百物語 第八十五夜
盤面を覗くもの
※怪談です。苦手な方はご注意ください。
少し前に囲碁を題材にした漫画が流行して、アニメにもなりましたね。
その頃、僕の家は地獄だったんですよ。
ああ、いえいえ……そうあんまり質問しないで。順番に話しますから、落ち着いてください。
囲碁のせいなんです、これは。囲碁のせいで、まるで地獄のようだったと。
我が家にある古くからのいい伝えで、決して囲碁をしてはならぬというものがありましてね。
こうして口に出すのはまあいいとしても、碁盤や石はもちろん、囲碁のことが書かれた本などを家の中に持ち込むと、きっと悪いことが起きるって。
両親から、何度もそう聞かされたんですよ。
絶対ダメ、囲碁に関するものは、いっさい触れちゃいかん、て。
囲碁を題材にしたその漫画が流行った頃は、友達の中にも、コミックを持ってる人がけっこういました。
でも、僕には読むことができませんでした。
いえ、学校でいちどだけ読ませてもらったことがあるんですけど、それだけで家に帰ってすぐに僕、倒れちゃいましてね。
高熱は出るし、腹の具合は最悪になるし、意識がとぎれとぎれになるしで、救急車で運ばれました。
それで結局、入院することになったんです。
お医者さんの診立てでは風邪をこじらせただけってことでした……ただ、これが囲碁に関わったせいだって、両親にはバレましたよ、すぐに。
症状を見たら分かるっていうんです。
父も母も、いちどは同じ目に合ってるわけです。そのとき初めて聞いたんですが。
正直、それまでは半信半疑……いえ、むしろ全く信じてませんでした。
あなたも信じてないでしょう? 僕じしん、今なお信じてないのかもしれません。
ただ、少なくともあんな目にあうのは二度とゴメンです。
だから、それ以来、僕は囲碁に関わるものから極力、離れることにしています。
前置きが長くなりました。
じゃあ、古いいい伝えってなんだ? っていうのが、僕の話そうと思ってたことです。
僕の実家はもともと山梨にありました。
ご先祖様というのは旗本で、江戸と甲府を往復していた……今でいうと転勤ですね。
それで、明治維新のときたまたま山梨にいて、そのまま住みついたと聞いています。
甲斐国は将軍のお膝元に近いですから、江戸時代の半分くらいは天領……直轄地の扱いです。
だれか大名が入るにしても、将軍の親族ばかりです。
直轄地のときには、僕の先祖のように旗本が派遣されるわけですが、派遣される方にとっては栄転ではなかったようです。「山流し」なっていってね、できれば遠慮したい役柄だったそうです。
あまり素行のよくない者が自然に集まってたんです。たぶん、僕のご先祖様というのも、博打にハマッてたり、酒乱だったりなにか問題を起したのかもしれませんね。
幕末、国内の情勢が不穏になってきた頃のことです。
万一、このあたり一帯が戦場になったときのために地勢を調査する……と、ご先祖様の上役が取り決めました。
おれは甲府の町内を調べる、じゃあおれは近隣の里をまわる、釜無川の流れの具合と水深を見てくる……と、みんなで手分けしました。
そのときご先祖様は、郡部の山々の調査を押しつけられましてね。
各地をめぐって、山の姿を絵にしたり、土地の人にその山の特徴を聞いたりしたそうです。
山梨という名前の逆で、周囲みな山ですからね。調査が長期にわたったのは、いうまでもありません。
あるとき、雨畑山という……南巨摩郡に今もある山ですが、これに登ろうとした。
でも、中腹までたどりついたところで、雨が降りだしたんです。
足元が悪くなりまして、これは危険だっていうことで、中止して降りてきた。
それでふもとの寺で、休憩させてもらった。
お茶を飲んでからこれまでに描いた絵図をまとめはじめ……それが終わっても、いっこうに雨の止む気配はありません。
他に、これといってやることはない。
ご先祖様のそんなようすを見て、和尚さんがいったんです。
「拙僧、御仏に仕える身でありながら最近碁に夢中でして……もしおやりになるんでしたら、どうですか、一局」
ご先祖様、ちょうど暇を持てあましてたところですから、否も応もありません。
さっそく碁盤が出てくる、碁笥が運ばれてくる、石を持って、ペチペチ打ち始める。
