本日の北見市相内町は快晴、神社裏のグランドでは野球をしている人がいました。タンポポがいっせいに花開いていて、北海道の春らしい風景になりました。画像は社務所裏からで、この桜が例年いちばん咲くのが遅く、最後まで咲いています。
さて、きのう午前「斎田点定の儀」が皇居内の神殿の前庭にて行われました。神殿は宮中三殿のひとつで、八百万の神をお祀りしています。南側から拝すると、中央が賢所、向かって左が皇霊殿、神殿は向かって右になります。この斎田点定の儀では、亀卜をもって「悠紀国」と「主基国」を決定します。おおむね東日本から悠紀国、西日本から主基国を選び、この両国でとれた米などを、今秋の大嘗祭で供します。
亀卜は亀の甲羅を伸ばしたものをあぶり、その亀裂のぐあいで占うというもの。今回は、昨年秋、東京都小笠原村をつうじてアオウミガメの甲を確保し、都内のべっこう職人に依頼して加工したそうです。縦24センチ、横15センチ、厚さ1.5ミリで、将棋の駒のような形状にしたとのこと。厚さ1.5ミリって、すごいですよね(この亀情報は、以下のサイトを参考にしました FNN PRIME)。
画像はわが家の亀です。これはクサガメ(ゼニガメとも)で、今年満17歳。けっこう成長しましたが、残念ながら亀卜には適さないようです。
さて、このサイトではテレビで報道された内容そのままに「こんな亀裂がでたから、どこそこの国」と、その判断する方法は非公開だ、といっています。「でも恐らくこうではないか」と専門家の方が仰っている内容も説得力がありました。
このように占い中心の儀式ですから占いじたいが注目されましたけれど、宮中三殿の神殿前で行われていますし、これも神事であることは、疑いようがありません。実は、宮内庁が隠したいのは神事の次第の方じゃないかと勘繰るのですが、これも非公表でしょう。
ただ、上記の亀卜のように古い資料がありますから、そこから「現在もほぼこうではないか」と推測することができます。そして小職はその古い資料をなぜか、たまたま持っておりまして、ちょっとだけ公開しようと考えた次第であります。
明治4年の記録では、ご祭神は太祝詞命と久慈真智命(くしまちのみこと)で、神籬に両神をお招きします。実際に亀の甲羅を火にあぶる前後の次第しかこの記録にはないのですが、卜部が祝詞を奏上。祝詞の内容から、お供えもします。亀の甲羅をとりだしたあとには、身曽貴祓詞を奏上します。「正笏して祓詞(身曽貴祓詞)を読む」とありますので、奉書紙に書かれたものを読んだのではなく、暗誦していたんでしょう。
このとき卜部が読んだ祝詞を、書き下し文にしてみます。文中「太祝詞命」が「大祝詞命」になっているのは、本文そのままです。
掛け巻くも恐き大祝詞命・久茲真知命の大前に、卜部朝臣良義恐み恐みも白さく、掛け巻くも畏き天皇の御代の始めの大嘗(おおにえ)聞し食さむとして、皇神の大前にして、悠紀・主基の国郡を卜へしめ給ふ。かれ、御酒は甕の上高知り、甕の腹満て並べて、青海原の物は鰭の広物・鰭の狭物、奥つ藻菜・辺つ藻菜、甘菜・辛菜、菓どもを奉り置きて、斎き奉り卜へ仕へ奉らむことを見行はし聞し食して、皇神の大御心に御饌・御酒奉らむ、悠紀・主基の国郡を撰み定め給ひて、この卜事に出で示し給へと白すことの由を、高々に聞し食せと、恐み恐みも白す
【大意】心に思い掛けるのも恐れ多い、太祝詞命、久茲真知命のご神前にて、卜部朝臣良義が恐れながら申し上げますことは、こちらも心に思い掛けることすら恐れ多いのですが、天皇陛下が御代の初めに大嘗を召し上がりますとて、こうして尊い神様のご神前にて、悠紀・主基の国郡を占わせなさることとなりました。そこで、御酒は酒器をいっぱいに満たせて並べ、海の物は鰭の広いものと、狭いもの、沖合でとれる海藻、浜辺でとれる海藻。また甘い野菜、辛い野菜や果物をたてまつりましてお祭り申し上げ、占い申し上げることを、どうか神様たちにはご覧になり、お聞き届けくださいまして、天皇陛下に御饌・御酒を奉るであろう悠紀・主基の国郡を選び定めなさって、こたびの占いに神様たちのお心をお示しくださいませと、このように申し上げますことを、どうかお聞き届けくださいますようにと、恐れながら申し上げます。
原文では「天皇」「皇神」の前を一字分空ける「闕字」にしています。これは尊崇するものを示す語の上に、他の語を置かないように表記することで敬意を払うという、古式ゆかしい書式。
本職としてこの祝詞を読んでどう感じるかというと、まず現在の祝詞とそう変わらないこと、つぎに、簡潔ながら要点を押さえた祝詞だなあということです。
ただ、終わり方がちょっとくどいかなという気はします。「この卜事に出で示し給へと白すことの由を、高々に聞し食せと、恐み恐みも白す」は「この卜事に出で示し給へと、恐み恐みも白す」でよいのではないかと。お願いごとをしている語句ですから、こう遠まわしに申し上げるべきだ、という考え方なのかもしれません。逆に、現代のわれわれ神職は、昔の人から見るとズケズケと遠慮なく、神様にお願いしているのかもしれません。
「聞し食す」を「聞し食して」「聞し食せと」と、二度つかっていること、「掛け巻くも畏き」を二度用いているのは、修辞上の反復法ではありません。これらは単に不用意につかったものではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
この祝詞がいつ制作されたのかはわかりません。このとき初めてつくられたかもしれませんし、以前つくられた祝詞の、奏上者の部分だけ変えて(書き下し文の「卜部朝臣良義」の部分)読んだものかもしれません。ただ、現代の祝詞とそう変わらないわけですから、おおざっぱながら少なくとも江戸時代中期以降、と見てまちがいありません。というのも、寛延元年(1748)の史料では、また別の祝詞(史料内では「祭文」)が記録されているからです。
ちょっとこの話題、ひとつの記事として長くなりすぎました。日を改めてご紹介します。
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