Translate

2019/09/05

ニホヒノフシギ

百物語 第八十三夜

ニホヒノフシギ


※怪談です。苦手な方はご注意ください。


 コウドウって知ってるか?

 香道……カオリのミチ、と書く。

 お香をたいて、それを嗅ぐ……ああ、嗅ぐなんてホントはいっちゃいけないんだ。

 お香は「聞く」もの。

 おれのおばさんが熱心でな。嗅ぐなんていっちゃ怒られるんだ。

 その、お香を「聞く」……これが大きく分けてふたつに分かれる。

 お香を聞いて「ああ、いいですね」と鑑賞する。つまり、ただ聞くだけだな。

 もうひとつは、そのにおいを聞いて、なんのにおいか当てるというもの。

 たくものはカオリのキと書いて、香木という。

 たまにおばさんがたくのをおれも聞くがな、なんともすばらしいにおいなんだぜ。

 鼻ですうーっと吸い込むと、えもいわれぬ……なんともいいがたいにおいが、身体の中へ中へと少しずつ広がってゆく。

 日頃のストレスなんてブッ飛んじまって、だんだん気持ちよくなるんだ。

 いちど、機会があったらやってみろよ。

 薬物じゃないからよ、変なことはないし……って、こんなこというとまたおばさんに叱られるか。

 チッ……なんだよ、そんな顔して。

 おれがいうことばにゃ、説得力がないって?

 ま、信じないでもいいさ。いっぺんお香を聞いてみたら分かるんだから。

 おばさんていうのは、オフクロの姉だ。

 バアサンも……オフクロの母親の方な、このバアサンもちょっとは齧ったらしい。

 どうもおれの母系の方に、代々香道をやってる人がつづいてるようなんだ。

 バアサンの母、これはつまり、おれにとってはひいバアサンだな。

 ひいバアサンの母、これは高祖母。

 母、母の母、母の母の母と……こんがらかってくるが、とにかく女の方に香道やる人が出る。

 いや、香道ってのは、べつに女性に限るんじゃない。

 男子禁制ってわけじゃないんだ。

 よいにおいを聞く、聞いてなんの香木かを当てるっていうのは、あまり男性的とはいえないかもしれないけどな。

 おばさんがついているお師匠さんのところへも、けっこう男が通ってるって話だ。

 とはいえ、お師匠さんていうのも、おばあちゃんらしいんだけどな……。

 それで、つい先日のことだ。

 稽古中に、お師匠さんがいったんだ。

 珍しい香木を手に入れたから聞いてみましょう、ってな。

 ああ、おばさんもそこにいた。

 ふつう香木ったら、伽羅、沈香、白檀……。

 ま、これが御三家だ。

 上物の伽羅なんて、聞いた瞬間にブッ飛びそうになるんだぜ……いやいや、こりゃいかんな。

 こんないい方。おばさんに叱られる……伽羅の上物なら、一グラムで軽く五万くらいはする。

 沈香や白檀ならうんと安いけれども、週にいちど集まって、においを聞く連中だぜ、もう鼻が慣れてしまってる。

 おばさんはな、てっきりこれは伽羅の上物だって思ったそうなんだ。

 お師匠さんがその香木とおぼしきものを懐から出して、

「貴重なものだから、心してお聞きなさい」

 そう注意して、香炉の中に香木をおいた。

 えっ? なんだって?

