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2017/05/17

神祇官

 昔むかしのその昔、京の都、大内裏の南東に神祇官という役所がありました。

 郁芳門より入ってすぐのその敷地は、東院と西院とに大きく二分されておりました。

 一般政務を扱う太政官と並べ置かれた神祇官は、最も重い機関とされていたのですが、実際には太政官の指揮を受けていました。

 役目は、朝廷が関わる各種祭事を執り行うこと、諸国の主だった神社の管理、祝部(はふりべ・今でいう神主)の名簿や、特定の神社に与えられた民戸である神戸(かんべ)の戸籍を管理することなど。

 何と言っても最大の任務は、祭事を行うことだったでしょう。『神祇令』という法律によって13種類、19の祭が定められており、その施行細則である『延喜式』の関連するところをひもとくと、その準備だけでもかなり細かく規定されており、どの時代でも大きなお祭を行うのは大変なんだなと思います。

 神祇官の長官は従四位下の「伯」で次官は従五位下の「大副」と正六位上の「少副」でした。

 その下には従六位上の「大祐」と従六位下の「少祐」がおり、さらに下には正八位下の「大史」、従八位上の「少史」。

 これらのいわば管理職の下に、下級職員である神部(かんべ・かんとものお)が30人、占いが得意な卜部(うらべ)20人、雑役係である使部(しぶ)30人、直丁(じきちょう)2人がおりました。

 しだいに上記の管理職ポストは、特定の一族に固定されていきます。
 平安時代後期からは、まず「伯」が白川伯王家。花山天皇の子孫で、臣下になっても王を名乗ることができました。

 次に「大副」が中臣氏から出た藤波家。伊勢の神宮の祭主をも兼ねました。

 また、「大副」と「少副」の間に置かれた「権大副」には卜部氏から出た吉田家。

 のち、応仁の乱のときに庁舎が焼失してからは、白川家や吉田家が再興しようとしましたが果たせず、江戸時代の間は吉田家が代りとなる施設を作り、「神祇官代」としていました。

 それから明治二年に復活、四年に改組されて神祇省となって以降、「神祇官」という名前の役所は存在しません。

2017/05/16

来訪神サンタクロース

 来訪神の話題を少し前にあげたのに関連して、季節外れのクリスマスの話題。

 イエス=キリストは12月25日ではなく、1月に入ってから生まれた、という話を聞いたことがあります。

 じゃあなぜ12月25日がクリスマスになったかというと、冬至をすぎて復活した太陽をお祭りしていた、ミトラ教の儀式を取り入れたそうなんですね(フレイザー『金枝編』という面白い本に書いてあります)。

 ヨーロッパ各地へとキリスト教が広まる過程で、土着の宗教と結びついたそうなんです。

 クリスマスイブに訪れるサンタクロース、実は神様ともいえます。

 はあ? と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 伝統的に、多くの日本の人々が考えてきた神様というのは、初めにことばありき、光あれ、初めに、神が天と地を創造した……のではなく、むろん全知全能でもありません(いうまでもありませんが、これはキリスト教などの神様)。

 日本の古い神様の中には、「来訪神」と総称される方々がいらっしゃいます。神様がやってきて、福をもたらし、去っていく。迎える方も色々と心をくだいて、おもてなしをする。

 こういうとサンタクロースってこんなもの、と我々が考えることと似ていますよね。

 昔話でいえば、笠地蔵の話、鶴の恩返しもそうといえるかもしれません。今なお残る風習では、男鹿半島のナマハゲなんかは怖い来訪神です。お祭のときにおみこしが回るのも、待つ方にとってみれば来訪神であります。

 そして、逆にそのような下地があったからこそ、サンタクロースは日本の風土にとけこむことができたのだ、とも考えられます。

 話がそれますが、うちにはたくさんチラシが入ってきます。その多くは、そばやピザ、中華などなどの出前です。○○新聞とりませんか、というものもあれば、クリーニングするものがあれば伺います、というものもあります。電話すれば何でも取り寄せることができるわけですけれど、これほど出前、もしくはデリバリーが盛んなのは日本だけだそうです。

 サンタクロースもそうですけれど、もともとこの「来訪神」の考えが浸透しているから、こうした商売が盛んなのかもしれませんね。

2017/05/15

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

 こちらの神様のお名前、ご存知ですか?

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

『日本書紀』巻九(「神功紀」)に登場、神功皇后が神がかりとなられたとき、乗り移ったのがこちらの神様です。

 読み方は、

つきさかき、いつのみたま、あまざかる、むかつびめの、みこと

 アマテラス大神の荒魂(あらみたま)であると、一般には考えられています。つまり、大神のすさまじいパワーを持った側面が神格化されて、こんなお名前で呼ばれているわけです。

 日本の神様、お名前を見ればどんな神様か大体予想がつきます。

 では、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とは、どんな神様なのでしょう。

つきさかき=榊に宿る
いつのみたま=生命力に満ち溢れた御魂
あまざかる=天から離れる
むかつびめ(の)=向かう女性(の)
みこと=尊称

「榊に宿る、生命力に満ち溢れた御魂を持っており、高天原から降ってきて、天に相対している神様」ということでしょう。

ただし、「むかつ(原文では『向津』)」が何に向かうのか、字義どおり「向かう」ととってよいのか(ムクは「剥か」かもしれませんし固有名詞の可能性もあります)解釈が分かれるかもしれません。

 さて、私は上でアマテラス大神の荒魂だと申し上げましたけど、何でそんなことが分るのか。

 別に神通力のためでも何でもなく、この神様が神がかりされたとき、自ら名乗っていらっしゃいます。

神風の伊勢の国の、ももづたふ度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)五十鈴宮(いすずのみや)に居る所の神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命。

『日本書紀』のような古い書物で、「神風の伊勢の国」で始まったら、たいてい伊勢の神宮についての内容がつづきます。

 そのつづくことばが、ここでのように「拆鈴」や「拆釧(さくくしろ)」ならば皇大神宮(内宮)、「山田原」が出てきたら豊受大神宮(外宮)です。なお「山田原」は地名です。

 また、内宮の近くを流れる川が「五十鈴川」ですから、ここでのように「五十鈴宮」となっていても、まず間違いなく内宮のことでしょう。

 となると、主祭神アマテラス大神としか考えられません。

 では、なぜ荒魂となって神功皇后に神がかりされたのか。

 そのわけは、ここでは申し上げません。『日本書紀』の中でも非常に重要な場面ですので、私の拙文よりも、原文をぜひともご覧下さい。

2017/05/12

死ぬ神様・死なない神様

 イエスは十字架にかけられて殺されたあと、復活しました。

 イスラムの『コーラン』にも「神は生まず、生まれず」なんて一節があったと記憶します。

 神道の神様は生まれて、死にます。もっとも、死なない神様もいます。

 これだと何だかはっきりしないので、本居宣長の『鈴屋答問録』を開いてみます。

 これはタイトルの通り、本居宣長が質問に答える形式で書かれていまして、文語文でもそう難しくはありません。

 引用は安永6(1777)年冬、門人の荒木田瓠形(尚賢、伊勢の神宮の神主さんです)との問答。

【問】神代の神は死なないと思っていましたが、ニニギノ尊は崩じたとも言われています。とすれば、クニトコタチノ尊など天地の初め以来の神様はみんな、亡くなってしまったのでしょうか。亡くなっていないとすれば、その違いはどのあたりにあるのでしょうか(意訳)。

 それに対して、宣長先生はこのように答えています。

【答】高天原にいらっしゃる神様は、永遠に生きつづけます。地上の神様はみな亡くなります。また、高天原の神様でも、地上に降りてしまえば、死をまぬかれることはできません。そこで、その神様が天にいるか地にいるかで判断するとよいでしょう。

 しかし、亡くなった後も御霊(みたま)は留まっている状態ですから、時としてお姿を現すことはあります。

 こう説くのは臆断ではありません。理屈のみをもって説くのは中国かぶれの人がよくすること。私は『古事記』『日本書紀』の記述から、そう考えるのです(意訳)。

 ははあ、なるほど。

 仕事が仕事ですから、よく『古事記』『日本書紀』を読みますけれど、そのエピソードの場所が天(高天原)か地上かはあまり意識して来ませんでした。

 ちょっと見てみましょう。

『古事記』の割と最初の方に、イザナミノ命がカグツチノ命を生んで亡くなり、カグツチノ命もイザナギノ命に殺されるという大変ショッキングな場面があります。イザナミノ命・イザナギノ命はこのとき、高天原から天降って国生み、神生みをしていました。

 スサノヲノ命がオオゲツヒメを殺害するという、これもショッキングな場面が、そのちょっと後で出てきますけれど、この前の場面でスサノヲノ命は高天原を追放されています。

 ということで、宣長説は間違いない! と帰納法的に言い切ってしまって終わりたいのですが、ビミョーな例もあります。

『古事記』のホントに最初の方に、高天原に現れた神様たちは、「身を隠した」とあります。これは「亡くなった」とも取れます。そもそも古代では「死」をタブー視する意識が非常に強かったわけですから「死んだ」とストレートに書かなかったのではないかと。

