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2019/05/17

祝詞文中の最高敬語

 こんにちは。本日の北見市相内町は晴れ、でも風が強めで国旗がはためいています(小さいですが画像の中央)。国旗掲揚塔のすぐむこうは桜、右側の白樺の木は最近、ずいぶん葉が繁りだしてきました。
 昨日初めてエゾハルゼミの声を聞きました。このあたりではセミの声は夏ではなく、春にきくものなのです。ヒグラシのような鳴き方で、ヒグラシよりやや低い声で鳴きます。
 それでは今日の本題。

【この記事を、おおまかにいうと】
▲祝詞の中で最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」を用いることの是非について。
▲神社本庁から今回送付されてきた例文では、天皇にご祭神より敬意を払うべき、ということになる。
▲小職は延喜式祝詞以前のように、最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」を用いない方がよいと考える立場。
5/30 舌足らずなところを加筆修正しました

最高敬語とは


 先日このブログで指摘しましたように(御大礼にあたっての辞別祝詞)、神社本庁より今回送付されてきた祝詞の例文には、敬語のつかい方に疑問点がありました。いわゆる最高敬語「~せ給ふ」「~させ給ふ」を、天皇にのみ用いている点です(それが不徹底であるのは今回あえて目をつぶりますが、それにしても気にかかります)。

 最高敬語平安時代にうまれ、天皇および皇族を初め、特に尊ぶべき存在に対して用いていたものです。尊敬語をふたつ重ねてつくり(みっつと考えられるものもあります)、尊敬の助動詞「す」「さす」に「給ふ」をつけ「~せ給ふ」「~させ給ふ」のかたちをとるのが代表例です。

 今回の例文では他に「看行(みそな)はす」がでてきています。もともと「見す」に「行はす」がくっつき「見そこなはす」から「見そなはす」となりました。「見す」と「行はす」の「す」が尊敬の助動詞、かたちはかわっていても、もとはふたつつかっていた、というわけです。 

祝詞で最高敬語をつかうと


 最高敬語を祝詞の文中で用いるとき、天皇と、その祝詞を申し上げているご祭神とのあいだに、どうしても上下関係ができてしまいます。より正確には、祝詞の作成者(もしくは奏上者)が、天皇とご祭神と、どちらにより敬意を払うのか、その態度がはっきりしてしまいます。今回の神社本庁の祝詞でしたら、天皇の方がご祭神よりも上です。

 このことの是非はどうなのでしょうか。つぎの五パターンがあります。

①天皇にも、ご祭神にも最高敬語を用いる。
②天皇には最高敬語を用い、ご祭神には用いない。
③ご祭神には最高敬語を用い、天皇には用いない。
④天皇にも、ご祭神にも最高敬語を用いない。
⑤文脈しだいで用いたり、用いなかったりと区別しない。

 今回の例文は前述のように、おおむね②の立場。あるいは⑤かもしれません。

 祝詞の作成者の信じるところにしたがい、天皇がご祭神より上と信じるなら②、ご祭神が天皇より上と信じるなら③。上下関係がないとするなら①か④です。意識せずに⑤となっているなら論外ですが、じぶんの中で基準をきめて⑤の立場をとる、ということもありそうです。

 ただ、前述のように一か所だけ、ご祭神に「看行(みそな)はす」と申しており、ここで最高敬語をつかっています。多数決ではないですが、例文ではほかに最高敬語にしていないあたりが、どうしてもひっかかります。

最高敬語をつかう場合の問題点


 上記のようなこと考えた場合、非常に難しい問題が出てきます。

 明治天皇がご祭神の神社は、どう考えればよいのでしょう。明治天皇と今上陛下とのあいだに上下関係をつけることじたい、そもそも不敬な気がします。祭祀は高天原の始原のすがたを再現するものなのだから、そのときの天皇は皇孫、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の資格をお持ちだとする考え方もあります。ご祭神が天照大御神とすると、最高敬語のつかい方いかんによって、お孫さん(瓊瓊杵尊)の方が上のような書き方になってしまいます。これみな、上の②③⑤の立場をとると、当然出てくる悩みです。

 御代替わりの佳節だから、奉祝の意味で最高敬語を用いるという考え方もあるでしょう。しかし、今後ある時期からまた用いないようにするのもどうかと思いますし、これまでその祝詞の作者が用いていなかったとしたら、整合性がとれません。皇位の継承を尊んでのことだとしても、御代替わりの機会にだけ尊ぶようでスッキリしません。

小職の私見


 小職はおおむね④の立場です。天皇と神様が平等、と考えるからではありません。そのような判断をすることじたい不敬と考えます。

 おおむねというのは「看行はす」ならばよくつかっていますし、もっともひっかかるのが最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」の取り扱いだからです。ですので、条件つき①ともいえます。

 これらの語形は最初に申し上げたように平安時代にあらわれたもので、延喜式に所載の祝詞の多くは、それ以前に成立しました。

 もっとも、延喜式祝詞を見ていると、こんにちのわれわれから見て当然、敬語をつかうべきところで、つかっていないことがままあります。そうした箇所に敬語を補いつつ参照して、できるだけ平安時代より前の語彙・文法を用いて祝詞を作成したい、というのが小職の立場です。

最高敬語のつかい方・テスト


 最後に、今回の「御大礼にあたっての辞別祝詞」につき、最高敬語「~(さ)せ給ふ」「~しめ給ふ」をつかえるだけつかった場合と、まったくつかわなかった場合とをあげてみます。「~(さ)せ」と「~しめ」は同時につかうことができず、同じ意味ですのでここは「~(さ)せ給ふ」の方でやってみます。

 誤用は修正済み、「稔り足らはしめ給ひ」「畢へしめ給へ」の「しめ(しむ)」は使役の意味ですので、助動詞「せ(す)」「させ(さす)」とはいっしょにつかえません。つまり、ここは最高敬語にできません。

〇つかえるだけつかった場合
辞別きて白さく、畏くも天皇には今年十月の吉日に即位礼執り行ひ、十一月の吉日に大嘗祭をも、厳しく 斎ひ行はせ給ふ事の由を仰せ出して、古の法の随に、神卜に卜はせ給ひし程に、この(都道府県)を悠紀(主基)の地方と勅定めさせ給へり。かれ、県内挙りて 厳の誉れと喜び祝き奉りて、仕へ奉る状を、愛ぐしと看行はし、大神たちの大御稜威以ちて、県内隈なく祓へ清めさせ給ひて、悠紀(主基)の の奥つ御年を初めて、県内より献らむ海川山野の種々の 物実をも、浄く清しく豊かに稔り足らはしめ給ひて、天皇の大御代に一度の御大礼を厳しく美はしく畢へしめ給へと、恐み恐みも白す

〇つかわない場合
辞別きて白さく、畏くも天皇には今年十月の吉日に即位礼執り行ひ、十一月の吉日に大嘗祭をも、厳しく 斎ひ行ひ給ふ事の由を仰せ出して、古の法の随に、神卜に卜へ給ひし程に、この(都道府県)を悠紀(主基)の地方と勅定め給へり。かれ、県内挙りて 厳の誉れと喜び祝き奉りて、仕へ奉る状を、愛ぐしと看行はし、大神たちの大御稜威以ちて、県内隈なく祓へ清め給ひて、悠紀(主基)の の奥つ御年を初めて、県内より献らむ海川山野の種々の 物実をも、浄く清しく豊かに稔り足らはしめ給ひて、天皇の大御代に一度の御大礼を厳しく美はしく畢へしめ給へと、恐み恐みも白す

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