝦夷の小林檎)だと思いますが、違うかもしれません。
隣接する公園ではタンポポが満開。市の保護樹になっているヤチダモの木の上にも青空がひろがっていました。
さて、きのう一昨日と話題にしてきた斎田点定の儀、きょうでネタ切れなので一段落です。きのうに引き続き、寛延元年(1748)8月25日に行われた際の史料から、式次第の部分をご紹介します。
ひとつここで、皆さんにお詫びしなければならないことがあります。斎田点定の儀としてご紹介してきましたが、この名称は大正度の大嘗祭以来で、それ以前は国郡卜定の儀と申しました。きょうまでお伝えした記事についても、細かく申しますと国郡卜定の儀です。
では寛延元年にもどりまして、原文そのままだと何のことやらわかりませんので、史料を現代語にし、順をおって説明いたしましょう。したがって文責は小職にあります。もしかしたら、解釈が誤っているかもしれませんので、あしからずご了承ください。
①亀の甲羅を初め祭具の入った箱を持って、祭員一同、祭場に入ります。箱は今回の報道で映像として写されたものとほぼ同様ではないかと思います。
②合図とともに、まず悠紀の国を占う者が箱を引き寄せ、亀の甲羅を箱から二枚とりだして並べます。
③次に、竹、木、火ばしなどをとりだして置き、それから主基の国を占う者に箱をわたします。
④主基の国を占う者が、同様に亀の甲羅、竹、木、火ばしをとりだします。
⑤中臣祓を奏上します。これは、こんにちの大祓詞とほぼ同文です。
⑥祭文を奏上します。
⑦亀の甲羅、竹、木を手にもち、まじないの言葉を唱えます。
⑧亀の甲羅を置き、ははかを火にくべます。ははかはウワズミザクラのこと。細く裂いた約15センチの皮つきのものをつかいます。
⑨さまし竹を一枚とって、まじないの言葉を唱えます。その場にみな集まり、座ります。甲羅を焼くと油が出ますので、灰や水をかけます。それを払うのにつかうのが、さまし竹。長さ約24.8センチ、幅約8センチです。
⑩亀の甲羅を火にあぶり始めるときの唱え言葉があります。それを唱えながらまず裏からあぶります。
⑪三種祓を唱えつつ、甲羅を何十回もあぶります。三種祓はネット上でもかんたんに本文を読むことができますので、検索の上ご参照ください。
⑫こうして二枚、あぶり終わったら、甲羅に炭をぬります。
⑬竹に水を少々そそいで、昇神の詞を唱えます。
⑭主基の国担当の者が竹、木、火ばしなどを箱におさめます。ついで亀の甲羅を箱におさめ、悠紀の国担当の者にわたします。
⑮悠紀の国担当の者は、亀の甲羅、計四枚をふたつにわけて紙でつつみます。それから竹、木、火ばしを箱にいれます。
⑯斎主の前に亀の甲羅を置き、結果を見てもらいます。
⑰斎主が悠紀の国担当の者を呼びます。悠紀の国担当の者は亀の甲羅を受け取り、もとの位置にもどってから箱におさめます。
⑱祭員一同退出。
上記の文中にある唱え詞と祭文は、きのうご紹介したとおり。
寛延元年(1748)の次第は、明和元年(1764)8月24日、文政元年(1818)4月24日、嘉永元年(1848)4月24日に行われた際も踏襲されました。寛延度は桃園天皇、明和度は後桜町天皇、文政度は仁孝天皇、嘉永度は孝明天皇の大嘗祭のために、この儀が行われました。この間、明和から文政の間には、安永度の御桃園天皇、天明度の光格天皇の大嘗祭がありましたが、この二度に関しては上のような次第であったかは不明です。
ネット上では、元文か明和期に書かれた 国郡卜定次第 や、それとほぼ同内容ながら、明和の大嘗祭のおりの記録である 禁裏御所御用日記 (218コマ以降)を見ることができます。祭文等はのっていませんが、こちらの方が式次第については詳しいです。
大嘗会儀式具釈 (7コマ以降)では、元文の大嘗祭のおりの次第について、荷田在満が注釈をくわえており、活字ですので古文書が苦手な方にはおすすめです(ただし古文です)。
活字でも古文はちょっとという方には、おおまかなことしか書かれていないのですが、御即位大嘗祭大礼講話 がおすすめです。昭和の大嘗祭前に刊行され、明治の国郡卜定の儀については、リンク先の 57 コマ以降、大正の斎田点定の儀については 、同じく93 コマ以降に記述があります。
〈斎田点定の儀については、これにて一段落〉
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