昔むかしのその昔、京の都、大内裏の南東に神祇官という役所がありました。
郁芳門より入ってすぐのその敷地は、東院と西院とに大きく二分されておりました。
一般政務を扱う太政官と並べ置かれた神祇官は、最も重い機関とされていたのですが、実際には太政官の指揮を受けていました。
役目は、朝廷が関わる各種祭事を執り行うこと、諸国の主だった神社の管理、祝部(はふりべ・今でいう神主)の名簿や、特定の神社に与えられた民戸である神戸(かんべ)の戸籍を管理することなど。
何と言っても最大の任務は、祭事を行うことだったでしょう。『神祇令』という法律によって13種類、19の祭が定められており、その施行細則である『延喜式』の関連するところをひもとくと、その準備だけでもかなり細かく規定されており、どの時代でも大きなお祭を行うのは大変なんだなと思います。
神祇官の長官は従四位下の「伯」で次官は従五位下の「大副」と正六位上の「少副」でした。
その下には従六位上の「大祐」と従六位下の「少祐」がおり、さらに下には正八位下の「大史」、従八位上の「少史」。
これらのいわば管理職の下に、下級職員である神部(かんべ・かんとものお)が30人、占いが得意な卜部(うらべ)20人、雑役係である使部(しぶ)30人、直丁(じきちょう)2人がおりました。
しだいに上記の管理職ポストは、特定の一族に固定されていきます。
平安時代後期からは、まず「伯」が白川伯王家。花山天皇の子孫で、臣下になっても王を名乗ることができました。
次に「大副」が中臣氏から出た藤波家。伊勢の神宮の祭主をも兼ねました。
また、「大副」と「少副」の間に置かれた「権大副」には卜部氏から出た吉田家。
のち、応仁の乱のときに庁舎が焼失してからは、白川家や吉田家が再興しようとしましたが果たせず、江戸時代の間は吉田家が代りとなる施設を作り、「神祇官代」としていました。
それから明治二年に復活、四年に改組されて神祇省となって以降、「神祇官」という名前の役所は存在しません。
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