※長文ご注意。
インターネット上の某所で一日ひとつ、豆知識を披露していることは、もうこのブログで皆さんにお伝えしていますところ、あきっぽい私が先月欠かすことなくアップできたのを記念して(?)ここにまとめて31日分、ご紹介する次第であります。
なぜ、こういうものをなぜ書こうと思ったかというと、子供のころによく読んだ学研「〇〇のひみつ」シリーズの影響があります。本をひらくとページの両はし、左右に縦書き一行で「まめちしき」が書かれていて、読むと何だか少しだけ賢くなった気分になれたものです。
下記の豆知識はそれより長く、ツイッターの制限字数の140字以内におさめるようにしましたが、いまのところツイッターには、あげておりません。「〇〇のひみつ」の「まめちしき」ほど短い字数で同様のことをやろうとすると、ほんとうにワンポイントになりますので、むずかしい。アフォリズムをつくるようなセンスが必要でしょう。学研のライターさん、すごい。
知っていたとて、どうということのない豆知識かもしれません。しかし、私じしんは、知識どうしが思いもよらぬところでつながり、ハッと気づかされることが数知れずありました。それに、すぐには役に立たないであろう知識をもとめる人の多い社会には余裕があり、余裕がある社会はすすんだ社会だと思っています。前置きが長くなりました。順番に意図したところはありませんので、どこからでも、よろしければご覧ください。
▼神武天皇紀によれば、天孫降臨から数えて神武天皇の頃までは、一七九万二四七〇年ほどたっていたという。伝統的な訓では、これは以下のようになる。ももよろずとせ・あまり・ななそよろずとせ・あまり・ここのよろずとせ・あまり・ふたちとせ・あまり・よおとせ・あまり・ななそとせ。
▼能の演目のひとつ『鉄輪』では、貴船大明神への願かけが成就し、生きながら鬼となった女が、自分を裏切った男をとり殺そうとする。結局、安倍晴明の術によって追い返されてしまうのだが、去り際の女の台詞は「時節を待つべしや、まずこのたびは帰るべし」。またくるということである。
▼憑神の代表格である犬神。愛媛県のある地方の伝承によると、犬神持ちの家では家族の人数と同じだけ犬神がおり、家族が増えれば犬神も増え、家族が減れば犬神も減る。犬神持ちの家は富み栄えるが、すべてが思いどおりになるわけではなく、ときには犬神に噛み殺されることさえあるという。
▼山どうしが争ったという伝説は各地にある。関東では赤城山の神がムカデとなって、同じく大蛇と化した男体山の神と中禅寺湖をめぐって争った。いくつかある伝説のバリエーションのうち、ムカデが勝つ話はない。それでも赤城山のふもとでは、ムカデを神と見てか、殺すことを忌む習慣があった。
▼伊豆の御蔵島といえばツゲで有名である。かつてツゲを伐採するのは男、搬出するのは女の役目となっており、用材をとる御山の八合目以上は女人禁制だったという。これを「ヤマドメ」と称し、禁を犯した者は米一升と銭百文を神社に納め、祓を修することとなっていた。米と銭は「祓つ物」であろう。
▼昔は新年の神を迎えるため、年神棚を設けることが多かった。松江市の一部ではこの年神棚を、大晦日の深夜になってから、人に見られぬように吊るすならわしだった。そのため子供の中には「正月様がくるとまず自分で棚をしつらえてから、そこにおさまるんだ」と思っていた者もあったという。
▼かつては「正月ことば」をつかっていた地方が各所に存在する。八丈島では一月四日までの間、日常語を特別なことばに言い換える習わしであった。例えば、僧侶をクロオロコまたはクロウト、猫はカワブクロ、患うことをイネツミ、月経はイトヒキ、死去はクニガエ、芋頭をマイタマなどといった。
▼六月三十日といえば夏越の大祓の日。この日に海または川へ牛や馬をつれてゆき、一日中遊ばせる地方が各所にあり、牛馬が丈夫になると信じられていた。またこの日を川の神や田畠の神の祭日としていたところが多いのを見ても、農耕と禊祓の接点の日といえる。その点が師走の大祓との違いだろう。
▼天武天皇は草薙剣の祟りによって病の床にふせられ、崩御された。祟りが発覚したのは朱鳥元年六月十日のことで、日本書紀にはっきり書かれている。草薙剣は天智天皇の七年、道行という僧侶に盗まれたのだが、このときも不可思議ないきさつを経て宮中に戻っている。
▼食べても食べても食べ足りない。これを昔、カワキノヤマイといった。山陰地方や四国では、爪を切ったものを火にくべるとこの病になるといった。長野県北安曇郡では、猫の毛を食うとカワキノヤマイにおかされるといったそうだが、そんなものを食う人がいたんだろうか。
▼仮に大祓詞の存在しない世界だったとして、神職養成課程に在籍中の学生が全く同じ文を祝詞作文の時間に提出したとしたら、少なくとも四か所、神明への敬意が払われていないとして、敬語が補われるはずである。なぜ敬語が抜けているか、誰も指摘していないし、その理由も不明である。
▼人が亡くなったとき、枕元に逆さ屏風を立てる風習は平安時代からすでにあったようだ。『源氏物語』や『栄花物語』にそんな描写がある。同じく枕元には燈台を立てるが、光が本人に当たらないようにする。死に顔を見るには、別に蠟燭をともす。近親者の衣をかけ、無言念仏を唱える。
▼日本では物忌の期間中、断食をする例は少ないようである。その数少ない例を、ひとつ。かつて千葉県安房地方には、九月二十四日は三食のうち一食だけしか食べないという風習があった。里見氏が滅びた日だからという。また、この日は麦の播きはじめをする日となっていたが、時季が早いので儀式的にひとつかみほど播いた。
▼厄祓というと節分に付随した行事のようになっているが、正月中に行っていた地方もあった。香川県仲多度郡では氏神詣でをして、その帰りに四辻で紙緒の草履を脱いでそろえる。その緒を小刀で切り、じぶんの年の数だけの銭を添え、投げ捨てる。この間、だれかに会っても口を聞いてはいけなかった。
▼鹿児島県頴娃地方では、かつて正月十五日の夜にその年初の粥を食べていた。世帯主は粥ができると鍋の中央部から一杯すくい、きれいな器に入れて床の間にあげておく。翌朝、粥のかたまり具合を見て、一年の吉凶を占った。いわゆる粥占である。したがって七草粥は粥とはせず、雑炊であった。
▼『古今著聞集』によると仁安六年六月、仁和寺近辺に住む女がこんな夢を見た。賀茂の大明神が現れ、最近の政治が不正だから外国に行くという。翌月上旬、今度は祝の久継という者が同様の夢を見た。その後どうなったのかは不明。当時は平清盛の全盛期だが、久継はこのときまだ生まれていなかったようである。
▼群馬県ではかつて、正月三が日の間に神棚にあげていた飯、汁、あつものを四日に下げ、皆いっしょに煮て家族の食事とした。お供えを下げることをタナサガシと称し、いっしょに煮たものをフクワキと呼んでいた。「棚探し」「福沸」の意味だろう。ちなみに鏡餅はフクデといっていたが、これは「福出」ということだろう。
▼江談抄によると、鹿肉を食べた日には参内ができなかったという。当時は正月三が日の間、餅に雉肉を添えて食っていたが、かつては鹿や猪の肉を添えていた。清涼殿の年中行事の障子には「獣」肉を食った日の参内を不可としており、それで大江匡房もどう折り合いをつければよいか悩んだようである。
▼大神宮棚はいつからあるのだろう。初代・辰見屋久左衞門が拾った金を大神宮棚にあげ、どうぞ落とし主に会わせてくださいと願をかけたところ、無事に会うことができたという話が『江戸禁談』にある。辰巳屋騒動なる事件が元文五年に起きており、これは数代目かの久左衛門であるから、少なくとも二百八十年以上前であるといえる。
▼怪談会で百話を数えると怪異が起きるとよくいわれるが、江戸時代の百物語を題材とする話では、参加者が幸福になったり、富を得たりする結末が意外に多い。武士などは胆力を練るために怪談の会を催したというから、その応報ともいうべきか。なお、近世の書籍は百物語と銘打っていても、百話ないものがほとんどである。
▼五月五日、子供が菖蒲を束にしたもので、地面を叩いて歩く風習があった。新潟県北蒲原郡では、村中をまわって最後は神社の境内で叩きおさめ、社殿のうしろの空地に埋める。もしくは屋根へ投げあげたり、川に流したりし、決して地上に置きっぱなしにはしない。となりの集落の子供と喧嘩して、負けると不作になるともいった。
▼クダンは牛から生まれ、人面牛身の姿。予言をしてすぐに死んでしまう。漢字では人偏に牛で「件」と書く。江戸中期に現れたクダンは豊作と疫病の流行を、先の大戦中は敗戦を予言した。吉凶をともに予言していたのが、凶事しか予言しなくなってしまった。ちなみに、小松左京『くだんのはは』に描かれているクダンは牛面人身である。
▼称徳天皇の大嘗祭のとき、道鏡がどう行動したかははっきりわかっていない。延喜式の規定を見ると、悠紀殿の儀の前に大嘗宮の南で拝礼の儀があって、諸臣はひざまずき、柏手をうつことになっている。道鏡はその一か月前に太政大臣に任じられているが、その場にいたかどうか。拍手をしたかどうか。
▼鼠小僧の墓は各地にあって、岐阜県各務原市もそのひとつ。大正十年頃、墓を移して学校を建てたところ、化学実験室で原因不明の火事が起き、さらに新築してまもなく、また全焼したことがあった。鼠小僧の祟りだとの噂が立ったので、所在不明となっていた墓を現在地に移して、ねんごろに供養したという。
▼仁明天皇の御代、葛野郡庁前(現京都府)のケヤキを伐って太鼓を作ったところ、ときどき遊行してきていた松尾の神が怒り、伐採者多数が死亡、関わった官人も落馬して怪我をした。洪水も起きたため、神威を恐れ太鼓を神社に奉納するとおさまった。後年、この太鼓が古びたので金具が売られたときにも祟りがあったという。
▼平成十九年度、國學院大學神道学専攻科における入試で「天下三戒壇」を答えさせる問題が出た。戒壇は僧尼が戒律を受けるための施設で、受戒すれば正式に僧尼となる。神職資格を得る課程でこのような知識が要求されたのは面白い。ちなみに「三戒壇」をもった寺は、東大寺、筑紫の観世音寺、下野国の薬師寺である。
▼本居宣長『玉勝間』の一節に「これいはゆるムスコビアなり」とある。ムスコビアはつまりモスクワのこと。その後、喜多村筠庭は『喜遊笑覧』に「むすこびあは魯西亜の旧都、莫斯哥(もすこう)是なり」と記述。江戸時代中期にはすでに、ロシア語風と英語風の呼び方の双方が伝わっていたようだ。
▼八重山諸島の漁師は団体で漁をして、とった魚を人に分配するとき、その分け前をタマといい、網主へやるのをアミダマ、船主へやるのをフナダマ、加勢の者へやるのをヒトダマといった。得た魚をサチではなく、タマというのがおもしろい。もっとも古代において、サチは分割できないが、タマは無限に分割できたもののようである。
▼かつて毎月一日には念仏を忌む風習があり、沙石集などに散見できる。同集所載の説話では、元日の祝いの膳を給仕していた女が思わず念仏を唱えたのを、不吉だとして主人が折檻を加える。だが、この女の身体には傷がつかなかった。この女の篤信を哀れんだ阿弥陀仏が身代わりになったのである。
▼戦前の神職資格「学階」。「学正」「一等司業」「二等司業」に分かれているうち大正十年度、二等司業の試験問題。祝詞作文で「北条時宗の霊を祀る詞」。一等司業では同じく「新井君美の功績を称ふる詞」。学正では「藤原百川を祀る詞」。一等司業と学正では傍訓も要求。なぜか日本史の知識も問われていたようだ。
▼律令制下における大嘗祭での潔斎期間は、長く見て一か月。それに対し、出雲国造の代替わりのときには二年もの間、厳重な潔斎をし、二度上京をして神宝を献じ、神賀詞を奏上していた。出雲国造の代替わりの方が、古式をとどめているといえる。日常の政務との兼ね合いから、大嘗祭といえど合理化をまぬかれなかったのだろう。
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