 ここで「解釈」が必要になります。「死んだ」とはっきり書いていない以上、その前後の状況から死んだかどうかを判断せざるを得ず、そうなると人によって意見が分かれることもあるでしょう。

 しかしながら、演繹的に「高天原の神様は死なない。地上の神様は死ぬ」説を原則として個々の例を考えた場合、とてもすっきり、腑に落ちます。

 このすっきり感がクセモノですね。いかにも正しそうです。

 はたして、宣長先生の御説は正しいのか。こう疑う余地があるのは、自分で『古事記』『日本書紀』を読んで判断しろという、宣長先生の指導法のあらわれなのかもしれません。

2017/05/11

見える神様・見えない神様

「オカルト」ということばはかつて、今とは使い方が少し違っていて、自分と見解の合わない人に対し「おまえの説はオカルトだ!」なんて言っていたそうです。

 本来は「隠されたもの=知覚できないもの」という意味でありましから、その言葉自体、宗教的な感性と相性がよいようです。

「隠されたもの」「知覚できないもの」といえば、私なら神主ですから、すぐに神様が思い浮びます。逆に、お祓い中に白髪のおじいさんが現れて「わしゃ神様だ」とおっしゃったら、まずは疑います。

 だいたい、明治天皇御製にも、こうございます。

目に見えぬ神に向ひて恥ぢざるは人のこころのまことなりけり

 神様は「目に見えぬ」存在なのです。

 そんなわけで、神様が現れたらまずは疑います。もちろん神様の存在を疑うわけではなく、その「神様」だと名乗る方の存在を疑います。

 仏教でもキリスト教でも、初めは釈尊の像や磔刑されたキリストの姿を見せて「これがブッダだ」「救い主イエスはこんなお姿をしておられる」ということは言っていなかったのでありまして、布教のための方便だったと聞いたことがあります。

 我々は「見る」ことで非常に多くの情報を得ていますけれど、かんたんに錯覚を起こしますし、不必要な情報は脳の方で処理しないとも言います。第一、「見る」こと自体非常にあやふやな行為であります。

 机なりノートなり、空なり……何でも我々は「見る」と言ってはばかりませんが、実際にその物体を見ているわけではありません。太陽光線がその物体に反射する、その光をとらえているのに過ぎず、光がなければもちろん「見る」ことはできません。

 さて、神様が、そんな人間の都合に合わせてくれる、つまり、人間が視覚で捉えうるお姿で、わざわざ現れてくださるとは、ずいぶん虫がよい話ではないでしょうか。

(ここでの神の定義は、神道におけるものと考えてくださってけっこうです。例えば、イエスを神とする立場では、あてはまりません。いうまでもなく、イエスが実在の人物とするなら、太陽光線を反射するはずだからです。)

 もちろん神道信仰においても、目に見える神様もいらっしゃいます。

 例えば、歴史上の人物がご祭神としてお祭りされている場合。

 それから、山や滝、大きな岩などが祭られている場合。

 ただ、東郷さんでも乃木さんでも、また天神さまでも、写真や肖像を拝見することはできても、神様となった現在の、そのお姿を拝することはできません。

 それに、自然物が祭られている場合にしても、それ自体が神様なのではなく、神様がそこにお宿りになるのであって神様そのものではない―― それが伝統的な考え方であります。「○○山は、山そのものが御神体」という言い方は、その山に神様がいらっしゃるとしても、山そのものが神様ではないのです。したがって、実はこの場合も、神様は目に見えません。

 これはたいていの神社でも同様で、本殿の扉を開けたら、まさか山や滝があるわけではありませんけれど、御神体が安置されています。「同じ」ところは、それが、あくまでも神様が宿っているものなのであって、神様そのものではないということです。

 明治の文明開化時、思想界において指導者の立場にあったある人が、こんな回想をしています。とある祠のご神体をのぞいて、そこに石ころがあるのを見た。人々がこんなものを拝んでいるのを知って、ばからしくなった。

 この方はかなり有能で、多くの人に影響を与えましたが、神様と御神体の関係が全く分っていませんでした。ご神体の石を神様そのものだと思い込んでしまっています。口さがなく言えば、欧米流の啓蒙思想に毒されていたからでしょう。

 とはいえ、この方を批難してばかりはいられません。

 ひとたび御神体が神様と等しいと考えれば、神様は見えるものなんだ、ということになってしまいます。もちろん、御神体じたいは物質だからです。

 こうして考えてみると、神様が見えるものなんだ、という考え方は、物質文明から生まれたものかもしれません。

2017/05/10

本居宣長が恐れた神様

 江戸時代の高名な国学者・本居宣長の『毎朝拝神記』を見ておりますと、本居宣長がいちばん怖いと思っていた神様がどなたなのか、だいたい予想がつきます。

『毎朝拝神記』はタイトルほぼそのまま、毎朝神様を拝む次第とその拝詞(祝詞のようなもの)が書かれています。神棚に向かってではなく、おまつりされている神社の方角を拝むという形、つまり遥拝の次第といっていいかと思われます。

 本居宣長は国文学はもちろん、『古事記伝』を残すなど神道学の上でも多大な業績をあげた方です。

 では、その宣長さんが一番恐れていた神様はどなたか。

 それは、『毎朝拝神記』の中で、はっきり神様のお名前を申し上げない「熊野の大宮に鎮座(しずまり)坐(ま)す大御神」と推定されます。

 他の神様は、本文の記述通りにあげますと、

天照す皇(すめ)大御神、豊受(とゆうけ)の皇大御神、高御産巣日(たかみむすびの)大御神、神産巣日(かむむすびの)大御神、大国主の大神、少那毘古那ノ大神、事代主ノ大神……

 皆様、はっきり名前を書かれています。今日われわれがお呼びするのと、ほとんど変わりません。

 では、「熊野の大宮に鎮座坐す大御神」は普通何とお呼びしているのでしょうか。「熊野」といえば和歌山の熊野速玉大社、熊野本宮大社、熊野那智大社がすぐに思い浮かぶかもしれませんが、

八雲立(やくもたつ)出雲の国の熊野の大宮に鎮座坐す大御神

 と、すぐ直前で申しておりますので、出雲の熊野さんのことなんでしょう。昔は「熊野坐神社」、今「熊野大社」と呼ばれているお宮です。

 それで、スサノヲノ命かと思いますし、たぶん宣長もそう考えていたのではとは思うのですが、熊野大社の御祭神は櫛御気野命(くしみけぬのみこと)と申し上げるんですよ。

 櫛御気野命とスサノヲノ命は、一般に同じ神様とされています。

 納得いきますか?

 納得いかない?

 ただ、神様とそのお名前の関係の基本を申し上げますと、

 名前=働きなんですよね。

 お名前を見ると、どんな神様なのかがだいたい分かるわけです。

「名前」の方に注目するなら、それが何であるのかをある程度はっきりさせます。(粗雑ながら)空といったら、上にある青いやつで雲が浮かんでるあれだな、海といったら、なめたらしょっぱい、魚やら貝やらがいて船が浮かんでいるあれだな、などと分ります。

 一方、「働き」の方は「解釈」になってくるのでけっこう曖昧であります。ここであげた二柱の神様に話を戻して、よく見る神名解では、スサノヲノ命は「スサ」は勢いのはなはだしい、「ヲ」は立派な男で、荒ぶる神様のイメージがわきます。

 櫛御気野命の「くし」は不思議な、「みけ」は食べ物ですから、食物の生成する不思議な力を神格化したのではと考えられます。

 この「働き」の部分で、似ていると考える人が、結局「名前は違うけど同じ神様だ」とするんでしょうね。

 本居宣長が両神の関係について、実際のところ、どう考えていたのかは分りません。

 私は、はっきりお名前を申し上げなかった=それくらい恐い神様だと宣長が感じていたのでは、と思っています。

2017/05/09

神の祟り

 古い記録に残る、神様が祟った話です。

 はっきり言って、神様は怒ると怖いです。

 祟ります。

 こんな脅すようなことを言うと怪しげな宗教のようですが、神様がどんな風に祟ってきたのか古い伝承を知っていれば「祟られてるからこれ買った方がいいよ」なんて言葉にも冷静に対処できるかもしれません。

 何でもこのタタリという語、もともとタツ+アリで、(超自然的なもの・ことが)顕現する、立ち現れること、を示すそうです。

 それでは、具体例をあげていきましょう。

『播磨風土記』の揖保郡の記事には、こんなくだりがあります。

神嶋と称す所以(ゆゑ)は、此の嶋の西に石神在(いま)す。形、仏像に似る。故(かれ)、因(よ)りて名とす。此の神、顔に五色の玉有り、又胸に流涙有り、是も亦五色なり。

神嶋(現在の上島)と称する理由。この島の西に、仏像のような形をしている石神がいらっしゃって、そこで神嶋という名前なのです。この神様は、顔に五色の玉がはめこまれていて、胸には涙の流れた跡があってそれもまた五色です。

泣ける所以は、品太天皇の世、新羅の客(まれひと)来朝せしとき、此の神の奇(く)しく偉(たけ)きを見、非常の珍玉と以為(おも)ひて、其の面色(おもて)を屠(ほふ)りて、其の一つの瞳を堀る。

泣いているのはなぜなのでしょう。応神天皇の頃、新羅から旅人が来日したとき、この神が珍しく、すばらしいのを見て、これは立派な玉だと思い、その顔を削って瞳にはめこまれていたものを取ってしまいました。

神、由(よ)りて泣き、是(ここ)に於て大(いた)く怒れば、即(すなは)ち暴風を起し、客の船を打ち破りき。高嶋の南浜に漂ひ没(しず)みて人悉(ことごと)く死に亡せき。

それで神様は泣いて大いに怒り、すぐさま嵐を起こして旅人の船を難破させました。船は島の南に沈み、乗っている人はみな死にました。

乃(すなは)ち其の浜に埋(うづ)む。故、号(なづ)けて韓浜(からのはま)と曰(い)ふ。今に其の処を過ぐる者、韓人(からひと)と言はず、盲の事に拘(かかは)らず。

そこで南の浜に埋めたので、韓浜といいます。今そこを通る人は、「韓人」と口に出して言ったり、目が見えないのを話題にすることもありません。

 この話での神の祟りは、現代の私たちにも分かりやすいですね。「新羅の客が神像から玉を削り取った」ことが神の怒りに触れ「乗船を難破させた」と、理由が明確に示されていますし、因果関係がすっきりしています。

『日本書紀』巻二十六、斉明天皇の御代には、こんなことがありました。

七年五月癸卯(九日)、天皇朝倉橘広庭宮に遷り居(おは)します。是の時に、朝倉社の木を斮除(きりはら)ひて、此の宮を作る。

(斉明天皇の)七年五月九日、天皇陛下は浅倉橘広庭宮にお遷りになられました。この宮は、浅倉神社の木を伐採して建てられました。

故れ、神忿(いか)りまして、殿を壊(こぼ)つ。亦宮中に鬼火見(あらは)れぬ。是に由りて大舎人(おほとねり)及び諸(もろもろの)近侍、病して死ぬる者衆(おほ)し。

 それで神様がお怒りになり、御殿を壊しました。また宮中には鬼火が現れました。また、神の怒りが原因で、大舎人や近臣たちのうちでも病死する者が多かったのです。

 同じく巻二十九、天武天皇の御代には……。

朱鳥元年六月戊寅(十日)、天皇の病を卜(うらな)ひますに、草薙剱(くさなぎのつるぎ)に祟れり。即日(そのひ)尾張国の熱田社に送り置かる。

 朱鳥元年六月十日、ご不例であられる天皇陛下の病気を占い申し上げたところ、草薙剱の祟りだと判明しました。その日、すぐに尾張国の熱田神宮に送られ、安置されました。

 斉明天皇の御代の記事は、神社の木を切ったから祟った、と分りやすいですが、天武天皇の御代の記事はどうでしょうか。神様の祟りではないじゃないか、と思われるかもしれませんが、草薙剱はいわゆる「三種の神器」のひとつですし、剣の神様や剣を抜いたときの音から生まれた神様もいらっしゃいます。

 残念ながらこちらは「木を伐ったから」のような明確な理由がありませんけれど、この上ない聖なるものを宮中に置いておくべきではない、という考え方があったようです。

 時代は前後しますが、同じく『日本書紀』崇神天皇の六年の記録。

天照大神・倭大国魂二神を、並(とも)に天皇の大殿の内に祭(いは)ひまつる。然れども、其の神の勢を畏れて、共に住みたまふに安からず。

 天照大神・倭大国魂二神を、いっしょに天皇の大殿の中でお祭りしていました。しかしながら、その神様たちの勢はおそろしく、お祭りするのが不安でした。

故れ、天照大神を以ては、豊鍬入姫命に託(つ)けまつりて、倭の笠縫邑(かさぬひむら)に祭(いは)ひまつらせたまふ。

 そこで、アマテラス大神を豊鍬入姫命に託して、笠縫邑で祭らせました。

 伊勢の神宮の起源説話のひとつであります。なお、倭大国魂二神も別な方に託され、宮中の外で祭られるようになります。

 本文には鏡とは書かれていませんが、ご神体の御鏡を姫命に託されたのでしょう。また「託」に「ツク」と訓が施されているあたり、学生時代ちょっと気になって先生に質問したことがありました。

 ツクは「憑依」の「憑」と同じで、ここでは大神がシャーマン的に、姫命に乗り移った状態で移動したのでしょうか、と。先生はそうだろうと仰っていたのですが、今考えてみると単に御鏡を奉じて移動したとしても不自然ではないような気がします。

 それはともかく、崇神天皇としては神々のパワーがすさまじいので、お祭りする上で粗相があってはならない、とお考えになったのでしょう。草薙剱の場合も、事情は同じだったと考えられます。

 つづいて『常陸風土記』の久慈郡の条。

東の大山を賀〓(田+比)礼之高峰(かびれのたかね)と謂(い)ふ。即(すなは)ち天神(あまつかみ)有(ま)す。名(みな)を立速日男命(たちはやひをのみこと)と称(まを)す。一名(またのみな)は速経和気命(はやふわけのみこと)なり。

 東の大きい山をカビレの高峰といいます。そこには天つ神がいらっしゃいまして、立速日男命、またのみ名を速経和気命と申します。

本天より降りて、即(やが)て松沢の松樹の八俣の上に坐(ま)しき。神の祟、甚(いと)厳(おごそか)なりき。

 天から降ってすぐの頃、松沢の松の枝が広がったあたりにいらっしゃいました。

人有りて向きて大小便(くそゆばり)を行(ま)る時は、災を示し疾苦(やまひ)を致さしめしかば、近側(かたへ)に居る人、毎(つね)に甚く辛苦(くるし)みて、状(さま)を具(の)べて朝(みかど)に請ひまつりしかば、

 人がそこにいて大小便をするときは、災いを示してその人間を病気にするので、近くに住む人はいつもひどく苦しんでおり、状況を述べて何とかして欲しいと国司のもとに訴え出たので、

片岡大連(かたをかのおほむらじ)を遣(また)して敬ひ祭らしめて、祈(の)み曰(まを)さく、

 片岡大連が派遣され、このようにお祈りしてお祭りしたのです。

今、此処(ここ)に坐(いま)さば、百姓(おほみたから)近くに家(いへゐ)して、朝夕に穢臭(けがらは)し。理(ことはり)、坐(いま)すべからず。宣(よろ)しく避(さ)り移りて高山の浄き境に鎮(しずま)りたまふべし、と、まをしき。

 今ここにいらっしゃると、皆の衆の家が近く、いつも汚いです。こんなところにいらっしゃっていては、いけません。どうかここを去って、高い山の清らかなところにお移りください。

是(ここ)に神、祷言(ねぎごと)を聴きたまひて、遂(つひ)に賀(田+比)礼之峰に登りたまふ。

 ここで神様はお祈りごとをお聞き届けになり、結局カビレの峰に登りなさったのです。

其の社は石を以て垣とす。中に種属(やから)甚多(さは)なり。併(また)、品(くさぐさ)の宝・弓・桙(ほこ)・釜・器(うつはもの)の類、皆石と成りて存(のこ)れり。凡(およ)そ諸の鳥の経過(す)ぐるものは、尽(ことごと)に飛び避(さ)りて、峰の上に当ること無く、古より然(しか)あり、今に為(な)りても亦同じ。

 そのお社は垣根が石でできており、神様のご眷属さんもたくさんおります。また、いろいろな宝・弓・桙・釜・器がみな石の状態で残っています。およそどんな鳥でもこの上を通過することはありません。昔からそうで、今となっても同じです。

 今回の祟りも、当り前といえば当り前ではないでしょうか。原因は、人間が近くに住んでいて、神様の近くで大小便をすることさえあるせいでした。

 また、本文中の片岡大連さんの(「大連」は役職)「祷言」は本人が「理」という字を使っているようにちょっと理が勝った内容ですが、興味深いです。神様に申し上げる言葉なので当然祝詞といえますが、似たフレーズが『延喜祝詞式』にもあるのです。

今、此処に坐さば、百姓近くに家して、朝夕に穢臭し。理、坐すべからず。宣しく避り移りて高山の浄き境に鎮りたまふべし【本文再掲】

此の地(ところ)よりは、四方(よも)を見霽(みはるか)す山川の清き地に遷り出で坐して、吾が地と宇須波伎坐(うすはきま)せと……【遷却祟神祭】

【大意】この場所にいらっしゃるよりは、見晴らしのよい山や川の清らかなところにお移りくださいまして、自分の土地と領知なさいませと……

 言葉はあまり似ていませんが、移ってくださいとお願いしている場所が「浄き」または「清き」と、ほぼ同じです。

 でも、何というのか、開発が進むとともに(清浄な場所とはいえ)神様を遠くへ追いやるといったような、そんな現代に通じるテーマもうかがえます。また、こうした発想は、理由ははっきりと申し上げられませんが、小国家があちこちにあった時代から律令制がしかれるようになるまでの間に、徐々に醸成されていったものなのでしょう。

2017/05/08

火の媼神

 アイヌの人たちの間で、最も重要な神様は ape huci kamuy つまり「火の媼神」であります。

 ape が「火」、huci が「おばあさん」、kamuy が「神」です。ただし、kamuy と神は非常によく似てはいますけれども、ちょっと違う部分もあります。

 北海道の冬は寒いですから、囲炉裏で熱を発し、食物を温めてくれたり暖をとらせてくれたりする火の働きを、神の力の顕現と感じる。これは北海道に住む人間として、実によく分かります。

 と同時に、神道でいう「カグツチのスサビ」、ひとたび人が制御できなくなった火は、家どころか山や野を焼き尽くしてしまいます。

 このおばあさんは、神道の神棚のような場所にお祭りされているのではなく、囲炉裏にいらっしゃいます。服を六枚着ていると言います(アイヌ語での「六」は日本語の「八」のように大きい数を指すことがあるので、「たくさんの服」とも取れます)。何か神様へメッセージを伝えたいとき、先祖をお祭りするときには、このお婆さんに一度お断りをしなければ伝わりません。

 そのお断りの言葉の中、ape huci kamuy には「育ての神」「重い神」「神の妻」などと様々な称え言葉が冠せられます。

 重いというのは、立派な神なので威厳のある、重々しい存在だから。「重要な神」ということでもありましょう。そうした神様はバタバタ走り回ったりせず、動作もむしろ鈍重なのだそうです。「神の妻」は「神々しき淑女」と意訳した方がよいかもしれません。

 大国主命に、様々な別名があるのに似ています。

 久保寺逸彦の『アイヌの神謡』を開きますと、最初に「火の媼神の自叙」が出てきます。神自身が語る、いわゆるユーカラです。

 その中では、このおばあさん神には夫がいまして、ある日その夫がいなくなってしまいます。

 あちこち探しても見つからない。旦那さんは浮気しておりまして、相手がこともあろうに水の神様。その水の神様と盛大にケンカしまして、旦那を取り返す――そういう筋です。

 火の神様と水の神様のケンカですから、それはもうスゴイものです。また、ギリシア神話のゼウスみたいですが、旦那さんも神様なのかと思いきや、読んでいる限りそんな感じはしません。

 万葉集に、大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)が三角関係で争う歌がありまして、「神代より、かくあるらし」なんて言っていますけれども、逆に人間のようなことをしている神様、また人間のようなことをすると思われている神様。全知全能の神様よりも私は好きです。

2017/05/02

神道における「神」

 神道における神様っていったい何なのか、色んなことを言う人がいます。まずまちがいないのは、キリスト教やユダヤ教、イスラム教の神のように唯一絶対の存在ではないということです。

 私が子供のころによく友人間で話し合っていた疑問に「神様がいるんだったら、なんで地上から戦争がなくならないんだ」というものがありました。この疑問には、神が人間にとって善なる存在なら、かつ絶対的存在なら戦争が起きて人がたくさん亡くなることなど、ありえないだろう、だから神はいない……との意を含んでいたようです。

 神道における神は唯一の存在ではありませんし(「八百万神」といいますよね)、絶対でもありません。まちがえることもありますし、失敗することもあります。

 同じ「神」と呼んでいても、意味内容が現代ではみなごっちゃになってしまっていますので、注意が必要です。

 ここは神社のブログですので、神道での神はどんなものかを紹介しましょう。

 江戸時代の国学者・本居宣長が『古事記伝』で示した定義がもっとも優れているといわれ、私もそう思っています。該当部分をあげてみましょう。

さて凡(すべ)て迦微とは、古の御典等(みふみども)に見えたる、天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社(やしろ)に坐(い)ます御霊をも申し

 カミとは、古典に登場する天地の諸々の神を初めとして、その神を祭っている神社にいらっしゃるミタマのこともそう申し上げ

又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ、海山など、其余(そのほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物を迦微とは云ふなり

 また、人は言うまでもなく、動植物の類、海や山など、その他何であれ普通でなく「すぐれたる徳」があっておそるべきものをカミと言うのである

 まとめると、

①神典(古事記や日本書紀を初めとする神道古典)に記載のある神
②神社に鎮まる神
③人やその他の生物、自然
④その他

 上の訳で「すぐれたる徳」と括弧づきにしたのは、どう捉えるかちょっと難しいからです。ですが宣長はこの段のすぐ後に、以下のような補足を付け加えています。

すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの、優れたるのみを云に非ず

「すぐれたる」は尊い・良い・勇ましいなどの意味で優れたことだけを言うのではなく

悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云ふなり。

 悪いもの怪しいものなども、非常に優れていて畏怖すべきものを神と言うのである。

ここまでで引用は終わり。

 どうでしょうか。「神道の神」といったときの、あなたが考える神様と同じでしょうか。全然違うという方はまずいらっしゃらないんじゃないかと思います。

 この宣長の定義を全否定して、「いやいや、神道の神はこうだよ」といえる人はいないでしょう。

 ①から③を検討してみますと、疑問がないわけではありません(④は「その他」なので置いておくとして)。

①はどうでしょう。古事記の最初に現れる天御中主神、高御霊神、神御霊神は「神」という字が使われています。でも、イザナミ・イザナギの二柱の神は「命」だったり、「大神」とも書いてあったりする。日本書紀では「命」じゃなく「尊」だし……神様といっていいの?

②神社におまつりさてている神様っていうのは分かるけれど、じゃあ極端な話、普通の家に「○○神社」って看板をつけて、神様がいるってことにすれば、それも神様なの?

③人も神になるっていうけど、あの憎たらしい人が神とはとても思えん。動物にしても、うちで飼ってるハムスターが神様だとしたら、籠に入れるのはかわいそうだ。海や山が神様なら、うかうか海水浴も登山もできやしない。

 などなど、優れた定義とは申しましたが、この「宣長が列挙」した部分だけ見れば、色々疑問が出てくることと思います。そこで宣長は前述④その他に続けて、「何であっても『すぐれたる徳』があって、畏怖すべきもの」を神であるとしました。やはり普通じゃ駄目なんですね。

 ところが、これでもまだ宣長の考える神を正確に言い切れていないのです。さらに続け、「すぐれたる」という言葉について「尊きこと善きこと、功(いさお)しきこと」など良い面ばかりではなく、「悪きもの奇(あや)しきもの」でもよい、としています。悪くても不思議なものでも神様になります。

 悪い神様、確かにいますね。例えば貧乏神は別に貧乏じじいでもよいのに、「すぐれたる徳」がある、つまり生活を貧しくしてしまう、人智では計り知れない力を持っているから、我々の祖先が「神」と呼ぶようになったんでしょう。奇妙な、怪しい神様もいます(もっとも、古語の「奇(あや)し」は「不思議な」という意味もあります)。

 ただ、よい・わるいを初め、そう感じるのは人間の方で、神様はそんな人間の価値判断からは超越しているのでしょう。

「可畏(かしこ)きもの」の「かしこき」はもちろん、賢明であるという意味ではなく、畏怖の感情を抱くべき、という意味です。思わず恐れかしこまってしまう存在が神様、というわけです。

 ここまで見てきました本居宣長の神の定義から、日本の文化について考えると理解しやすくなることが、たくさんあります。

 わが国に仏教が定着したのは、すごーく単純に言ってしまうと、ゴータマ=シッタルダというインドの一小国の王子が、我々凡人がはかり知ることのできない難しいことを考え、わかるように説明した、すごい。じゃあ敬おうではないか! ということです。

 仏様を神様と分けて考えるのはほんの百数十年前からのことで、江戸時代まではどっちも同じ「尊いもの」でしたし、宣長の定義に従えば、もちろん仏陀も神となりえます。本来あった神とはこういうものだ、という観念に仏陀が当てはまったから、簡単に受容できたし、ここまで定着したのでしょう。

 キリスト教はどうなのでしょう。確かに、イエス=キリストも仏陀と同じくすごいことを考え、言った。しかしながら(色んな宗派がありますけれど)キリスト教では、神なる父と聖霊と神の子イエスは一体であるなどと考えはしますが、基本的に神はひとつ。他には存在しません。邪宗門であった歴史的な経緯はあるにせよ、このあたりが仏教の受容とは異なり、いまいち浸透してこなかった理由なのかもしれません。

 宣長の定義によるなら、サンタクロースは神であるとも言えます。真赤な服を着た異形の姿、白いひげは福神によく見られます。クリスマスイブに一軒ずつ家をまわり、よい子にプレゼントを置いて帰って行く。これはかつて折口信夫博士が唱えたマレヒト信仰に似ています。神様がやって来て、福徳をもたらし、帰っていく……そういう信仰が古来存在しているのです。

 現在も石川県の能登半島にアエノコトという風習が残っていまして、以下に詳しいので御参照ください。

西野神社社務日誌より アエノコトについて
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20081205

 二十年ほど前でしたか、デパートの一隅にお宮のようなものを設置して、とあるプロ野球の投手をお祭りしていたことがありました。

 その投手は優勝に多大な貢献をしました。そのお宮にお参りすれば、投手が所属するチームが勝利を収めるに違いないという思いもあったのでしょう。商業主義もあるのでしょうが、人が神と崇められた身近な例です。その後、その投手が打ち立てた記録が破られ、本人のプライベート問題もあったのでしょうが、そのお宮は撤去されたと記憶します。

 一口に神と言っても神道から考えたとき、多種多様な神様がいらっしゃいます。

 西欧的な二項対立の考え方でもって、こっちの神様が尊い、いやこっちの方がすごい、などと考えれば、そこから摩擦・軋轢が生じるのは当然でして、そうした意味では神道における神についての考え方の方がいいんじゃないかな、と思います。

2017/05/01

年神様のこと

 もう年が明けてしばらくたちますが、年(歳)神様の話をあれこれ。ここでは「年神様」として表記を統一します。

 いま「年神様」と「歳神様」とふたつの書き方をあげましたが、呼び方にもさまざまあるんです。もともと正月が年神様をお迎えする行事だったことから「正月様」。年殿がなまって「トシドン」。「年爺さん」なんて、より親しみやすい名前もあり、さらには「歳徳神」とも呼ばれます。

 安倍晴明が編纂したと伝わる占術書『簠簋内伝金烏玉兎集』(ほきないでんきんうぎょくとしゅう)によると、年神様は頗梨采女(はりさいじょ)であるとしています。頗梨采女は牛頭天王の妻です。牛頭天王は須佐之男命と同じなんだと考えられるようになると、須佐之男命の妻神の櫛稲田媛命は当然、頗梨采女、年神様と同一視されます。ややこしいので整理すると、

(夫)牛頭天王……須佐之男命
(妻)頗梨采女……櫛稲田媛命……年神様
 
「年爺さん」と呼ばれるようにお爺ちゃんだったり、頗梨采女や櫛稲田媛命のように女性であったりと、ずいぶん奥行の深い信仰だといえます。

 さらに、もともとは米を初めとする穀物の霊、あるいは稲霊であったという信仰もあります。「年」という字ももともと「稲」を指していて、大陸の古い辞書『爾雅疏』には「年は禾(稲)の熟す名、毎歳ひとたび熟す故に、もって歳の名とす」とあります。一年に一度熟するので歳=年と呼ぶようになったわけです。

 このように年神様は、農耕に関わりが深いわけですが、正月前に山から降りてきて里の人々に福をもたらし、屋敷でしばらく過してから帰っていくとも信じられてきました。

 こうしたタイプの年神様のお祭りの仕方に、大きく分けてふたつのタイプがあります。

 ひとつは、山から持ってきた松などを依代(よりしろ)、つまり年神様の神霊宿るものとするタイプ。これがのちに門松になったそうです。
 もうひとつは、祭壇を家の中に設置するタイプ。この祭壇は歳徳棚、年神棚とも呼ばれ、鏡餅や洗米、お神酒などの供物をおそなえし、灯明をともします。

 歳徳棚・年神棚は、通常の神棚とは違ってたいていの場合、設置する場所が毎年変わり、年神様のいらっしゃる方角を向ける(恵方、もしくは明の方)ならわしになっています(というより、歳徳神がその年にいる方角が恵方なのです)。

 今年の場合だと恵方は北北西ですね。

 ここまで、民間信仰に属することをお話ししてきました。年神様は上記のように稲の生育に関わりますから、宮廷においてももちろん重要視されていました。古代の法律『延喜式』の巻八、祈念祭の祝詞にも年神様が登場します。

御年皇神の前に、白き馬、白き猪(ゐ)、白き鶏(かけ)、種々の色の物を備へ奉りて、皇御孫命の宇豆の幣帛を称辞竟(お)へ奉らくと宣る。

 ここでは年神様に白い馬や猪、鶏をお供えしています。これは祝詞の表現として珍しいことで、他の神様へのお供えものについては、ほとんど同じ書き方なのに、年神様(ここでは「御年皇神」)だけは白い馬、猪、鶏などでなければいけないんです。

 なぜでしょうか。平安初期の斎部広成『古語拾遺』にその答えがあります。

昔在(むかし)神代に、大地主神(おほなぬし/おほとこぬしのかみ)、田を営(つく)る日に、牛の宍(しし)を以て田人に食はしめき。時に、御歳神の子、其の田に至りて、饗に唾(つは)きて還り、状(さま)を以て父に告(まを)しき。御歳神怒を発(おこ)して、蝗(おほねむし)を以て其の田に放ちき。苗の葉忽(たちまち)に枯れ損はれて、篠竹(しの)に似たり。

 神代の昔、大地主神が田を耕し始める日のこと。豊穣祈願のために捧げられた牛の肉を、農夫に食わせてしまいました。ちょうどそこへ御歳神の子が通りかかって牛肉を食べたことに気づき、お供えに唾を吐いて帰ってしまいます。父神も子の神様から聞きまして、大いに怒ります。害虫を田に放つと、すぐさま苗が枯れ細って、まるで笹竹のようになってしまいました。

是(ここ)に、大地主神、片巫(かたかむなぎ)・肱巫(ひぢかむなぎ)をして其の由を占ひ求めしむるに、「御歳神祟(たたり)を為す。白猪・白馬・白鶏を献りて、其の怒を解くべし」とまをしき。教に依りて謝(の)み奉る。

 そこで大地主神が、片巫と肱巫にその理由を占わせたところ「御歳神が祟っている。白い猪、馬、鶏をお供えして怒りを解きなさい」と申し上げました。大地主神はさっそく謝罪申し上げました。

御歳神答へ曰(のら)ししく、「実に吾が意(こころ)ぞ。麻柄(あさがら)を以て桛に作りて之に桛ひ、乃ち其の葉を以て之を掃ひ、天押草(あめのおしくさ)を以て之を押し、烏扇(からすあふぎ)を以て之を扇ぐべし。

 すると御歳神が「実に祟りは私の意である。祟りをはらうには田に出向いて、麻の茎で作った桛(糸を巻きつける道具)をもって掃うようにし、ごまのはぐさで押すようにし、檜扇であおぐようにしなさい。

若(も)し此(かく)の如くして出で去らずば、牛の宍を以て溝の口に置きて、男茎形(をはせがた)を作りて之に加へ【是、其の心を厭(まじな)ふ所以なり】、薏子(つすだま)、蜀椒(なるはじかみ)、呉桃(くるみ)の葉及(また)塩を以て、其の畔(あ)に班(あか)ち置くべし【古語に薏玉は都須玉(つすだま)といふなり】とのりたまひき。

 もしこのようにして去らなければ、牛の肉を溝(灌漑用の排水溝)の入口に置き、さらに男性器のものを作ってこれに加え(その気持ちを和めるよう、まじなうためである)、ハトムギ、山椒、クルミの葉と塩とを、田の畔にまいておきなさい」と、おっしゃいました。

仍りて、其の教に従ひしかば、苗の葉復(また)茂りて、年穀(たなつもの)豊稔(ゆたか)なり。是、今の神祇官、白猪・白馬・白鶏を以て、御歳神を祭る縁なり。

 そこでおことばに従ったところ、苗の葉がまた茂って、やがて米が豊かに実りました。だから今の神祇官では、白い猪、馬、鶏をお供えして、御歳神を祭るのです。

 御歳神の性格、巫の存在、呪術などいろいろと示唆に飛んだ逸話ですが、くだくだしくは述べません。

 ここで年神様が祟っていることから、古代の朝廷における祈年祭で白い猪や馬、鶏をお供えしていたのは、祟りを回避する意味もあったのではないかと考えられます。

2017/04/10

むかしのかみおろし

『神職寶鑑』という本があります。奥付を見ると明治32年3月5日印刷、同10日発行、編集者兼発行人は半位真澄、印刷者兼売捌人は田中治兵衛、定価は2円50銭となっています。当時としてもけっこう高価です。

 上下巻に分かれていて上巻の各章は、神体、建築、装飾および調度具、祭器および楽器。下巻は祭典、神饌、祝詞、祭服、作法となっております。

 下巻の作法を見ると、現行とは多少異なっていて面白いです。例えば『降神』。これは現在、斎主(その祭事の責任者)が「降神詞」を奏上して、また別な人が警蹕(けいひつ)を行います(おーーー、と長くオの音を伸ばすようにして行います)。

 では、『神職寶鑑』の当該部分を読んでみましょう。おおむね現在と同じなのですが、こころがまえの部分が面白いのです。

凡(すべ)て降神の行事は祭場挙(こぞり)て特(こと)に静粛にし、宜(よろし)く敬意を表すべし。唯斎主のみに任せ置くべからず。招請の誠を凝(こら)すべし。

 斎主(その祭事の責任者)だけに任せておいてはいけない、ということですが、この書き方からすると、御奉仕する他の祭員だけではなく、参列者も「誠を凝らし」なさいと解釈できると思うのですが、いかがでしょうか。

神祇を招請する作法は古来諸家之を秘密にして其伝統一ならず。然(され)ども現今普通の式は「アハリヤ、アソビハスト、マヲサヌ、アサクラニ、某の大神オリマシマセ」と三反称し、或は「ヒフミヨ、イムナヤコト、モモチヨロツ」の数歌を奏するもあり。

 降神の作法、秘密だったんですね。色々なやり方があり、統一していなかった訳です。「アハリヤ」以下は確か(伊勢の)神宮の降神詞だったと記憶します。「ヒフミヨ」以下は1、2、3・・・・・・。最後は百、千、万、ですね。だから「数歌」です。

斎主の任に当る者、心を虚(むなし)くし、精神誠意(ママ)を籠めて招請するに非(あらざ)れば、其(その)来格(らいかく)を致す事能(あた)はず。須(すべから)く教敬を極め純一他念なかるべし。

 このあたりは、そのままですね。今も変わりません。

一揖、再拝、平伏して降神詞を白(まお)し、畢(おわ)りて再拝拍手小拝して退くべし。立礼には磬折俯首して白すべし。副斉主之を奉仕するもよし。

 この通りにやれと言われたら、ちょっと今の神主は戸惑うかもしれません。「揖」「平伏」「磬折」は拝礼作法でして、今では深浅の区別をつけて、かっちり角度まで決まっていますので、浅いのか深いのか言って欲しくなります。

 また「小拝」「俯首」は現在では行わない作法なので、どうすればよいのか分かりません。「拝」は90度に腰を折りますので、「小拝」はその角度を70から80度くらいにすればいいのでしょうか。「俯首」は「首をうつむかせる」と考え、磬折した上で首をうつむかせれば良いのでしょうか。ちょっと分かりません。

 ……と、このように分からない部分もありますが、こころがまえの部分も交えつつ書かれていますので、ときどき興味深い記述に出会えるのです。

2017/04/07

清少納言と三管

 神社の祭典において、雅楽が奏されることがあります。雅楽で使用される主要な楽器を総称して「三管」ということがあって、篳篥・鳳笙・龍笛のみっつ。いずれも管楽器のためこの総称があります。

 他に雅楽で使用されるおもな楽器には、三鼓と総称する太鼓(たいこ)、鼓(かっこ)、鉦鼓(しょうこ)があり、さらに弾物として琵琶(びわ)、箏(そう)があります。

 この三管について清少納言は『枕草子』でこんなことを言っています。まず篳篥から。

篳篥は、いとかしがましく、秋の虫をいはば、轡虫などの心ちして、うたて、け近くきかまほしからず。

 篳篥(ひちりき)は超うるさい! 秋の虫に例えるならさあ、クツワムシに似てる。不愉快だよ、近くで聞きたくない。

 篳篥は小さい縦笛のような形状。清少納言の言うことからすると何だか取り付く島もありませんが、これは下手な人が吹く篳篥のことであります。

 つづいて鳳笙。

笙の笛は、月の明きに、車などにて聴き得たる、いとをかし。

 出ました、十八番の「いとをかし」。清少納言の決め台詞です。月が明るいとき、牛車の中で聴きつけるといいなあと思う。ずいぶん篳篥と扱いが違います。

 龍笛はどうでしょうか。

笛は、横笛、いみじうをかし。

「いみじうをかし」ですよ。「いみじう」がつきました。よっぽど好きなんですね。横笛はもちろん龍笛のことです。篳篥は縦ですが、龍笛は横なんです。

 篳篥はそれだけ難しいということかもしれませんが、どの楽器でも初心者のうちははた迷惑なのを気にして練習しなければならないのも確かで、清少納言が聴いた篳篥の音も、初心者が練習していたのかもしれませんね。

2017/04/06

「五箇条の御誓文」の神祭式

 4月6日は、明治天皇がいわゆる「五箇条の御誓文」を天地の神様に誓われた日です(ただし当時は旧暦で、3月14日に相当)。
 「天地の神様に誓われた」のですから、詔勅のように何かを命じられたものではありません。当然、神道の形式でお祭りが執り行われたわけです。
 
『太政官日誌』の明治元年3月14日「天神地祇に御誓祭の事」のくだりを見てみましょう。

 以下拙訳。

 三月十四日、内裏の南殿(紫宸殿)において、天地の神様にお誓いするお祭りを執り行われた。公卿や諸侯が集まって、お誓いに添って努力するよう約した。
 
1、正午、群臣が着座。
(公卿と諸侯は母屋、殿上人は南廂、徴士は東廂。皆衣冠の姿だった)

2、塩水行事。
(塩水によるお祓い。神祇輔の吉田三位侍従がこれを勤める)

3、散米行事
(米を諸方にまいて、お祓い。神祇権判事、植松少将がこれを勤める。

4、神祇督の白川三位が着座。

5、白川三位が神おろしの神歌を歌い、神様におりていただく。

6、お供えをあげる。白川、吉田、植松の三名が立って並び、手渡しで次々に運ぶ。事前の点検は神祇輔の津和野侍従。

7、天皇陛下が御引直衣姿で、お出ましになる。当時副総裁だった三条実美と岩倉具視、同じく輔弼の中山忠能、正親町三条実愛らがお供した。
 南面した玉座は右斜めに神座に向かい、平敷で四季屏風を囲われていた。

8、総裁職の三條大納言が御祭文を読み上げる。

9、天皇陛下がお玉串をあげて御拝礼になる。

10、三條大納言、(五箇条の)御誓文を読み上げる。

11、諸侯が、お誓いに対して努力する旨をお約束する。一人ずつまず神拝、つづいて陛下を拝し、それから下がって署名。当日出仕しなかった者は後に参内して署名、合せて767人であった。

12、天皇陛下がお戻りになる。

13、お供えをさげる。あげたときとやり方は同じ。

14、神あげの神歌を神祇督が歌って、神様にお帰りいただく。

15、一同退出。

 御祭文の写

 心に思うのも恐れ多い天の神様、地の神様の大前にて、この年の弥生、十四日を生き生きとして満ち足りた日にて祭礼を行うのに相応しい日と選び定めまして、お願い申し上げますことは、
 今から天の神様のお言葉のままに天下の政治をとり行おうとして、親王や公卿、諸侯や百官の人を率いて、こちらの神様の御座の大前にて誓いますことは、
 最近、悪い者があちこちで荒ぶり武を誇るので、天下が騒がしくなり、人の心も穏やかではなくなっています。ですから天下の全ての人間が協力し、心を一つにして、天皇たる私の政治をお助け申し上げ、お仕え申し上げなされとお祈り致しまして、そのお礼たる捧げものは横に広い山のように、うず高く積み上げて差し上げますのを、どうぞお召し上がりください。
 そして、天下の全ての人間を治めなさり、育みなさり、ひきがえるの這って行くことのできる地の果てまで、白い雲がたなびいているその果てまでも、逆らう者のないようにして下さいまして、遠い祖先の神様の恵みをいただき、永遠にお仕え申し上げるという人々の今日の約束を破る者は、天の神様、地の神様がすぐさま罰しなさるぞと大神様の前にて、誓いのめでたい言葉として申し上げなさることです、と申し上げます。

 御誓文の写

一広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ
一上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一官武一途、庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ、惓マサラシメンコトヲ要ス
一旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ
一智識ヲ世界二求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ

 我が国はいまだかつてない変革をなそうとしている。
 そこで朕自ら皆に先んじて、天地神明に誓い、おおいにこの国是を定め、全ての人間の保全の道を立てようと思う。皆もまたこの旨に基づいて、心を合せて努力せよ。
 年号月日 天皇のお名前(ご署名)

 公卿と諸候のお約束

 天皇のご命令を思うと誠に広く遠いところまでお考えになっておられ、実に感銘にたえません。今日差し迫った務め、未来のための基礎、この他にございますまい。臣らはつつしんでみ心を戴き、死を覚悟してひたすら努力することで、
み心を安らかにしたく存じます
 慶応四年戊辰三月
  総裁名印
  公卿諸侯各名印

 原文は以下の通り。ただし縦書きです。また、 旧漢字を新漢字にしました。
 御祭文中の< >内は小文字で右寄せで書かれています(宣命体)。

 ●原文

三月十四日、南殿ニ於テ天神地祇御誓祭被為在、公卿、諸侯會同就約ノ次第左ノ如シ

一午ノ刻、群臣著座
 公卿、諸侯母屋、殿上人南廂、徴士東廂
一塩水行事
 神祇輔勤之 吉田三位侍従
一散米行事
 神祇権判事勤之 植松少将
一神祇督着座 白川三位
一神於呂志神歌 神祇督勤之
一献供 神祇督、同輔、同権判事等立列拝送、同輔津和野侍従 点検
一天皇出御
一御祭文読上 総裁職勤之 三條大納言
一天皇御神拜 親ク幣帛ノ玉串フ奉献シタマフ
一御誓書読上
 総裁職勤之
一公卿、諸侯就約
 但一人宛中央ニ進ミ、先ツ神位ヲ拝シ
 御座ヲ拝シ爾後、執筆加名
一天皇入御
一撤供 拝送如初
一神阿計神歌 神祇督勤之
一群臣退出

 御祭文之御写

懸<久毛>恐<支>
天神地神<乃>大前<爾>今年三月十四日<乎>生日<乃>定日<登>撰定<天>禰宜申<左久>
今<与利>天津神<乃>御言寄<乃>随<仁>天下<乃>大政<遠>執行<波無止之天>親王卿臣国々諸侯百寮官人<遠>引居連<天>此神床<乃>大前<仁>誓<津良久波>近<起>頃<保比>邪者<乃>是所彼所<仁>荒<備>武<比天>天下佐夜芸<仁>佐夜芸人<乃>心<毛>平穏<奈良受>故是以天下<乃>諸人等<乃>力<遠>合<世>心<遠>凍一<津仁之天>皇我政<遠>輔翼奉<利>令仕奉給<閉止>請祈申礼代<波>横山<乃>如置高成<弖>奉<留遠>聞食<弖>天下<乃>万民<遠>治給<比>育給<比>谷蟇<乃>狭渡<留>極白雲<乃>墮居向伏限逆敵対者<波>令在給<波受>遠祖尊<乃>恩頼<遠>蒙<利天>無窮仁仕奉禮留人共乃今日乃誓約<爾>違<波>無窮<仁>仕奉<礼留>人共<乃>今日<乃>誓約<爾>違<波受>者<波>天神地祇<乃>忽<仁>刑罰給<波無>物<曽止>皇神等<乃>前<爾>誓<乃>吉詞申給<波久止>申

 御誓文之御写

一広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ
一上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一官武一途、庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ、惓マサラシメンコトヲ要ス
一旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ
一智識ヲ世界二求メ、大ニ皇基ヲ振起スヘシ

我国未曽有ノ変革ヲ為ントシ
朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ立ントス、衆亦此旨趣ニ基キ、協心努力セヨ
 年号月日御諱

 公卿諸候就約ノ事

勅意宏遠 誠ニ以テ感銘ニ不堪、今日ノ急務、永世ノ基礎、此他ニ出ヘカラス、臣等謹テ 叡旨ヲ奉戴シ、死ヲ誓ヒ、黽勉従事 冀クハ以テ
宸襟ヲ安シ奉ラン
 慶応四年戊辰三月
   総裁名印
   公卿諸侯各名印

2017/04/05

神職の職位・階位・級位

 以前、某神社の同職の方が葬儀のご奉仕をするといつも控室の入口に「神官控室」と書いてあるけど、「官」じゃないから違うんだけどなあ、と言っていました。一般には「神主」といわれることが多いですが、公称は神官でも神主でもなく「神職」です。

 神社にお勤めしている神職はみな、職位・階位・級位が決まっています。以下、宗教法人・神社本庁包括下の神社の場合について、ご説明します。
 
●神社内での職位●

 要は一般の会社での役職名、社長、部長、課長……などとほぼ同じといってよいでしょう。

宮司(ぐうじ)……その神社の責任者
権宮司(ごんぐうじ)……いわば副宮司。大きな神社のみ。
禰宜(ねぎ)……管理職
権禰宜(ごんねぎ)……一般職員
出仕(しゅっし)……見習い

 他、歴史ある神社では主典(しゅてん)、宮掌(くじょう)など古くからの職名をそのまま用いているところも多いですが、基本は上の五つ。小さい神社では宮司のみ、宮司と禰宜のふたり、宮司と権禰宜のふたりなどと、すべての職位の者がいなければならない……というものではありません。
 
●階位●

 階位は神職の免許証のようなものです。これがなければ神社で神職として採用されることはありません。上から順に浄階・明階・正階・権正階・直階の五種類。
 
○浄階
 大きな神社で長年、宮司や権宮司として活躍するなど、功績の顕著な人が選考を受け、神社本庁の役員会の承認をへて検定、授与されます。

○明階
 主に大学を出て、神職として数年研鑚を積んで授与される人が多いです。大きな神社の宮司・権宮司になるには、この明階以上が必要です。

○正階
 各地の養成所を出た人が多いようです。養成所は、色々な神社で日々奉仕するなど、大学よりも実践的。最初からもう、即戦力として活躍できます。

○権正階
 普通の神社の宮司になるためには、この権正階以上が必要です。「権」は「仮の」「副」という意味ですから「部長見習」「係長心得」なんていうのと少し似ています。

○直階
 最も基本的な階位。簡単に取得できるように思われるかも知れませんが、なかなか大変ですよ。


●身分●

 この身分によって袴の色が決まります。下記「藤の丸」は文の名前、「神宮」は伊勢の神宮のことです。

○特級(白固織・藤の丸)
 神社本庁統理と神宮大宮司は無条件に特級となります。他は、長年の功績が認められた人。

○一級(紫固織・藤の丸)
 神宮少宮司は無条件に一級です。
 他には、特級と同様、長年の功績が認められた人。

○二級上(紫固織・藤の丸共緯)
 神宮禰宜、大きな神社の宮司や権宮司であれば、無条件に二級上です。
 もしくは正階・二級の神職で、二級となってから十年以上がたっていて、成績優秀な人。

○二級(紫平絹)
 神宮禰宜・大きな神社の宮司や権宮司。
 三級の神職として十五年以上、または神職として二十年以上在職して、成績優秀であったり、功績顕著であったり、表彰を受けたりなど、他はさまざまです。
 
○三級・四級(浅黄平絹)
 現に有している階位が直階ならば、無条件に四級、他は三級です。逆にいうと、階位を最初に取得したときに権正階以上であれば無条件に三級、ということになります。

 さて私の場合は、

 職名:宮司
 階位:明階
 身分:三級

 ということになります。

 これらは言うまでもなく人間の側の話であって、神様にとってみれば、何の関係もないことに違いありません。ただ、大きなお祭りの責任者は普通宮司ですし、そのお祭りの中で、より重要な役は上の方の人が行う方が、理にかなっています。

 まして一般の方には、ハカマの色にしても階・級位にしても全然関係のない話ですが、これらの制度によって上下関係を定めることは間違いなく祭事を行うためのもの……と、ご承知おきください。

2017/04/04

『神職奉務心得』より

『神職奉務心得(資料集)』(神社本庁編)という小冊子があります。いわば神職(神主のことと思ってもらってよいです)の心がけを新旧さまざま、集めたものです。

 神職養成課程の学生のときに、いいなあと思って生協で買い求めたのですが、その後、実習の際にわたされ、さらに以前神職だった方が引退するときにも一冊いただき、あれよあれよといううちに三冊も手元にあります。ちゃんとやれ、という神様のメッセージなのでしょうか。

 それはともかくとして今日は、その冊子の最後にあるものを、ご紹介します。耳の痛いこともけっこう書いてある(なんて言っちゃいけませんね)のですが、現代文で(資料集の多くは古文)読みやすく、読んでいると襟をただそうという気持ちになります。

―――――――――――――――

 昭和五十一年、岐阜県神社庁で発行された『神職手帳』所収。
 岐阜県神社庁教学委員会では、昭和五十年、神社本庁に中央研修所が開設された機会に「神職の奉務心得」の作成を手がけ、『神職手帳』はその成果。
 
   総則
 神社本庁は神宮を本宗として、神祇の恩徳を奉戴して、神社の興隆を図り、斯道の宣揚に努めて道義を作興し、もって人類永遠の福祉に寄与することを目的として、全国神社の総意に基いて設立された。
 この本庁設立の精神を体し、神明に奉仕する神職は、神社の特性及び伝統を尊重して、各々その本分をつくさなければならない。
 そのため神職が平素心得べき要件は、次の通りである。
 一、神職たるの品性をたもち、氏子崇敬者の師表となること。
 二、常に国典を修め、徳性を養ひ、行学一致を心がけること。
 三、心身の清浄を期し、祭祀を厳修すること。
 四、神意を奉戴し、社会教化につとめること。
 五、社殿境内の尊厳保持につとめ、社務の処理に適正を期すこと。
 
   第一章 品性の保持
 神職は常に清明心を養ひ、正直を旨とし、礼儀を重んじて、品位を保持し、その体面をけがすやうなことがあってはならない。
 そのために平素左の事項に留意しなければならない。
 一、職務に対しては、表裏なく精励すること。
 二、人に接するに懇切丁寧を旨とし、言語を慎み、謙虚な心を忘れないこと。
 三、服装は清潔にして、人に嫌悪の感を与へないこと。
   白衣を着用する場合には、特に次の事項に留意すること。
   1、白衣の下重ねに異色の衣服着用を避けること。
   2、白衣にて外出の場合は、道中用の羽織袴を着用すること。
   3、白衣にて品位をきずつけるやうな行為をしないこと。
 四、常に行動に責任を持ち、祭典時間等の約束を守ること。
 
   第二章 行学の研鑽
 神職は常に神社神道の道一筋を心がけ、平素国典を修め、言霊信仰の尊さを体得し、行学一致の実を挙げるため、左のことに努めなければならない。
 一、肇国の神勅を奉じ、神代を今によくその気を養ひ、神典及国史国文を研鑽すること。
 二、潔斎を重んじ、心身の練磨に努めること。
 三、日夕神前の奉仕に励み、神気の体得に努めること。
 四、奉仕神社の由緒及伝統を究め、御神徳の宣揚に努めること。
 五、神職の研修制度にもとづき、常に斯道の研修に努めること。
 
   第三章 祭祀の厳修
 祭祀は神明に誠心誠意を捧げ、神威を畏みて神徳に神習ひ、神の御心を我が心とする、神人合一の境地を顕現することである。
 従ってこの祭祀を行ふに当っては、斎粛恭敬を旨とし、左の事項を大切にしなければならない。
 一、清浄と斎戒を重んずること。
 二、祭祀は神社本庁の定める祭祀規程に則り懈怠なく奉仕すること。
 三、祭式は神社本庁の定める神社祭式及行事作法の習熟に努めること。
 四、祭祀の服装は神社本庁が定める規程を遵守すること。
   尚、服装は身分により制定されて居るが、左の場合は特に注意すること。
   1、二級以上の神職身分を保有する者が、他の神社の禰宜以下の職員を兼ねて居る場合、その兼務神社においては、宮司の身分と同等以上の身分を表示する服装は自粛して使用しないこと。
   2、他の神社において助勤する場合における助勤神職の座位は、原則として助勤先神社の神職の次であるべきである。従って前号及び本号に該当する場合の祭祀服装は、斎服又は浄衣を使用するを適当とする。
 五、祭祀を奉仕する場合、服忌の心得を厳守すること。
 
   第四章 社会の教化
 神職は氏子崇敬者に接しては、常に敬神生活の綱領の普及と実践教化に努めなければならない。
 社会活動の具体的な目標は左の通りである。
 一、神恩に感謝し、つとめて神社に参拝せしめること。
 二、崇敬のまことを捧げ、社頭の繁栄につとめしめること。
 三、神棚をまつり、家庭の祭祀を行なはしめること。
 四、氏子総代会の活動を活発ならしめ、神社単位の子供会、青年会、婦人会等の育成に努めること。
 
   第五章 社頭の実務
 神職は社頭の維持管理に当り、法令、庁規、規程、規則の定めに従ひ常に氏子崇敬者の信託と協力を得て、神社の尊厳を保持し、神徳の昂揚に努めなければならない。
 そのため日常の奉仕には左の点に留意しなければならない。
 一、社殿及境内の清潔修理に注意し、神社の尊厳保持に努めること。
 二、境内の森厳を保持するため、常に樹木の管理に努め、風致を害することのないやう注意すること。
 三、火災盗難等の予防並に施設工作物等による危険防止については万全を期し、予め取締方法を定め、常に警戒を怠らないこと。
 四、神社の土地、建物、宝物、貴重品、古文書等については、常に管理保存に努めること。
 五、神社の法定書類を整備し、特に金銭物品の出納に関しては、会計収支を明確にし苟しくも公私を混淆してはならない。
 六、神社財産の造成を図ると共に、所属山林については、保護植栽を懈らないこと。
 
   第六章 道義と制約
 神職は常に、神職としての道義を守り、制約に従ひ、その本分を全うするやう努めなければならない。
 その主たる事項は次の通りである。
 一、神職は奉仕神社の所在地附近に居住するを原則とするも已むを得ざる遠距離の場合は、常に通報連絡の出来る措置を講じて、奉仕に支障のないやう留意すること。
 二、神職が他の神社を兼務する場合は左の事項を避けること。
   1、本務に支障を来たすと認められる場合。
   2、神社奉仕に困難と思はれる程遠距離に亘る場合。
   3、神社奉仕に困難と思はれる程多数に亘る場合。
 三、神職が他の職を兼ねる場合左の事項を避けること。
   1、神職の奉務活動に支障を来たすと認められる場合。
   2、神職として好ましくないと認められる場合。
 四、神職は、本庁に所属しない神社又はその他の宗教法人の役職員を兼ねることができない。
   但し特別の事情により統理の承認をうけた場合はこの限りでない。
 五、神職が他の神社を兼ねる場合及他の職を兼ねる場合は、宮司は本務神社の役員、権宮司は本務神社の宮司及役員、祢宜権祢宜は本務神社の宮司の同意を得なければならない。
 六、受持以外の神社又は地域に於いて神事を奉仕する場合は、その該当受持神職の委嘱又は承諾を受けなければならない。但し一個人に対する祈祷霊祭等は此の限りでない。
 七、卜筮、方位、禁厭等をもって、紊りに吉兇禍福を説き、又は無稽の加持祈祷を行ってはならない。
 八、神職は神社界の諸行事に積極的に参加し、相互に切磋琢磨友交を深めて斯道の宣揚に努めなければならない。

2017/04/03

神職の辞令いまむかし

 検索ワードで「神職の任用辞令 書式」というのがあって、興味がある方がいるのかなと思って記事にする次第です。
 実物について説明すれば一目瞭然、私の任用辞令を例にしますと以下のようになっています。

①某神社権禰宜・氏名
②北海道北見市相内町
③相内神社宮司に任ずる
④平成二十九年四月一日
⑤神社本廰

 縦書きになっていて、④の中央あたりに神社本庁のハンコが押してあります。①は宮司に任ぜられる前の職、氏名。⑤は中央よりやや下寄せです。なお③が一番大きく書かれています。

 他に神職(神主)が持っているモノとして大きなものには、級位証と階位証があります。

 級位証は2級以上の人(2級・2級上・1級・特級)が、その級位を得たときにいただきます。つまり3級以下(3級と4級)は発行されないのです。私は3級ですので、持っていません。

 階位証の方はいわば神主の免許証のようなものなので、誰でも必ず持っています。上から「浄階」「明階」「正階」「権正階」「直階」の五つがあります。

 一般向けの神社・神道の書籍で、この階位をピラミッド状に書いているものがよくあります。でも、「権正階」「直階」を持つ人の数より、「明階」「正階」を持つ人の数の方が多かったと思います。実数をきちんと確かめた訳ではないですけれど。

 この書式は、恐らく明治以降戦前までの辞令を、ほぼそのまま踏襲しているようです。

 では、さらに以前、江戸時代はどうだったかと言うと、神祇官という朝廷のお役所の次官を代々勤める吉田家が、「神道裁許状」というものを出していました。一例をあげると、こんな感じです。

○○国○○郡○○村○○神社之祠官○○何とかの守○○
恒例之神事祭礼参勤之時、可着風折烏帽子狩衣者也
神道裁許之状如件

○○年○月○日【朱印】
神道管領長上卜部朝臣○○【花押】

 住所と神社の名前、裁許状を受ける人の氏名をあげ、「いつも行う神事・祭礼のとき、風折烏帽子と狩衣をつけなさい。神道裁許の次第は以上」くらいの意味でしょうか。

 「神道管領長上」は神祇官の副官のうち最上位という肩書き、「卜部」は吉田さんの本姓、「朝臣」は朝廷にお勤めしていますよ、ということです。また「花押」は今でいうサインのようなものです。

 吉田家は独自に○○守(加賀ノカミ、陸奥ノカミ、長門ノカミなどなど)という名称を各国の神主さんに与えていました。これを吉田官と言います。センエツながら、もし私がいただけるなら伊豆守がいいです。その暁には伊東温泉に入って、修善寺温泉に入って、湯ヶ島温泉に入って、蓮台寺温泉に入ってミソギをすませ、神事に臨みます。

 冗談はともかくとして話を元に戻すと、「風折烏帽子」はカブリモノ。烏帽子の上部が折れた形になっています。これは現在、神職がかぶることは通常、ありません。「狩衣」は小さめのお祭りや各種ご祈祷などで、よく神主が着ています。

 裁許状がないと、このふたつ、つけることができなかったんですね。また、裁許状を得るには、お金が必要だったと聞いたことがあります。なかなか昔の神主さんも大変だったんですね。