実力の程は、両者ほぼ互角だったようです。勝ったり負けたりをくりかえして、もう一番、もう一番とつづけてゆくうちに雨があがって夜になったんですけれども、おもしろくて止められない。
食事を、食事をと小僧さんになんどもいわれて、しかたなく中断、夕食をとったあと勝負を再開しました。
なにかに憑かれてるようですよね。夢中になってるときって、ひょっとしたら、なにかに憑依されてることが多いのかもしれません。
こうして深夜に及び、盤上で一進一退の攻防がくりひろげているうち、ご先祖様がふと気づきました。
背後にだれかが立っている、と。
そのだれか、盤上に石が置かれるたびに、フン、フウ……と息を吐く。
草いきれに似たにおいがする。
和尚さんが石を置いて、いいました。
「気になさることほどのものではござらん。そのうち消えようほどに」
「ほう。さようなもんですかな」
ご先祖様が石を置く。うしろのなにかが、フウーッと息を吐く。
それが耳にかかって気持ち悪かったけれども、とにかく盤面に集中することにして一局を終えました。
一息入れて、この勝負はここがよかった、あそこは悪かったといい合っていると、いつのまにか背後の気配がなくなっている。
「あれは、なんだったのですかな」
「囲碁を打ってると、たまに出てくるのです。なんでも武田信玄の時代に、朋輩に妬まれて失脚させられた武将だと聞いております」
「そんな昔の人が……」
「この近辺に引き籠もって、寂しく晩年を終えたそうです。まだ迷ってるんでしょうな」
「お経を読んでも……」
「いっこうに効き申さず。拙僧がこんなに碁にのめり込んだのも、やつのせいかもしれません」
和尚さん、そういって笑ったそうです。
「だいたい、碁が好きなら、いたいだけいればいいと思っとりますからな……ときに、貴殿ももしや、朋輩に妬まれてることはござりますまいな」
ご先祖様が黙っていると、
「あれはそうそう頻繁に現れるもんじゃないので……石を持っていたとしても、年に一、二度。公用とはいえ、こんな辺鄙なところにいらっしゃるんですからな、察しがつくというもんですわい。貴殿がお呼びになったのかもしれぬ」
相変わらず両者の星はほぼ互角だったのですが、もうふたりが打つことはありませんでした。
それが出たらグッと弱くなってしまうから……というのが和尚さんの言い分でした。
翌日、ご先祖様は無事に雨畑山の調査を終えて、つぎの土地に向かいました。
そこでやっぱり土地の人と囲碁を打つ機会があったのですが、また背後に例のなにかが現れて……こんどは全く盤面に集中できず、惨敗しました。
ハンデをつけてもらって……これは、じぶんの石を最初に置くんですね。囲碁は陣取りゲームですから、最初にある石が多いほど有利なわけです。
でも、やっぱり惨敗しまして。ちっともおもしろくないから、止めることにしました。
その晩……高熱が出て腹の具合も悪くしたっていって、ご先祖様は布団の中でウンウン唸ったそうです。
ええ、それからなんです……囲碁をするたび、それが現れて、体調を崩すようになったのは。
それでも好きですからね、だれかと実力を競うことはとうとうあきらめることにしたんだけれども、詰碁、定石、棋譜などの本を読んで我慢することにしたんです。
ところが、本を読むだけでもダメだった。熱が出てうなされることには変わりがない。
結局、ご先祖様は囲碁に関係するものをすべて処分しました。
ええ、お察しのとおりです。そのご先祖様ばかりでなく、その子、孫……と遺伝してしまって、いま僕がここにいるってわけです。
そうそう、ご先祖様は囲碁が好きだったわけですから、そもそもの原因となった寺にまた行ってみたんですよ。
なにかもとの状態にもどす手がかりがないかって、ね。
しかし、どうしてもその寺にたどりつけなかったという話です。
もしかすると、背後に立っていたそれと、この話の和尚さん、実は同一人物だったのかもしれませんね。
憶測に過ぎませんけれども。
ああ、ありがとうございます……心配してくださって。
この話をするくらいなら、だいじょうぶですよ、たぶん。これまで、なにもありませんでしたから。
人間、できないとなったら、してみたいってなるじゃないですか。
ですから、ちょっと囲碁をしてみたいって気持ちも、いまだにあるんですけれどもね。
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