 おいおいおい、かんべんしてくれよ。

 線香じゃないんだから、直接火をつけるんじゃないんだ。

 いくつか方法があるが、基本はあらかじめ炭をおこしておいて、それを埋めるんだ。

 炭っていっても、タドンのことだからな……念のため、いっとくと。

 で、その上に銀葉っていうもんを乗せる。こりゃあ、雲母でできてるそうだ。

 こんな下準備をしてから、初めてその上に香木を乗っけるんだ。

 ああ、香木ってのは……ウッドチップってあるよな? あれくらいの大きさに切ってある。

 刻んでもっと細かくしたもんもあるけどな。

 さて、お師匠さんがみずから香木を灰の上にのっけた。

 なんともいえぬ芳香が、ほんのりと立ちのぼるはずが……。

 おばさんには、全然いいにおいじゃなかったんだ。

 ああ、むしろ変なにおいだった。

 てっきり伽羅の上物だと思ってたんだからな、その落差たるや推して知るべし、さ。

 苔がくさったような、古い家のカビやホコリが混じったようなにおいって、いってたっけ。

 おばさんが周囲を見ると、みんなうっとりしている……どれもよく知ってる顔だったからな、「ああ、これって本当はいいにおいなんだろう」ってことは分かった。

 さすがに、お師匠さんが貴重なものっていうくらいだからな。

 うん……おばさんは、じぶんの鼻がどうかしたって思ったんだ。

 回りはなんともないんだからな。そう思うのもわけはない。

 ただ、香木をたいた香炉がな……まわってくるんだよ。

 ふつう香を聞くときは、そうなんだよ。茶道の茶碗のように、香炉が順ぐりにくるんだ。

 で、ひとりずつ香を聞く。

 どうしよう、と思った。

 ひとり目の弟子が聞き始めると、香炉が近づいたからだろう……いっそうひどいにおいに感じられる。

 直接聞いたら、吐いてしまうかもしれない。その前に中座するべきだろうか。

 いや、そんなことはできない。お師匠さんがさっき、心して聞くよう申し渡したばかりではないか。

 そうこう思い悩んでいるうちに、となりの人が香炉を受け取って二度まわし、持ち上げた。

 おばさん、絶体絶命なわけだが……どうしたと思う?

 あんたなら、くさいにおいがするときって、どうするよ?

 ああ……そうさな。それが妥当なとこだろう。

 常識的なセンだ。

 おばさんも、現にそうした。

 香炉がじぶんの膝の前にまわってきたところで、口でおおきく息を吸い込んだ。

 それで、息を止めたんだ。

 ……こうしてなんとかやり過ごして、香炉がお師匠さんとところへと無事もどった。

 この日のお稽古が終わってからも、みんな興奮さめやらぬ様子で、ああやっぱり違いますね、分かりますかなんていってた。

 おばさんも、そうですね、本当によい香りでしたこと、なんて話を合わせてた。

 おばさん、ずいぶん打ち込んでたからなあ、ショックだったけれども、鼻がどうかなったに違いないって。

 今晩は早く休んで、まだ変なようなら病院に行かなきゃならない……。

 帰り支度をしてたらな、引き上げたお師匠さんがもどってきたんだ。

 で、おばさんにちょっと残って、といった。

 ああ、やっぱりバレたかあ……なにいわれるんだろうって心配になった。

 みんな帰ったあとで、お師匠さんと向かい合って正座。

 叱られる覚悟をしていたんだけれども、お師匠さんがこんなことをいったんだ。

 変なことを聞くけれども、と前置きして、

「あなたのご家族の中に、サイパンで亡くなった方がいないかしら?」

 うん、確かにいるんだ。

 昭和十九年かな。サイパンが玉砕したのは。

 そのとき、バアサンの妹が亡くなってるんだ。

 この人、やっぱり香道をしててさ。おばさんのように、ずいぶん入れ込んでたそうだな。

「ええ、おりますが、それがなにか……」

 すると、お師匠さん、

「さっきの香木はね、サイパンに住んでる人から送られてきたものなのよ」

 おばさんは、はあ、としかいいようがない。

「その人、浜辺でこの香木を見つけたそうなのね。もちろん、サイパンの……ひょっとしたら、その亡くなられた方が、お持ちになってたものじゃないかしら」

「それはどうでしょう……分かりません」

 するとお師匠さんは笑って、

「さっきのあなたの反応を見てれば、すぐ分かるわよ」

 そういって、くだんの香木を渡されたそうだ。ああ、全部。全部さ。

 香木が見つかった浜辺で、バアサンの妹が死んだとなれば、ツジツマはあうけれども……実際のところ、本当かどうなのかは分からない。

 お師匠さんは、サイパンにいたおれのバアサンの妹が、香道を習ってたなんてことは知らなかったようだけれどな。

 ああ、おばさんはな……せっかく受け取ったっていうのに、たいたことがない。

 仮に親族の手に渡ったとしたんなら、いいにおいがしてもよさそうなもんだけどな、いまだにくさいっていってるんだ。

 おれも聞いたことが……いや、香炉でたいたわけじゃないから、ちょっと嗅がせてもらったってとこか。

 うん、そんなにすばらしいもんでもないけど、まあまあいいにおいだったよ。

 おばさんだけなんだ、くさいっていうのは。

 ん?……ああ、もちろん病院に行ったようだぜ。

 異状なんて、どこもなかったとさ。

目次はこちら

0 件のコメント: