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2019/06/30

大祓

百物語 第十六夜

大祓


※怪談です。苦手な方はご注意ください。



 神社、ね……。

 そうは見えないけど、あなた神主さんだったのね。

 奇遇ですけど、私の旦那がある神社の役員をしていたんですね。

 病気になってからお役に立てないようになったんで、今は辞めちゃったんだけど、十年くらいかな。けっこう長いことやってたわよ。

 一回だけ、私も神社のお詣りをしたことがあります。

 ううん。厄祓とか車のお祓いとかで何回かお邪魔したことはあったんだけど、そういうのじゃなくて……役員や総代がたくさん集まってね。あれは確か、大祓といったかな。

 あら、そうなの。年に二回あるんだ。それは知らなかった。六月か十二月か? 大晦日なんて、とても行けないわよ。だいたい、大晦日の夫婦って忙しいのよ。六月よ、六月。

 どうして参列することになったのかしらね。もう忘れちゃったけど、たいした理由じゃなかったんだと思う。

 いちおう正装して、旦那といっしょに出かけたんです。

 神社について、拝殿の席についたらね、旦那がいうんですよ。

「ここの神様はな、ちゃんとしとらんとバチあてるぞ」って。

 子供にいい聞かせるみたいだって、ハイハイって聞いてたんです。

 それから神主さんが入ってきて、いろいろして祝詞が始まるくらいには、やっぱり厳粛な雰囲気になってね、私も子供の入学式や卒業式のときくらいには、はかしこまっていました。

 バカなことしたなあ、と今でも思うのはね、神主さんが祝詞をあげているとき、風邪が治りますように、って心の中でお願いしたことなんです。

 いえいえ、ちょっと風邪ぎみだったんです。微熱があったくらい。もちろん大祓とは直接関係ないわね。ほんの軽い気持ちだったの。神社から帰ってきたときにはもう、忘れていたくらいね。

 風邪はそのあとすぐ治りましたけど、これってやっぱり、願をかけたことになるのよね。すっかり忘れていたんだけど……。

 私が急に倒れたのは、それから二、三日してからかな。

 晩御飯のしたくをしているときに、突然ひどい目まいがしてね。すぐに立っていられなくなりました。

 もう御飯のしたくなんて無理で、ベッドにむかっているところで力尽きたのね。

 意識を失っているあいだに、こんな夢を見ました。

 真っ暗な空間の中でね、狛犬が二頭、ぐるぐる走り回っているんです。いや、それが違うんです。その神社の狛犬とは違っていて、ドーベルマンのようにほっそりとした体つきだったの。顔は狛犬そのものだったんだけどね。

 え? あら、そうなの……一匹は獅子なんだ。獅子と狛犬ね。

 とにかくその獅子と狛犬が、どっちもね、しきりに私を威嚇してくるんですよ。

 うなり声は聞こえないんだけど、目が怖くてね。明らかに、怒っているようだった。

 噛みつかれそうになって、思わず許してって叫んだとき、意識がもどったの。旦那に起こされたらしいんだけど、ボーッとしていて、よく憶えていません。

 救急車だ、病院だ、と大騒ぎになったらしいんだけど、かつぎこまれた先の病院の先生は、過労のところへ風邪をひいただけ、っていうんですね。それくらいで救急車を呼ぶな、って感じでしたよ。

 うん。おかしいと思いませんか? 私さっき、風邪は治っていたっていいましたよね。お医者さんから見たら違うのかもしれないけれど、その日は一日、ピンピンしてたんだから。少なくとも私は、元気なつもりだった。

 納得いかないまま入院しまして、次の日帰ってきたんです。

 車の中で旦那がいいました。

「よかったな、何てことなくて」

「風邪じゃないはずなんだけど……何だったのかしら」

 私がそう答えると、たまたま信号待ちになって、夫がこっちを見てきたんですよ。怪訝そうな表情をしていました。

「おまえ、覚えてないのか……? うわごとで、いってたじゃないか。
神様ごめんなさい、お礼に行きますって」

 どうも私はね、願いが聞き届けられたのにお礼参りしていないことを、しきりに謝っていたらしいんです。忘れていたはずなのにね。自分では、助けてと叫んだつもりだったんだけど……。
 
 病院に一泊している間に、旦那が代わりにお詣りしたそうです。

 もちろん、お詫びも兼ねてね。

2019/06/29

燈籠崩し

百物語 第十五夜

燈籠崩し


※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 わしが幼い頃のこと、養子に入った家の話じゃ。

 その家には二十坪くらいの庭があった。石を置いて池をつくったり、木を植えたりして、なかなか風流なもんだったんじゃが、たいていそんな庭には、燈籠がありそうなもんじゃろう。

 確かに客の中にも、庭を見て、燈籠のないのが何だか寂しいという者もあった。

 するとそのたびにな、わしの養父がいうんじゃ。

「この家では、庭に燈籠を立てないことになっとる」とな。

 理由はよく分からん。とにかく代々、禁忌になっとるんじゃと。

 それでおさまらん者がおって、ああ……筋骨隆々の若い男。神さんも仏さんも信じとらん罰当たりじゃったな。そんなの迷信だの何だのいって聞かない。

 こういう話でこういう手合いが出てきたら、痛い目に遭うに決まっとろうな。

 まあ、つづけよう。

 その若い男、養父の許しを得てなあ……翌日、どこから運んできたのか、石燈籠を立てたんじゃ。

 そうさなあ、その石燈籠の丈は、わしと同じくらいじゃったかの。一メートル三、四十くらいか。

 男は設置してからしばらくいたが、何にもないわ、やっぱり迷信じゃとはき捨てて、帰っていった。

 ところが翌朝になってわしがふと庭を見るとな、燈籠の宝珠、傘、竿が分解されて、立てたところに行儀よく並べられとった。

 むろん、誰がやったわけもない。うん、夜中に外から人が入ってくることはできたろうよ。それで、分解して、きれいに並べていったと。酔狂であってもまあ、ありえなくはない。

 養父が男に連絡すると、すぐにまたやってきた。

 別な燈籠を調達して……知り合いだか何だか、二、三人連れてきて、分解した燈籠を組みなおして、さらに新しい燈籠をその横に置いてなあ。養父には、あんたがやったんだろうなどと食ってかかる。

 売り言葉に買い言葉、養父は、じゃあ一晩中見張ってみやがれという。男の方はむろん引くことなど思いもよらぬ。寝ずの番をすることになった。

 わしもな、日付が変わる頃まで頑張って、眠い目をこすりつつ庭を見ていたが、何も起こりゃあせん。我慢できずに、まもなく眠ってしまった。

 さて翌朝になると、やっぱり宝珠、笠、竿……分解されて、きちんと置かれていた。そうじゃ。二基とも……どっちもじゃ。

 男によれば、目を離しはしたが、ほんの一瞬だったという。

 その一瞬のうちに、石燈籠がばらばらになっていたんだと。そのときはもう、初めの威勢はどこへやら、青い顔して震えとったな。まあ徹夜したせいもあるんじゃろうが。

 それで男は、もう諦めることにしたという。

 いやいや、それだけ。それだけで、後難なんてもんはなかったよ。

 燈籠を置いたらばらばらにされる、ただそれだけの話じゃ。それ以降も、わしが家で生活していく上で何の支障もなかった。

 ただ、わしは二十歳のときに養子関係を解消することになって、その家を出たからのう……あとのことは知らん。

 ああ、その家の場所な……神田じゃ。

 古本屋街まで歩いて五分くらいのところに、いまもある。

2019/06/28

幽霊アパート

百物語 第十四夜

幽霊アパート


※怪談です。苦手な方はご注意ください。



 以前、私は個人経営の塾をしていまして、教え子のひとりに、家がお寺って子がいました。

 その子から聞いたんですが、お寺の向かいに建っているアパートで、幽霊が出ると。

 高校生の話ですから、最初はふんふん聞いていたんですよ。築十年ほどだし、外観も今風でね。だいたい、お寺の向かいなのに成仏してない霊がさまよっていていいのかって、笑っていったんですよ。

 それでも「出るもんは出るんだ」なんていうんです。

 夜、顔が血まみれの女が壁からぬっと現れて、部屋をつっきって向かいの壁へと消えていく。つまりは、その部屋を通り道にしているわけですね。

 このアパートには、表通りに面して駐車場がありましてね。なぜかはわかりませんが、そこをぐるぐる回っている女の姿を、見た者もいるっていうんです。ああ、それは顔が血まみれじゃなく、また別の女性なんですがね。

 ざっとこんな噂話が、教え子の周辺で話題になっていたそうです。恐らく虚実ないまぜになって、尾ひれもついているんでしょうけどね。

 教え子の父、つまりご住職がいうには、かつてアパートのあった場所には馬頭観音が祀られていた。でも、よそに移転してしまい、その鎮めがなくなったから現われたものだろう…そういっていたと。

 なぜかこの町のお寺はかたまっていましてね、どれも大きいお寺でもないんですが、宗派の違うのが南北に四軒、並んでいるんです。ちょうど件のアパートが、四つのお寺の真中にあるんで、その位置もよくないのかなと思うことがあります。

 それで、よせばいいのにその話を聞いた日に私、見に行ったんですよ。もちろん、その教え子に、何もいなかったじゃないか、といいたいためにね。

 授業が終わって宿題の丸つけなんかが終わってからなので、もう真夜中でした。

 向かい側、つまりお寺の門を出たところのすぐ横に車を停めましてね、運転席から駐車場の方を見ていました。まさか、アパートの部屋をのぞくわけにはいきませんからね。

 壁がクリーム色で、屋根は紺色、部屋は六つあって、明かりがふたつ、ついていました。カーテンの有無からして一部屋が不在か寝てしまったか。他の三部屋はあいているらしい。

 駐車場には、一台も車がありませんでした。

 消えかかった白線が引いてあって、駐車場の敷地じたいに若干、傾斜があるようです。

 すぐそばに街灯が立っていて明るいし、陰気な感じもしなかったしで、十分もしないうちに飽きてきました。それで、エンジンキーを回そうとした瞬間ですよ。

 ブウウーーン……

 蜂の羽音のようなのが聞こえてきました。いえ、実際、ドアを開け閉めしたときに蜂が入り込んだのかな、って思ったんですよ、最初は。

 刺されるのは嫌ですから、ゆっくり助手席の方へ身体を向けて、探したんですよ。後部座席の方へ首をむけて、どこかに隠れていないか見てみた。するとまた、蜂が飛ぶような音がしました。

 ブウウーーン……ブウウーーン

 心なしか、最初に聞いたのより音が大きくなったなって思ったら、

 ブウウウーーーン

 と、すぐ耳元で聞こえて、びっくりしたんですよ。

 それで、ハッとして駐車場の方を向いたら、そこにいたんです。

 女がいて、めちゃくちゃに手を振りまわしながら、でたらめに歩き回っている。

 私、それまで幽霊とかオバケとか、見たことはありませんでしたけど、すぐにわかりました。ああ、これはこの世のものじゃないな、って。ええ、すぐに気づきますよ、あれは。

 だって、二メートルくらいの腕の人なんて、いますか?

 腕全体を鞭のようにしならせて、振りまわしながら、うろうろしてるんですよ。

 蜂の羽音だと思ってたのは、女が腕を振ったときの音だったんです。

 それでもまだ、車の中にいるって安心感がありましたね。今、こうやってお話できるのも、どこか車から出なければ大丈夫だって思ってたから、平静を保てたんでしょう。

 それでも、あんな禍々しいものは長い間、見たくはありません。手は震えていましたけどエンジンキーを何とか回して、車を出しました。

 家に帰ったら、すぐ強い酒を飲んで寝ましてね。

 翌朝、起きてから何だか違和感があるなって、心のどこかに引っかかるものがあるなって、落ち着かなかったんです。

 顔洗ったり、飯食ったりしているうち、レースのカーテン越しに見えている車、ああ、もちろん私の車ですよ。どうも車のことが気になってならない。

 それで、カーテンを開いて見てみたんです。

 フロントガラスがなくなっていました。

 慌てて着替えまして、行ってみたんです。車のところへ。

 フロントガラスどころか、ウィンドウ全部が割られていました。

 それからはもう、警察呼んだり、保険屋に連絡したりで大騒ぎしたんですが……。

 警官がいうにはね、この割れ方は外から衝撃を受けたもんじゃないよ、って。交通課にいたから、何度も事故の処理をしてるからわかるんだけど、ってね。

「鍵はちゃんとかけましたか?」

 そう聞かれたけど、確かに鍵はかけたはずなんだな。

 結局、事件にはできそうにないし、ウィンドウ全部を入れ直すとかなり金もかかるんで、廃車にしました。

 いや、違うな……廃車にしたのは、ガラスが中から割られていたからです。

 私はね、てっきりその女の腕を回す衝撃波か何かで、割れたと思った。でも、あれは……姿は見えないまでも、車の中に入り込んでいたのかもしれない。

 そう考えるとね、これはもう廃車にするしか、ないじゃないですか。

2019/06/27

あかずのま

百物語 第十三夜

あかずのま


※怪談です。苦手な方はご注意ください。



 おれの田舎に、荒木田さんて店がある。

 本とかCDとか文房具とか、そんなもので商売している。
 
 これは以前、べつな場所で呉服をあつかってたんだが、昭和十五年の大火で店を焼かれちまってなあ、それからいまの場所に移った。

 うん、町じゅう火事でやられたってことがあったんだ。子供の頃、爺様婆様からそのときのことをよく聞いたよ。田舎だからな、戦争より大事件だったってもんも多かったんじゃなかろうか。

 荒木田さんにしても話に聞くだけなんだが、前の店は浜寄りにござって、こりゃでっかくてなあ、建坪だけで百はあったんじゃないかっていう。使用人なんかがいっぱいいたことだろうし、部屋数も相当あったろうな。

 そしてその中のひとつに……開かずの間があった。

 開かずの間ってのは、開けることができない部屋ってんじゃない。おいおい話すが、怪しいことが起きる。だからその部屋をつかわない、開けない。それで〈開かずの間〉さ。

 町で大火があったその前だから、昭和十年くらいか……荒木田さんで新しく雇い入れた女中がな、ひどくいじめられたってことがあった。

 ああ、いまは女中と言っちゃいけないのか。お手伝い? うん……まあ女中でよかろう。

 いじめられてたわけは知らん。きっと、わけなんかないよ。そのときいじめた方に聞いてまわったとしても、ろくな返事しかできんだろう。

 このいじめ、そりゃあまアひどいもんだった。飯を少量しかやらない。番頭から聞いたことを伝えない。里からの手紙を捨てる。服に泥をつける。ハバカリに入っているときにシンバリ棒をかける……。

 いやア、主人は見てみぬフリだろうさ。

 へたに口出ししようもんなら、陰でこそこそと、しかも嵩にかかっていじめるに決まってる。孤立無援……それでも新米の女中はしょっちゅう泣きながらも、耐えていたそうだ。

 あるとき、この新米の女中が開かずの間に閉じ込められた……みんなこの部屋をおっかながっていたから、もちろんこれもいじめのひとつだった。

 新米の女中にとっては幸いなことに、きたばかりで開かずの間ってことを知らんかった。窓がないから暗いし、外の様子もわからないけれども、怖がりもせず、いつか開けてくれるだろうとひとり部屋の真ん中で待っていたんだ。

 しばらくするとなにか煮炊きするにおいがしてきて、晩飯の時間が近いと知った。

 アア今晩は飯抜きかもしれないと、新米女中はただでさえひもじい腹を撫でた。

 それと同時に、なんとなく部屋の中がざわざわしだした。

 耳を澄ますと、たくさん人がおり、話をしているようだ……なにをいっているのか注意してみたが、どうしても聞き取れない。気配があるだけ。両手で周囲を掻いてみても、空を切るばかりだ。

 それで一気に恐ろしくなった新米の女中は、身うごきひとつできなくなった。

 ただ……目をこらして暗闇をじっと見ているうちに、だんだん女の姿がぼうっと浮かびあがってきて……もっといっぱいいたはずなんだが、そこにいたのは三人。

 髪に長い笄をさしていたり、打掛を着ていたりと、ずいぶん昔風の女ばかりだった。

 そのうちの一人が新米の女中に、
「そなた、なぜここに入った」と聞いてきた。

 新米女中はもう、怖ろしくてたまらない。震えつつもわけを話した。

 するとその女が、「じゃあここから出してやろう。だが、われらがここにいたこと、ゆめゆめ語るなかれ」
 
 と、こう誡めつつ襖に手をかけると、スッと開いた。

 とたんに全身が弾かれたようになって、女中は自由に身うごきできるようになった。

 這って逃れてとなりの座敷に入ったとき、後ろでバンとものすごい音がした。

 思わず振り返って見ると、襖はもう閉められていた……。

 まあ、こういう話だ。

 それからいろんな人に、何度も聞かれた……どうやって開かずの間から出たんだ、と。

 でも、新米女中は決して口を割らなかった。

 何せ、話すなっていわれたんだからな。わけをいっちまったらあとが怖い。それでいじめがますます酷くなったんだが、いじめよりもモノノケの方が怖い。

 こうしてしばらくは我慢したけれども、開かずの間は怖い、いじめは嫌だで、とうとう耐え切れなくなってお暇を頂戴することとなった。

 いいや……うん、まだあるんだ、つづきが。

 この女中、実家に帰ってほどなく、嫁入りしたんだな……近くの農家だ。

 あくる年には子供も生まれて、幸せいっぱい。もちろん荒木田さんでの御奉公のことなんざ、忘れとった。祝言の前にはそりゃあ、荒木田って呉服店にいて、なんて話も出ただろうが、いっしょになってからは女中改め嬶も、昔話なんてせんかった。つらいことばっかりだったんだからな。

 ところがあるとき、旦那がふと聞いちまった。

 前にいた呉服屋って、どんなところだったんだって。

 うん……べつに深い意味なんてなかったろうさ。もちろん、終わったことを詮索する気もなかったんじゃないか。

 嬶はな、そうそう、そのとおり……ついつい開かずの間でのできごとを話してしまったんだ。

 開かずの間に閉じ込められて、そこには女が三人いて……ってな。

 それでなあ……話が終わった瞬間。

 嬶が上半身を突っ伏すような恰好で、倒れっちまった。

 慌てて旦那が駆け寄ってみたら、口から泡をふいてる。

 救急車を呼んだんだが、助からなかった。急な心臓発作だったんでしょう、で終わり。

 だが、弔いのときに旦那が気づいたんだけれども、嬶の首筋に、針金で締めたような細い筋が一本あった。夫婦で話をしていたときに、部屋には誰もいやしなかった。医者は藪だったのかどうかは知らんが、針金みたもんで締められ、息ができなくて死んだとは見立てなかった。

 じゃあ、首に残っていたこの赤い筋は何なんだ……旦那は、開かずの間の話を聞いちまったからな。

 話すなっていわれていたのを話しちまったから死んだんだと……そう疑った。

 それで……この旦那……この旦那ってのは、おれの伯父なんだが……伯父が、この話をおれにした。

 ああ、この間、御歳九十三で亡くなったんだが、頭ははっきりしてたよ。おれよりまだ頭がいいじゃないかってくらいだった。その伯父がなあ、ポックリ逝く前の日になぜかこの話を聞かせた……とまあ、こういうわけだ。

 いや……違うちがう。こないだ死んだのは、また別な伯父だ。

 じゃあ赤い筋が首にできたかというと、それが、やっぱり現れたんだ。いやいや……まもなく消えて、跡は残らんかった。

 それで今日、この話をして首に赤い筋が……針金で締めたような跡ができるかどうか、ひとつ試してみたいと思ってな。

 いやいやいや……そりゃない。死にゃせんだろうよ。

 ん? うん、安請け合いじゃないったら……だいたい、その開かずの間、すでになくなっちまってるんだからな。

 開かずの間にいたとかいうモノノケも、どっかに行っちまったんじゃねえか。

 ああ、そうさ。いったじゃないか。

 昭和十五年の大火で、焼けちまったんだよ。荒木田さんの前の店は……。

 死にゃせんだろうが、最後にいっておく。

 おれにもやっぱり、首に赤い筋ができた。うん、そんな馬鹿な話ねえと思ってな、オッカアにしゃべっちまったんだよ。

 ただなあ、おかしいんだ。

 伯父んときは消えたんだが、おれのは消えねえんだよ。

 もう半年くらい前に話したってのに、薄くなりもしない……ああ、オッカアは誰にも話してないらしい。話す気もないってさ。

 いやいや、大丈夫だろう。

 おれ、話してすぐに死なんかったからなあ。

2019/06/26

湖上にて

百物語 第十二夜

湖上にて

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 わたくしにもひとつやふたつ、怖い目にあったことがございます……ないようで、あるもんでございますな……今日はそのうちのひとつをお話ししたいと存じますので、どうか御静聴願います。

 舞台はわたくしの田舎、この間、釣りに行ったときの話をしましょう。ええ、わたくし、釣りが好きでして……ああ、御存じですよね。いやア、笑っちゃ怪談になりませんよ……いや、いや、……釣りの話は最低限にとどめますから。

 では気を取り直して……わたくし、仕事が休みになるたび、あちこちに出かけては釣糸を垂れとります。朝早くから出かけて日が暮れる頃まで家に帰らないこともございますし、たまには夜釣りにも参ります。わたくしが留守していると、女房が喜ぶもんで……。

 場所は……節操のないことながら、どこでもよいのです。渓流を登っていったり、海でも湖でも舟を浮かべたり……わたくしの田舎のいいところは、海もあれば湖も川もあるから多彩な釣りが楽しめる。太公望にはよいところです。釣れても釣れなくてもいい……いいえ、ほんとです。本当ですよ。

 人によるんでしょうが、わたくしの場合、釣りの醍醐味をこんな風に考えとります。

 ひとりでぼうっと魚がかかるのを待つ……待っていると、何だかじぶんというものがだんだん曖昧になって、周囲の空気の中に溶け込んでゆく……このままいけば、じぶんがなくなってしまうんじゃないか。錯覚に過ぎんのですが、そんなことがたびたびあるんです。これが醍醐味……。

 いえいえ、寝てない、寝てない。眠りに落ちるのとはちょっとちがいます。意識はわりとハッキリしてるんです。まわりで何が起きているかも、ちゃんと分かっています。気づいたら魚になっていて、釣り上げられたとたん、はッと目を覚ました……なんてことがあったら、何やら『荘子』の一篇じみて参りますけれども、幸か不幸かまだそんな経験はございません。

 いやいや、不快なことは決してなく、むしろ心地よいくらいのものです。春の終わりや秋の初めの天気がよい日、そこに微風が加われば最高です。

 それで……この春のことです。五月の初め、十日頃でしたか……やっぱりその日もよく晴れて暖かく、そよ風が吹いていました。絶好の釣り日和です。

 わたくしは当別湖の大沼の方にボートを浮かべて、釣りをしておりました。大沼と小沼とあって、小沼の方にはよくクマが出るんでいきません。

 女房に弁当をつくらせて、日の出と同時に出かけたんですが……いやア、肝心の釣果の方はサッパリでした。ヒメマスが二尾か三尾……そんなの、釣りのうちに入りやしません。

 だいたい、釣果第一の人ならば同じように出かけていったら、もっと釣っていたでしょう。トロいからだ? はい、全くそのとおりでして……そのときも、やっぱりボオーッとしとりまして、竿をあげると餌が食われている、でもいつ喰われたかはわからない……とまあ、こんな体たらくでして。

 そのうち腹が減ってきたので、舟縁に竿を固定しておき、弁当をつかいました。時計を見るとちょうど昼頃、お日様はほぼ真上にあって、風はあっても湖面に全く波が立たない程度。ぬるま湯にじっと浸かっているかのように、非常に心地よい。

 弁当を平らげてからは、お茶を飲みつつまた竿を取ったんですが、しばらくたつとまた、だんだん……ともすれば、じぶんが周囲のさわやかな空気に溶け込んでしまうんじゃないかって境地になってきました。

 ああ、こりゃ極楽だ。気持ちがいい。じぶんが、溶けてゆく……こんな夢うつつの状態がずっとつづけばいいのに……そう思いますけれども、うまくいかないもので、やがてハッと我に返る瞬間がきます。いいえ、毎度のことです。残念ながら……身体がビクッとして、ああもうちょっとで、じぶんというものが周囲の空気の中に、完全に溶け込むところだったのにと、残念になります。

 おそらくは、その一歩手前のところだったと思います。

 バンと音がして、同時にわたくしは弾かれたようになって現実に引き戻されました。初めは魚がかかったかと思って釣糸を見ましたが、力なく揺れているのみ、何の異状もありません。何かぶつかったんじゃないか……じぶんの膝の前に何気なく目をやったところ、思わず叫んでしまいました。

 白い手がふたつ……舟縁をつかんでいたんです。

 いえ、もう身をかたくして、そのまま見守るしかありません……どうしてよいものか全く分からない。はい、はい……確かに手袋と見間違えたのかと。

 でも、動いているし、関節をこう曲げて、力を込めている。船縁をガッチリつかんでいました。小さいし、指も細いし、こりゃあ女性の手です。指輪? 指輪はそうですね……はめていなかったと思いますが……いや、よく分かりません。はめていたかもしれません。

 どれくらいたってからか、じぶんが荒い息をしているのにふと気づいて、それと同時に身体が動かせるようになりました。余裕が出てきたからでしょうかね、こんな考えが浮かんだんです。

 溺れた女がたまたまわたくしの舟のそばで息を吹き返して……慌てて船縁をつかんだのかもしれない。もしそうなら助けてやらねば、と。そこで恐る恐る船縁の向こう、水面下を覗き込んだところ……。

 あったのは、腕だけだったのです。白い腕が二本。いや……綺麗なもんでしたよ、水は。当別湖は、最深部で二メートルくらいでしたっけ。底の藻がゆらゆら揺れていたり、小魚が泳いでいたりするのがハッキリ見えましたよ。

 腕だけ、とは……肘から先の部分です。指の方では舟縁をガッチリつかんで、下の方はパタパタと不規則な動きで、もがいている様子……こいつ、這いのぼろうとしてる! そう思った瞬間……いやはや、お恥ずかしい話ですが、たぶん絶叫したと思うんですよ。何度も何度も……。

 そのとき、誰かが遠くで呼んでいるのが耳に入ってきました。振り返ると、見たことがあるようなないようなお年寄りが、手を振っています。

「だいじょうぶか」「おうい、どうした」などと叫んでいる。

 えっ、と思いました。そこ、川だったんです。苦茶路川……はい、はい……そうです。苦茶路川は当別湖につながっていて……ええ、釣りをしていたのは、確かに当別湖でございます。はしけから舟を出して、湖の中央までこいで、そこで白い手が舟縁をつかんで、と、これまでの記憶を思い起こしてみましたけれども、とうてい川に入り込むとは考えられない。晴天つづきでしたし、苦茶路川の水流はそう速くありません。流されたにしても、ほどがあります。

 白い手はと見ると……もう消えていました。

 それから舟を岸に寄せて、お年寄り……伊藤さんの御隠居に、だいじょうぶだ、ありがとうと声をかけました。御隠居は畑仕事をしていて、わたくしの絶叫を聞いたとのこと。

 いやア、いいませんでしたよ、なにも……適当にごまかしただけです。竿を流されたとか何とか。家の近くで変なことがあったと怖がらせてもいけませんし、夢を見ていたんじゃないかと疑う気持ちもありました。

 礼をいって湖の方へ戻りはじめると、そこでまた……気づいたんです。時間が全然たっていない。湖の真ん中から伊藤さんの畑まで、五キロくらいですか、ゆるい水流に乗ってフラフラしていたというのに、まだ太陽が真上にあるし時計を見ると、正午過ぎ。針が戻っている。

 でも魚籠の中のヒメマスを見ると、腐りかけて変な臭いがしている。いくら好きとはいえ、こうなるとさすがにもう釣りどころじゃありません。ヒメマスは捨ててしまって、ひたすら舟をこぎ進めて、はしけが見えるところまできました。

 すると、そこに誰かが立っていて……近づいてみると、女房だったんです。迎えにきたことなんて一度もなかったものですから、何かあったのかと不安になりました。

 腕全体をつかって、おいでおいでしている女房を見ると不安がいや増しに増して、わたくしも懸命にこぎました。こうして声が届くところまでくると、女房は身を乗り出して、旭川に行ってくる、と叫びました。今急げば、午後一時の汽車に間に合うから来た……さっき知らせがきて、などと言っています。

 姪が……けさ、川で溺れ死んだ。

 わたくしからすれば、女房の妹の子。誰かに言伝でもすればよかったのにと思ったのですが、気が動転したものらしい。気づいたらここまできていたという。

 ……白い手が舟縁をつかんだのが、ちょうど姪の死んだ頃だっていうんなら平仄はあいますけれども、実際どうなのかは分かりません。何しろ、時間のたち方がおかしかったので……とにかく、女房がまず旭川に行って姪と対面、わたくしも翌日追っかけて、お弔いして参りました。いやいや、綺麗なものでしたよ。姪の身体に何か異状があったわけでもございません。

 手はしっかりついてた。

 春にこんなことがあって、釣りはよしていたんですが……でも先月の初めから、また始めました。これだけが道楽、好きなもんは好きで、こりゃあしかたない。四十九日も済んでないのにって、女房はぶつぶついいますけどね。

 舟は流される、時間はなぜだか戻ってる、そして白い手が舟縁をつかむ。そりゃあ確かに怖かったんですが、そんなことはめったにないと、たかをくくってるんで。

 ただ、フッと意識が途切れて、じぶんが周囲に溶け込みそうになる瞬間、これがちょっとだけ怖くなりました。ええ、ちょっとだけです……ほんのちょっとだけ。

2019/06/25

「いきものだより」の配布を始めました

 先日より、御参拝、御朱印を受けられた方向けに「いきものだより」をお渡ししております。

 現在、3種類ありまして、まず右側の画像は第一弾のアオサギ編(画像をクリックすると大きい画像が現れます。以下同じ)。

 おおまかな生態や、当神社でどこにいるのかなど書いております。



  第一弾がご好評をいただきましたので、第二弾として、シジュウカラ科編を作成しました。

 これも境内でよく見られる鳥ばかり、似ているようで少しずつ違います。北海道では一気に春から夏になりますので、いまは恋の季節、さえずりの全盛期です。




 ありがたいことに第二弾もご好評をいただきまして、つづく第三弾、夏の草花編を制作しました。

 ふだんはあまり目をとめて見ませんが、改めて見ますと境内には色とりどり、さまざまな花が咲いています。

 画像はどれも原版をスマホで撮っています。参拝者の皆さんには、それぞれカラーコピーしたものをお渡ししておりますので、若干色合い等、異なる場合がありますので、あしからずご承知おきください。

 個人的にはここの画像よりも、カラーコピーして皆さんにお渡しするものの方が綺麗な感じがします。

薩摩焼の土瓶

百物語 第十一夜

薩摩焼の土瓶


※怪談です。苦手な方はご注意ください。



 昔、吉原に洲崎卍という妓楼がありました。

 この妓楼に所属する、ある遊女についていたカムロが、誤って土瓶の蓋のつまみを壊してしまった、ということがありましてね。

 ええ、カムロは遊女の世話をする女の子ですな。漢字で禿と書きます。

 その土瓶は遊女がとあるなじみの客から贈られたもので、値の張るもの。薩摩焼だったそうです。

 遊女は大いに怒り、かつ罵って、ついには煙管を取って、カムロをビシッと打ちつけたのです。

 するとカムロは、よほど打ちどころが悪かったのか、そのまま死んでしまいました。

 以後、その妓楼では土瓶を買うたびに、蓋のつまみがみな一夜のうちに失くなってしまうようになったそうです。

2019/06/24

廊下のつきあたりの黒い影

百物語 第十夜

廊下のつきあたりの黒い影


※怪談です。苦手な方はご注意ください。


 こういっては何ですが、私の実家はそこそこの旧家です。

 火事にあったり白蟻にやられたりして何度か建て替えたり、建て増ししたりしてはいますものの、家屋のうち、いちばん古い部分は幕末の頃にできたと聞いております。いいえ、自慢するつもりはなく……田舎におりました頃にいい記憶はあまりございませんし、いずれ故郷に帰ろうとも思っておりません。いまはお盆と年末年始に帰省するくらいでございます。数日過ごしただけで何だか気がめいってくるようで、そう長くはおりませんけれども。古い家ですから薄暗い場所が多くて、それで鬱々としてしまうのでしょう。実家には生まれてから高校卒業まで住んでいたというのに、いちど離れてしまったからでしょうか、その陰気さがもう、耐えられないのです。

 今年のお盆に帰省したときのことです。

 その日、私は居間で昼食を終え、かつて使っていた自分の部屋に戻ろうとしておりました。

 通常は縁側に面した廊下を通っていきますので、そのときもまずは廊下に出ました。

 そうして歩きだしてすぐ、前方、廊下のつきあたりに何やら黒い人影が見えたのです。

 弟か、と思いました。弟はあまり家族といっしょに食事することがなく、そのときも「後で食べる」といって、じぶんの部屋で何かしておりましたので。昼食をとる気になったので、居間に向かうところなんだと思ったわけです。

 でも、弟にしてはその人影、ずいぶん小さい。弟の身長は百八十くらいです。夏ですから左手の縁側は開け放っていましたし、南に向いていて差し込む光も強いため、私の眼の加減で小さく見えているのか……そう思いました。

 立ち止まって見ると、その人影は廊下の突き当たりに立っており、右手でしきりに頭をかいているようなしぐさをしています。

 弟がそんなしぐさをするときとは、どこか違う。やっぱり弟じゃない。じゃあ、いまそこにいるのは誰なのって、私は身構えました。

 泥棒だとは思いませんでした。何だかのんびりしているような印象でしたし。近所の人が勝手にあがり込んできているんだろうと。田舎ですし、そう珍しいことではありません。

 それにしても暗い廊下のつきあたりで、なぜ頭をかいているんだろう。

 こちらに向かってくる気配こそございませんでしたが、そこを通らなければ、じぶんの部屋に戻ることができません。いえ、いちど居間に戻ってから、じぶんの部屋に向かうこともできるのですが、遠回りになります。

 遠回りすべきか。あくまでこのまま進み、黒い影の脇を通り抜けるか。

 私はその影を廊下のつきあたりに見据えながら、迷っていました。

 あいかわらず、黒い影は右手で頭を……そう、頭をかいていたのでございますが、そのうち私は変なことに気づきました。

 右手が動くにつれ、その下の方で何かが揺れ動いている。目をこらすと、どうやらそれは着物の袖らしい。黒い影は、黒い着物を着ているようなのです。そのうえ、袖には白く家紋が染まっていて……それはうちの家紋だったんです。

 はい、そうです。それで近所の方でもないんだと、はっきり分かりました。

 私は一度気が遠くなりかけたんですけれども……ハッと急に意識がはっきりしたので、慌てて回れ右をして、居間に逃げ込みました。

 居間には祖父と弟がいました。弟は昼食中、祖父は煙草をふかしながら、ボーッとテレビを見ています。居間につづく台所では、母が流し台に向かって皿を洗っているようでした。

「あら、あんたごはん食べてたの?」と弟に聞くと、ああ、とぶっきらぼうな返事をして、そのままごはんを食べつづけています。

 それ以上聞いたらうるさがると思いましたので、

「ねえ、いま誰かきてるの?」と、これは誰にともなく尋ねると、みんな、誰もきてないと口々にいいます。

「いまね、そこの廊下の突き当たりに黒い影が……頭をかいてる」

 私がいうと、祖父がおいっと叫んで、さえぎりました。

「黒いやつか、着物を着た」

 そうだと答えると、祖父は煙草の火を灰皿に押しつけるように消して、こう尋ねました。

「どっちの手だ?」

「え……手って、何? おじいちゃん……」

「頭をかいてた手。かいてたのは、どっちの手だ」

 祖父がそんなに怖い顔をしているのは、初めて見ました。

 右手、と答えると、祖父はハアーッとひとつ、長い溜息をついて、
「ああ……よかった、右手だったか」といいました。

 ふと気づくと、母がいつのまにか台所と居間の間に立っていて、私を見ています。弟はと見ると、これも箸を止めたまま、かたまっています。

「えっ、いったい何なの……あの黒いのが何だっていうの?」

 すると、祖父が座りなさいと私を促したので、私は祖父と向かい合ってソファーに腰かけました。

 祖父がいいました。

 この家には、たびたびそんな黒い影が現れる。

 いつも着物姿の女性で、頭をかくようなしぐさをしている。右手で頭をかいているのを見たならよいが、左手で頭をかいていたなら見た者はまもなく死ぬ。この家の者が死ぬときにはみな、必ずその女性を見ているんだと。

 初めは弟かと思ったと私がいうと、弟はやめてくれよと叫んで憮然としておりましたけれども、これは単純に私の印象によるもので、これまで見た人はみな女性だったといっていたそうです。

 しかしながら、その黒い影……死期を知らせるときだけ現れて、左手で頭をかけばいいんじゃないのと思いますのに、なぜわざわざ右手で頭をかく姿を見せに現れるのでしょう。祖父もそこまでは知らないとのことでした。

「どうしていままで教えてくれなかったの?」と聞くと、いや話した、と祖父はいいます。

 私がまだ実家に住んでいた頃に……ですが、どう考えてみても聞いた記憶がありません。

 そのうえ、母と弟は、確かに祖父がその黒い影のことを私に話していた記憶があると、口々にいいます。

 聞いた、聞かないで、それ以上もめたくありませんでしたので、結局私が折れることにしました。ええ、それから? それからは……部屋にはもどらず、一時間ほど居間でダラダラすごしてから廊下に出たら、その黒い影はもう消えておりましたよ。

 お盆が明けると私は実家をあとにし、東京にもどったのですが……それから何となく体調がすぐれないのです。

 寝ても眠りは浅いし、疲れは取れないし……もともと持病があるわけでもなく、身体のどこが痛いのでもありません。何となく具合が悪い。いまも、重い睡眠不足のようにボーっとしているんです。はい、お医者さんに参りまして、いくつか検査を受けました。でも、悪いところは見つからなかったんです。

 祖父には、少し認知症が出ております。

 ふだんいっしょに暮していないので、どの程度なのかはこの目で見てはいませんけれども……。ひょっとしたら祖父は、左右をまちがえているのではないでしょうか。そうだとすれば、私は死んでしまうのではないか。

 近頃、そう疑っております。

2019/06/23

箱の中

百物語 第九夜

箱の中

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 こりゃあ前から温めてたんだが、誰にも話しちゃいない。これが初めてだ。ああ、俺じしんの話。

 去年の秋口、犬を散歩させるってんで、浜を歩いてたんだな。

 ああ、大きい方だ。小さい方はガキに散歩させてる。大きい方はタロー、小さい方はノラクロ。ガキにゃ力が足らんから、タローは俺が散歩させてるんだ。まあそんなこた、どっちでもいいや。この話にゃ関係ねえ……。

 で、タローがあっちこっち、フラフラしながら例のごとく砂や流木なんかを臭ってたんだが、急に吠えだしたんだな。

 いやあ、ガラはでかいがおとなしい犬なんだ。

 だいたい、タローたって雌だ。生まれてすぐにもらってきたんだが、確かに雄って話だったんだがな。雌だと気づいたときにゃ、もう遅い。タローって呼ばんきゃ返事もせん。だからいまでもタローのままだ。

 そのタローの鼻先を見ると、これくらいの……五寸角くらいの箱があった。彫りも塗りもなにもない、全くの素木。表面に蓋があってツマミがついてる。それを引っ張ったら、開きそうなもんだろう? だが開かん。

 押しても、ひねっても駄目。

 その周囲に小さい木の板があって、それを正しく動かせば開くらしい。箱根細工の……秘密箱だったか。そんなもんだ。

 振ってみると、なにか入っているらしくカサカサ音がする。まあ気にも留めないで家に持って帰ったんだが、玄関脇の靴箱の棚の上に置いたんま、忘れちまった。

 ああ、タローはワンワンいってたんだが、全然これも気にならんかったんだが、こいつ、やっぱり賢い犬だったんだなあ。

 それから二、三日たった晩にな、ガキが突然ギャアギャア泣きだした。

 小学校五年生だ、ふだんから泣きたくっても我慢しろっていってんのに、なにをうるさくわめいてるんだって叱りつけるつもりで声のする方に行ってみたんだが、これが、いねえんだよ。

 仏間にいると思って入ってみたら、茶の間の方から声がする。茶の間に入ったら、玄関で泣いているのが聞こえる。玄関に行ってみたら、こんどは寝間だ。

 腹も立ったし、うるさくてたまらん。この騒ぎを聞きつけてかノラクロが吠えだして、タローまでワンワンやりはじめた。

 いやあ、自慢じゃないが六畳ふた間と四畳半ふた間の狭い家だ、どこに隠れていやがる、妙な悪戯しやがって、って捜しまわったんだな。いやあ、まだそのときゃ飲んじゃいない。シラフもシラフ、大素面だ。晩めし前だったしな。

 しばらくそうやってウロウロしてたら小便したくなって、便所の戸を開けたんだが……いや、たまたまには違いないが、それがよかったんだ。そこに、ガキがいやがった。

 まずギャアギャア泣き叫んでるのを二、三度ひっぱたいて黙らせた。それで小便してから茶の間に引っ張ってって、聞いたんだ。ずっと便所にいたのかってな。

 そしたら、いたっていう。

 便所に閉じ込められて、出られんかったんだ、と。

 小便して、こう振り返って、戸を開ける。そしたら、向こうも便所だった。いったん戸を閉めて、もう一度開けてみても、やっぱり便所。どうやっても便所。

 小窓がひとつついてるんだが、そこから出ようとは考えんかったらしい。そこで八方塞がり、ただ泣きわめいてたってところは、まだガキだなあ。

 そんなことあるもんかって、また引っぱたいたんだが、俺だって怖かった。そりゃあガキが見つかってよかったし、文字通りの雪隠詰めなんてかわいそうだ。だがなあ、ガキの声はあちこちから聞こえてきてたし、便所だって何度も戸を開けて見てる。見逃すはずがないんだ。

 そこでふと気づいた。ガキのズボンのポケットが妙に膨らんでる。

 おい、なんだそれはって手を突っ込んで引っ張りだしてみたら、これが件の箱よ。

 蓋が開いていて、中にボロボロの紙が入っているのが見える。

 開けたのかって聞いたら、開いたって返事。どこをどうやったのか、触っているうちに開いたっていうんだ。

 たまたま開いたんだろうが、こいつはブルブルきた。俺がどうやっても開けられなかったもんが、なんでガキにできたんだ。こいつ、魅入られたんじゃないかってな。

 嘘つけって怒鳴ったんだが、なぜ嘘つけなんだかじぶんでも分かりゃせん。

 こうしてゴタゴタやっているうちに、嬶が帰ってきてな。まあ、近所で茶飲み話でもしていたらしいんだが、ガキが安心しやがったのか、また火のついたみたいに泣きだして、仕方なくこの騒ぎの顚末を話したんだ。

 すると、嬶はその箱が原因だという。若い頃から妙に迷信深いんだよ、嬶は。

 じゃあもとあった場所に捨ててくるっていったんだが、駄目だという。

 捨てる、駄目だで押し問答、ガキは泣き止んだかと思うとまたビービーやりだす。犬が吠える。とうとう俺の方が折れて、捨てに行くのは止めにした。

 さらに嬶いわく、お寺さんで供養してもらえって。

 うん、おとなしくいうことを聞いたよ。つぎの日に持って行くことにして、箱は玄関脇に置いておいた。それから、また閉じ込められちゃいかんてことで、便所の戸は開けっ放しにしておけっていう。臭くてたまらんかったが、まあ仕方ない。ガキがいなくなって捜しまわるよりましだ。

 だが夜泣きして、それがギャンギャンとひでえもんだから俺は眠れんかった。嬶はイビキかいて寝てやがるし……犬はおとなしくなっていたが……全くあれは、たまったもんじゃなかったな。

 つぎの日、朝めしを食ってすぐに金剛寺へ持って行った。うん、爺さんも婆さんもくたばったときに世話になった……そうそう、それ。菩提寺。菩提寺の金剛寺。坊さんは朝のお勤めの最中ってんで待たされそうになったんだがな、カミさんに無理やり箱とお布施を渡してサヨナラした。

 帰り道、ホッとして鼻歌うたいながら歩いてたら、うしろからオウイオウイと声がする。振り返ったら、これが坊さんなのさ。箱を小脇に抱えてるのが遠目にも分かったんで、俺は駈けだした。返品は困る。嬶にゃ怒られる。ガキの夜鳴きはごめんだ。

 一町ばかり走って、もう一度振り返ってみた。坊さんをどれだけ引き離したかってな。ところが、なんと近づいてきてる。衣に袈裟、雪駄ばきだぜ、俺なんか息をきらしてるってのに。慌ててまた走りだしたんだが、とうとううちの玄関前でつかまっちまった。

「おまえさん、これをどこで手に入れた」
 さすがにゼイゼイいいながら坊さんが聞いてきたんで、
「なんでか知らんが、いつのまにかうちにあった」 と適当に答えた。

 すると右手を俺の肩にかけて息を整えながら、中に入っているのはマリシテンの御札だっていう。マリシテンがなんだか知らんかったが、ありがたい仏様なんだってな。

 俺はあんまり坊さんの足が速いもんだから、イダテンじゃねえのかって聞いたら、違う、マリシテンだと答えた。マリシテンの術に身を隠すってのがあって、それが悪用されてる、開けたらただじゃすまない、変わったことはなかったかと聞く。真剣な顔だったよ。

 その権幕にどう答えたものか迷って、俺がムニャムニャことばを濁していると、封印すれば後難はないっていうもんだから、ついに本当のことを話さなんだ。預けちまえば終わりだって分かったからな。坊さんも胸を撫でおろした様子で、それならいいっていい残して帰っていった。

 ただの生臭坊主だと思ってたんだが、俺は坊さんを見直したね。

 いや、それから変わったことはなかった。封印もキッチリしてある。うん、今年の春の彼岸にお寺参りしたとき、御本尊のうしろにその箱があるのを見たんだが、何重にも縄で縛ってあってなにか御札が貼ってあった。

 ただなあ、いまだに便所の戸は開けっぱなしよ。冬はともかく、いま時分なんか臭くてかなわん。ボットン便所だからな、便器に蓋してても臭ってくる。それでもまあ……ガキが雪隠詰めになるよりはましだろうよ。

2019/06/22

窓硝子の横顔

百物語 第八夜

窓硝子の横顔

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 まあ昔話ですから、そのつもりで聞いてください。

 東京都内の、とある高校でのできごとです。

 ある生徒、名前を仮に細川としましょうか。

 朝、ホームルームが始まる少し前くらいに、生活指導の先生が細川のクラスに現れましてね、「おい、細川。お前の生徒手帳を出せ」という。生活指導を受けた記録が生徒手帳に書かれることになってたんですね、その高校では。

 細川は非行歴……今はそんな言い方、しないんですかね。まあ、問題児ではあった。ふだんから教師に反抗的な態度をとる生徒だった。

 けれども、急にそんなことをいわれても、理由がわからない。

 「生活指導を受けるようなことなんかしてない」

 細川はそういったんです。

 すると先生は「昨日おまえは、どこそこのクラスの女子生徒と手をつないで歩いてたじゃないか」という。

 今ではちょっと理解に苦しむところですが、当時のことですから実に他愛もない話で。それで生活指導だ、ってんです。

 細川は、誤解だといって抗議したんですよ。

 すると先生、いきなり細川を殴りつけた。

 手をつないでいたかどうか、真相は今でもわかりません。でもね、細川だって血気盛んな年ごろですからね。同級生が見ている前だし、やられたままじゃ、ってんで、反撃したんですね。

 殴られた先生も、鼻を骨折しましてね。

 それが原因となって、細川は退学処分になったんです。

 一度細川は停学処分を受けていましてね。細かいところはもう忘れましたが、タバコかカツアゲか、そんなところでしょうね。

 そのとき、何とかチャンスを与えて欲しいと懇願した先生がいまして、まもなく進級したときのクラス替えでは、担任になったんです。

 かりに、嶋津先生としておきましょうか。

 細川の退学前後、嶋津先生は相当苦労されたんです。

 細川の親が衆議院議員とコネを持っていましてね、そっちの方から何とか退学は撤回してくれと申し入れてくる。校長の方は一度下した決定だと、にべもない。それを覆すことは沽券にかかわる、というわけなんでしょう。

 その一方で、校長は職員会議で嶋津先生の指導法を頭から否定するようなことをいうようになり、そのうえ職員室内の席をなくして物理地学講義室に移動させたりした。

 嶋津先生は生徒思いでしたからね。やっぱり細川の退学は不本意だったでしょうし、どちらかといえば、管理職を目指すよりも生徒に向き合って定年を迎えたい、そんな先生だった。

 悪くいえば……いや、悪いのかな。どうなんだろう。純粋だったんでしょうね。

 残念なことに、それからまもなく嶋津先生は電車に飛びこんで、死んでしまったんです。

 これは今でもはっきり憶えておりますが、飛びこんだのは西武新宿線のとある駅で、時間は午後12時36分でした。

 ところがまさにその時間にですね、校庭をふらふら歩いている嶋津先生の姿を見た人がいたんです。

 その日の放課後、生徒数人が物理地学準備室を通りがかったところ、ああでもない、こうでもないと呟いている嶋津先生を見たともいいます。

 これだけなら錯覚で片づけられるんでしょうが、嶋津先生が亡くなってからの混乱がおさまって……だいたい一週間ほどあとでしょうか。校舎の窓のひとつに、嶋津先生の横顔が浮かびあがった。

 いえ、これがどう見ても、嶋津先生なんです。

 本人を知っている人みんな、あれは嶋津先生だって口を揃えていうくらい、生前そのままの横顔なんです。

 鼻の高い人でしたから、その鼻筋がすーっと通っているところもそうですし、顎のあたりの輪郭や、ちょっと癖のある髪の毛のぐあいまで、本当に瓜二つだったんです。

 ええ。苦しんでいる顔だという生徒もいれば、笑っている表情だという者もいまして、そのあたりは両極端でしたね。

 これが、掃除しても消えなかったんですよ。

 いえ、ラッカーなどではないですね。油絵具の類でもない。

 あえていうなら、煤のようなもの。色とりどりの煤のようなものが窓ガラスにべったり貼りついていて、何度掃除しても、強力な洗剤をつけてこすっても、全く落ちませんでした。

 嶋津先生の四十九日過ぎますとね、いつのまにか消えてしまったんですがね。

 生徒のいたずらだったんでしょうか。

 嶋津先生は、慕われていましたから……。校長から今でいうパワハラを受けていると聞いた生徒が、義憤にかられて何か行動に移さなければと考えて、その結果が……。

 特殊な顔料かなんかで書いて、書いた本人だけがどうすればすぐ消せるか知っていた……。

 ただ、あの横顔は……横顔自体は、煤のようなもので描かれていたといっても、ほとんど写真に近かったんです。それくらい、リアルだった。

 外から見たら、周囲とは縮尺のあわない嶋津先生の生首が、窓の内側に浮かんでいるように見えていた。いや……これはご本人に失礼ですが。

 美術部の生徒の連中には、とてもあんなにリアルには描けなかったはずです。

 細川……ですか?

 細川はその後、よその高校に転入したって聞きましたが、そのあとのことはわかりません。

 ええ、そうなんですよ。私はこの話の中の、生徒指導の教師です。

 わかりますよね、すぐに。隠していたつもりはなかったんですが、今日は自分を客観的な立場においてみたかったもので。

 私は確かに、細川が女子生徒と手をつないで歩いていた、と聞きました。その件について細川に真偽を問いただし、生徒手帳にそのもようを書くつもりだった。

 手をつないでいたかどうかなんて、どうでもよかったんです。ただ、そんな噂を聞いたから本人と話をした旨、記入する。それだけの話だったんです。

 いやあ……。細川を刺激しないように、当たり障りなく接するなんてことはあの当時、できませんでした。

 暴力。うん、そうですね。

 体罰、というより、暴力ですよ。

 当たり前のように生徒を叩いたり、蹴ったりしていた。

 私もそのころ、よく生徒から叩かれたり、蹴られたりしていたもんです。

「そういう時代でした」で片づけたいんですがね。そういうわけには、いかんのです。

 細川は退学処分にしない方が、よかったんじゃないか。校長の横暴に対して、他の教師といっしょに立ち向かうべきだったんじゃないか。そうすれば、嶋津先生のようないい先生が、あんなことにならずに済んだんじゃないか。

 あれこれ考えると、もう、たまらんのです。

 悔いることばかりです。

 今でもね、この話をすると鼻がうずくんです。

 はい。細川に折られたところが、です。

 もちろん今こうして話していても、うずいていますよ。

 細川、元気にやっとればいいんですが。

2019/06/21

A神社秘話

百物語 第七夜

A神社秘話

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 伊勢神宮は別格としても、神社には格付けがあるそうですね。

 何でも延喜式という平安時代の法律にも載っている神社が、かなり格の高い神社とか。

 その延喜式にも記載されている、由緒ある神社のお話です。

 名前はちょっと……差し障りがあるといけませんので、かんべんしてください。近畿地方のとある神社に伝わる話です。

 仮に名前をそう、A神社としておきましょう。

 私の祖父がA神社の氏子総代を長年していたそうで、その間にあったことといいますから大正年間か昭和の初めか、とにかくその頃の話です。

 ある年、日照りつづきで一村誰もが困り果ててA神社に請雨をお願いしたそうです。

 はい、雨乞いですね。祝詞をあげてもらった。

 すると翌朝早く、火事だといって半鐘が鳴った。

 みな慌てて起きだしてきて、誰ともなく指さす方を見ると、A神社の背後の山に煙があがっている。すわ山火事かと、若い衆が三々五々駈けつけてみたところ火の煙ではなく、靄か霞か、水蒸気状のモヤモヤしたものが山いちめんを覆っていました。

 若い衆はもちろん火事じゃないぞと村中に知らせに戻ったわけですが、その間にモヤモヤしたものが山を下りてきて、雨が降りだしたそうです。

 山を下りる若い衆を追い越していったわけですが、なぜか若い衆はだれも濡れなかった。

 雨に濡れるのもかまわず、よかったよかった、これで秋は大丈夫だとみな胸を撫でおろしました。

 ところが奇妙なことに、雨が降ったのはA神社の氏子区域のみだったんです。

 ちょうど隣村との境に立つと、こっちの畑は潤っているというのに向こうはカラカラ、気の毒なくらいだったと祖父はいっておりました。

 またあるとき、台風で境内の木が数十本、倒れたということがあったそうです。

 寄り合いにて、倒れたもんはしかたない、いつまでも放置しておくわけにもいかんし、売ろうということに決まったのですが、次の日の朝、木がなくなっている……いいえ、みんな起き直って元通りになっていたというんです。

 確かに幹が折れていたはずなのに倒れた事実などまるでなかったようで、枝や葉が地面に落ちているのみだった。

 そして、これは偶然なのかどうなのか、木を売ろうと提案した人がまもなく急死したそうです。

 木といえば、A神社の境内には椿の大木があって、梢でちょうどほぼ半分に枝分かれしていました。

 この椿、常に枝分かれした一方が枯れ、一方が茂っている状態だったそうです。

 これがある年には枯れ、ある年には茂る。

 いえいえ、代わりばんこではなく、数年つづけて茂る年もあれば枯れる年もあったといいます。

 そして枝が茂った年には、この枝の方向にある地区が豊作。

 枯れた年には実りがよくない。

 すべて枯れんときには、われこの社にあらじ……そんな託宣があったようなのですが、これは祖父が生まれる前の話で確かではありません。

 はい、この椿の木は現存しています。私も数年前に見ました。

 いまはこのA神社、延喜式にも載っている古い神社だというのに、お宮はあっても神主さんは住んでおりません。

 それでも、きっと神様がいらっしゃるんでしょうね。

 すると……いえね、こんな恐ろしい神様はありませんよね。

 なんせ、雨を氏子区域だけに降らせたり、倒木を元通りにしたりするんですから……ちゃんとお祭りされていることを、祈るばかりです。

2019/06/20

怪しい老婆

百物語 第六夜

怪しい老婆

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 オフクロから聞いた話だ。

 オフクロがちっちゃい頃は、子供が生まれるときにはふつう、産婆がきたもんだってな。

 当時、オフクロが住んでいた家のお隣りさんで、いよいよ産気づいたカミさんがいて、産婆を呼んだそうだ。

 ところが、これまできていた婆さんとは、またべつの婆さんがきた。うん、そうだ。産婆ってのは出産時に赤ん坊を取り上げるだけじゃないそうだ。胎内できちんと育っているかどうか、母体に異状がないかどうか確かめもする。医者にかかるにしても出産まで定期的に健診を受けるわな。

 そのべつな婆さん、特に変なようすはない。どこにでもいそうな婆さんだった。

「あんた誰だ」と聞くと、

「婆さんに急用ができて頼まれたからきた」という。

 腕は確かだといい張るし、カミさんはいまにも生まれるようなことを叫んでいるので家にあげた。

 それで、無事出産したんだが……その婆さん、赤ん坊に産湯をつかわせていたかと思うと突然立ち上がり、ドタドタいって家を出ていった。ああ、生まれたばかりの赤ん坊を抱えてな。

 慌てて旦那があとを追った。集まっていた親族家族があとにつづいてくるような気配を背中で感じたものの、それも初めのうち、旦那以外の者は家の周囲をうろうろしていただけだったそうだ。

 婆さんは、滅法足が速かった。年寄りとは思えない身のこなしで通りを駈け抜ける。路地を曲がる。

 そして、脇にある家の中へと消えていった。旦那は、まだ婆さんが赤ん坊を抱えているのは見ていた。

 旦那がつづいて入るとそこは空き家のようで、床や壁が傷んでいるし、埃っぽい。蜘蛛の巣がかかっている。

 あちこち見回ってみたが、婆さんの姿はない……なかったんだが、フッと遠くで赤ん坊の泣き声が聞こえた。

 声を便りに探した。婆さんが赤ん坊を黙らせるべく手にかけでもしたならと、気が気でない。そのうえカラクリ屋敷でもあるまいに、この部屋だと思って入ると、べつなところから声が聞こえる。確かにここから聞こえると思って入った部屋にも、人っこひとりいない。一度廊下に出て耳を澄ませると、やっぱりいま出てきた部屋から聞こえてくるような気がする。

 そんな次第でずいぶん捜し回り、とうとう見つけた。

 ああ、聞いてみれば何てこたねえ、最初に入った部屋の床の間にちょこんと置かれていた。

 婆さんの姿はなかった。

 まあ、ひとまず赤ん坊が無事ならいいってんで、旦那は家に帰った。

 戻ったところ、玄関の外で父母舅姑から兄弟姉妹、雁首揃えて何やら大騒ぎしていた。

 無事見つかったと報せて赤ん坊を見せるとみな喜んだんだが、ふと旦那が見ると……家族親族の輪の中に、ちっちゃい婆さんがいる。荒縄でぐるぐる巻きにされ、後ろ手に縛られていた。縛られているんだが、いっしょになってよかったよかったといっている。

 これがな、いつもきてもらってた産婆だったんだよ。

「この婆さん、いつもの産婆だ」 というと、父と母とが口々に違う、さっき赤ん坊を抱えて逃げた産婆じゃないか、という。

 いや、さっき追ってって……と説明しても、聞かない。まあ、旦那が追った方は結局、どこに消えたか分かりゃしないわけだからな。分が悪い。一方、舅姑の方は旦那に味方した。いわれてみれば、似ているようでもちょっと違うと。

 こうして大騒ぎしているうちに、おれのオフクロの家で見つけたんだ。うちの爺さんだったかな……見つけたのは。便所の窓から煙が出ている、火事だってな。

 それでみんな慌てて産後まもなくのカミさんを引っ張りだし、消防を呼ぶ、警察を呼ぶってまたひと騒ぎしたんだが、火の手の回るのが異様に早くて、とうとう全焼してしまったという。

 オフクロの実家にも火が飛んで、植え込みがほとんどやられちまったんだが、これは本題と関係ないやな。

 それにしても、赤ん坊を抱えて出ていった婆さん、何者だったんだろうな。カミさんに聞いてみれば、やっぱりその日きた婆さんはいつもの産婆とは違う人物だったという。

 いつもきていた婆さんも、べつに急用なんかなかったし、そんな婆さんに頼みなどしなかったと証言した。

 警察にも届けたんだが結局、分からんかった。

 近所の人に、こんな背格好の婆さんが……と聞いて回っても、知ってるもんはおらん。

 産婆であるかさえ分かりゃせんが、とにかく赤ん坊を無事に取り上げはした。いやいや……産ませる。確かに赤ん坊を持って逃げたけれども、取り上げるってそういう意味じゃない。産ませるってこった。

 まあ、そういう心得はあったのかもしれんな。逆に当時のことだから婆さんが若い頃、出産の経験があって、それをもとに見様見真似でやったって疑いも捨てきれんが。

 それに、この騒ぎのおかげで、すなわちこの怪しげな婆さんのおかげで、誰も火事で怪我しなかった……と、こういえなくもない。

 こんなわけで、いまに至るまで婆さんの正体は知れずじまいなんだが……あんたはどう思う?

2019/06/19

寂しいんだ

百物語 第五夜

寂しいんだ

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 私は北海道のAというところの出身でして、中学生の頃まで住んでいました。数年前まで祖母がAに住んでいたんですが、今は亡くなったので、家だけが残っています。

 町を縦断するように川が流れていて、橋がいくつかかかっておりまして……そのうちのひとつ、土腐橋のたもとに立っている電柱の下に、奇妙なおばさんがいたんですね。

 しばらくの間……そうですね、だいたい一年くらいでしたか。宵の口になると、おばさんが電柱の下に現れる、ということがあったんです。

 土腐橋は祖母の家から、歩いてほんの二、三分ほどの場所でしてね。祖母も私も、たびたび見かけたものです。なぜか、私の両親や妹、祖父はとうとう、おばさんを見ないままで終わりました。

 そのおばさん、見える人には妙にくっきり見えるし、見えない人にはまったく見えない。見える人はみんな、電柱に向かってうずくまっているのを目撃していたんですよね。ちょうど、かくれんぼの鬼がするように。そんな体勢ですから、顔を見た人はおりません。

 ああ、そうですね。おばさんではなく、おじさんではないのかとおっしゃる。

 確かに、何となくそんな雰囲気だから、あれはおばさんだ、となっていただけです。ひょっとしたら、おじさんだったのかもしれませんね。顔を見てみたら……案外、ね。

 まあおばさんだったとして、話をつづけましょう。

 おばさんは、ぽっちゃりした体型で、頭には赤いスカーフのようなものをつけていました。

 田舎ですから、知り合いじゃないにしても、たいていの人とは面識があります。でも、私も祖母もこんなおばさんは知らない。

ご近所の噂話にのぼり、やっぱり見た人もいれば見ていない人もいたんです。あれは誰なんだろうということになりました。でも、知っている人はただの一人もおりません。

 夜のまだ早い時分から立っているので、夕食の買い物帰りの人が通りがかって、目撃したこともあったそうです。

 そうして誰だろう、気持ちが悪いといいつつもしばらくたって、これは祖母から聞かされたんですが、おばさんに話しかけた人がいたっていうんです。

 その人というのは当時の国鉄か営林署か、どこかから転勤してきた家の主婦で、祖母とはそれほど仲がよいわけではなかったようですから、要はまた聞きですね。

 具合が悪いのかと思って、声をかけたらしい。

 するとおばさん、ただひとこと、

「寂しいんだ」

 といいます。

 何が寂しいのさ……と聞いてもただ、寂しいんだ、とまったく同じ口調で答えるのみ。

 それで、ああ、この世のものではないんだ、と気づいて、慌てて逃げたそうです。

 このおばさん、何となくですが、水産加工場に勤めていた人ではないかなと思うんです。その頃、同じような身なりをした人が、たくさん働いていましたから。でも、どこの加工場の人も、おばさんを知らなかったというのは不思議です。

 Aにはまだ、けっこう幼なじみがいて、この話を憶えているやつもいると思いますよ。よければ、連絡してみましょうか?

 土腐橋は架けかわっていませんし、電柱も当時のまんまのはずです。

 ああ、おばさんは最初に申しましたが、一年くらいたった頃、いつのまにか現れなくなったんですよ。残念ながらAに行ってももう、おばさんに会うことはできないでしょうね。

 この手にあるような恨みやら、因縁やらなさそうなものなのに、なんでそのおばさんは出てきたんでしょう。

 おばさんの言っていたように、本当に寂しかっただけかもしれませんね。誰もおばさんを知らない、という状況……。

 今はどうしているんでしょうね。

 もう現れないということは、寂しくなくなったのかもしれません。

 死んだのちも人間、寂しさからは逃れられないんでしょうかね。

2019/06/18

群来

百物語 第四夜

群来

※怪談です。苦手な方はご注意ください。





 ――いま話したように俺は漁師だったんだが、海の上じゃときどきシャレになんねえことが起きる。凪で風もなくてこれ以上ないって漁日和なのに、そういうときに限って自分が海に落ちる。仲間が海に落ちる。点検したはずなのに、海ん出てみたら魚群探知機の調子が悪くて、ありもしないもんを写す。しかもそれが、どう見ても最近死んだ近所のジジの顔ってこともあった。

 何十年も船に乗ってりゃ、そんな話のひとつやふたつ、あるべや。

 俺が若い頃……っつっても、いまでも若いんだけどさ。ああ、ガキの頃。ガキの頃だ。そういうことにしとく。昭和四十年頃かな、海ん出てて群来を見た。

 群来ったら、アレだ。鰊ニシン。オスが放精して海面が白くなる。いや、群来なんて俺はそれまで、話には聞いてたが見たことはなかった。昔たくさんとりすぎたから、しばらく鰊はこないって聞かされてた。

 それがさ、海水が牛乳になっちまったんじゃないかってくらい、船のまわり一面が真っ白になっていたんだよ。ああ、漢字でグンライって書くくらいだから、そこにゃもちろん魚群があるわけだ。網をいれりゃ、大漁間違いなしだと……まあ、こう考えるわな。

 でもなあ、俺が乗ってた船はもうアブラがギリギリだったし、魚をあげてもいた。うん、もう引き上げるとこだったのさ。獲ったもんを捨てて、漂流する危険を冒してまで鰊に行くか、行かないか。もっとも、そう港から離れていたわけじゃないし、無線もある。まあアブラ切れでも何とかなったんじゃないかな。

 親方は決めかねていた様子だったから、俺は歯ぎしりして地団駄踏んでたんだが、同じ船に乗ってた爺様がさ、群来にしては何か変だっていうんだ。俺らは話に聞いてただけで群来だ群来だって騒いでたんだけれども、爺様はじっさいに見たことがある。何度も何度も……で、みんな耳を傾けた。

 爺様はいった。

「わしが見た群来は、もっと白かった。こいつはどこか違う、何だか汚らしい気がする」ってな。もっとこう……群来のときの海面の白さは、もっと鮮やかなんだと。でもこれはクリーム色だった。灰色に近い部分さえある。

 へえ、そうなのかと思いながらも、俺にはやっぱり、ちょい疑う気持ちもあった。この白い海面の下に、どんだけ鰊がいるんだってなったらな。ああ、欲目だ。全くの欲目だ。いやあ、そんときは雇われてたから大漁も不漁も関係なかった。ちょっとボーナスに色がつくくらいのもんだったろう。だがな、海の上にいると、ときたまそんな瞬間があるんだ。こいつをどうしても獲らねばなんねえってな。

 そうこうしているうちに、船はもう白い海面の上にいた……というより、白い海面が船の下にすべりこんできていた。相変わらず親方は立ち往生している。どうするどうすると一同、親方の顔を覗きこんでいた。

 そのときだった。バタバタバタってったかと思うと、船の上に飛び込んできやがったんだ、それが。

 いやいやいや……それが、鰊じゃなかったんだ。

 得体のしれん生き物。パッと見たら鰊に似ているんだが、違った。腹の方が灰色っぽい色をしていて、恐らくそれを見て爺様は変だと思ったんだろう。

 いちばん奇妙なのは頭だ。これが鼠そっくりだったんだな……そうそう、鼠。そのへんで見るドブネズミと変わらんかった。ヒゲはどうだったかな……たぶんなかった。ああ……歯は鼠っぽくなかったな。前歯が出てたわけでもない。でも、鋭かった。ありゃ噛まれたら血が出たはずだ。上の方には、耳がふたつついてた。うん、それも鼠そのものだ。つまり、身体は魚で頭は鼠。そんなもんがバラバラバラっと海面を跳ねあがって、船にはいってきたんだ。そんなもんが甲板の上でぴちぴちしているのを見て、俺はぞっとした。親方も爺様も、いや、みんな固まってたな。そんなもん、誰も見たことなかったし、どうしていいか分からん。ただ突っ立ったまんま、ボーっとしてた。

 亀の甲より年の功っていうべさ……やっぱり爺様が初めに正気に戻ったんだ。親方の腕を摑んで、逃げるべって。

 それで帰ることになった。なったんだが、まだどこかみんな、可笑しかったんだな。突然叫びだして、その得体のしれん魚だか鼠だか分からんもんを必死に踏みつぶしているやつもいれば、ぶつぶつひとりごとをいってるもんもいた。

 船はしばらくの間、ずいぶん南寄りに進んでった。別に潮目も風も関係ない。むしろ海じたいは穏やかなもんだった。それで親方が舵取りに、おいどこにいくんだって怒鳴ったら、いやこっちで間違いないっていう。そんなバカなことあるかって殴りつけたら、舵取りが服を脱ぎだしてさ。どういうわけか知らんが、海に飛び込むっていい始める。俺はもちろんそのときのやりとりを見てたんだが、舵取りの目が据わっててな。ぞっとしたよ。

 港に着いたら、みんなぐったり疲れてた。他の船のヤツがからかい半分でいろいろいってきたけれども、いい返す気力もなかったよ。

 甲板には踏みつぶされたソレの死骸があちこちにこびりついていて、掃除してもなかなか落ちんかった。港に帰ったときには早くも腐ったにおいがしてたしな。踏みつぶした方の靴もダメになった。うん、においがなあ……船もそうだったんだが、ションベンみたいな臭さだった。洗剤だの漂白剤だのいろいろやっても全然落ちんかったんで、みんな捨てちまった。船はさすがに捨てられんかったけれども。

 結局これ、何だったんだろうな……今でも思う。

 いや、人に話すのは初めてだ。新種の魚? そうだろうか。

 ああ、あのな……このとき船に乗ってた人間はみんな、まもなく死んでるんだよな。

 爺様が最初にあの世に行った。そりゃ寿命かもしれんて思うが、それでもあのとき六十ちょっとくらいだった。今の俺より若いじゃねえか……亡くなってまもなくの頃は、何も疑わなかった。

 それから親方も舵取りも、俺と同じ時期に船に乗ったやつもバタバタと死んでった。心臓とか肝臓とか脳とか……まあ、死因はいろいろだ。五年もしないうちに死んだ。みんな……そう、みんなだ。

 俺だけが今日まで生き残っている理由は不明だけれども、ひょっとしたらこの話を人にしなかったからだと思うこともある。一方ではそれと同じくらいに、そんなことありゃせん、偶然だとも思う自分もいる。

 ん……? いやいや。この歳まで生きてきたんだからなあ、この話をしたから死んだってことになってもなあ……。

 え? 聞いた方はどうかって?……いやあ、だいじょうぶじゃないか、たぶん。

 少なくとも俺のまわりには、この話を聞いたから死んだなんてやつは、ひとりもいなかった。人間ってな、ハタから見ればくだらん理由であっけなく死んじまうもんなんだ。要するに、死ぬときゃ死ぬってこった。

2019/06/17

青池

百物語 第三夜

青池

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 私の祖先は明石の西にある大久保というところの出です。

 祖先がいたのは大久保のうち、当時は森田村と呼ばれていたところで、明石よりは半里といっていましたから約二キロほどの距離、地図を見ますと山陽本線の西明石駅と大久保駅の中間あたりになります。山陽道ぞいですから、当時としても開けた村だったんじゃないかなと思います。

 この森田村に〈青池〉という池があります。大きい池ではないものの、涸れたことがないといいます。もっとも、この付近にはたくさん池がありますから、水が干上がりにくい地形なのかもしれません。

 東京に出てきたのは私の高祖父で、その祖父の話ですから私から数えれば六代前ということになります。ずいぶん前のことですので話ばかりで名前は伝わっていないのですが、仮に曽祖父の名前をとって栄助としておきましょうか。

 江戸時代中頃の話です。栄助は百姓をしておりました。

 ある日、野良仕事から帰る途中この青池に立ち寄って鍬を洗っていたところ、三十センチほどの蛇を見つけました。この蛇、奇妙なことに蛇とは思えないほどのすばやさで、見つけたつぎの瞬間には栄助の鍬の柄に巻きついていたんです。

 これはちょっと気持ちが悪い。

 栄助は鍬を振って払い落としました。

 まだ鍬の刃先が汚れていたので池の水につけると、いつのまにか蛇がスルスルと這いのぼってきて柄の絡みついてきています。

 栄助はもう一度、鍬を振って蛇を振り落としたのですが……そうです、気づいたときにはもう、蛇が柄に巻きついている。

 すっかり業を煮やしてしまった栄助は再び蛇を振るい落とすと、柄をさかさまに持ち替えて、蛇の頭目がけて打ちおろしました。

 ところが蛇はやっぱりすばしこくて、身をかわして……跳びあがったんです。

 栄助はびっくりして尻餅をついた。

 ポチャンと音がしたので上半身を起こしてこわごわあたりを窺うと、蛇は池に入っておりました。身をくねらせて池の中心の方へと泳いでゆく。

 ええ、もちろん蛇はけっこう泳ぎのうまい生き物ですけれども、あまりにすばやい動き、蛇が跳んだなんて見たことも聞いたこともありません。殺し損ねたのも、手ひどい失敗に思えた。復讐されるんじゃないかと恐れもした。蛇憑きが広く信じられていた時代ですしね。

 何ともいえず嫌な気持ちになって、栄助は急いで家に帰りました。

 その日はカンカン照りの陽気だったそうですが、ちょうど家に着く頃、急に空が真っ暗になり、それとほぼ同時に雷が鳴り……一発落ちてすぐ、ザアーッと雨が降りだしました。車軸を流すような大雨が夕方、突然降りだしたんですから夏のことだったんでしょう。

 栄助が家に駈け込んで、妻がお帰りといったつぎの瞬間に……もう一度、雷が落ちました。

 しかも、家の近くに落ちた。

 栄助も妻も、ひっくり返った。

 しばらくあたりに響きわたっていた轟音がおさまったところで、周辺に異状がないかどうか、栄助は窓から顔を出して外のようすを窺いました。

 すると、家のすぐ裏の松の木の姿が一変しています。青々と茂っていた枝葉は見る影もなく枯木のようになっており、煙は出ているし、ぶすぶすと嫌な音をたててもいる。焦げたにおいもしている。激しい雨が降りつづいておりましたから、火の心配はありませんけれども、そのかわり……そのかわりというのも何ですが、妻が卒倒していました。

 慌てて揺り動かしたり、水を口に含ませたりして息を吹き返したんですけれども、意識が戻ったのは二、三日後だったそうです。

 ところが、どうもそれから栄助との会話が噛み合わない。受け答えが他人行儀だ。話しているうちに、気づいた。記憶を失って、夫婦であることも忘れてしまっているんだと。

 栄助は甲斐甲斐しく世話をしたそうですが、それ以来死ぬまで、とうとう妻が正気に戻ることはなかったそうです。

 もうひとつ、変わったことがありまして、雷が落ちて弱った松の木に、茸が生えるようになったそうです。傘の部分に鱗のような模様があって……そう、蛇のような模様がありまして……全体に濃い赤色。とても食えそうには見えないのに、味はなかなかのものだったそうです。栄助から話を聞いた村の人が、蛇茸と名前をつけて、雷除けなんてこじつけて旅人に売っていたこともあるらしい。

 この松の木は枯木のような姿のまま長い間もっていましたが、幕末から明治の初め頃に、とうとう朽ち果てて、颱風に倒されてしまったそうです。

 この話のへんなところは……この話には、栄助夫婦の子供が出てこないんです。たまたま話の筋に関係なかったから登場しないんでしょうか。この正気を失った妻がその後、何年生きたのかは伝わっておりません。ある時点で死別して、後妻を迎えたのか。離縁したけれども、世話をつづけたのか。私と直接血のつながりのある者が養子に入って、子供をつくったのか。ああ、これはどうでもいいことかもしれませんね、失礼しました。

 血のつながりがどうであろうが、とにかくこんなわけでして……私の家では茸を食ってはならんことになっているんです。

2019/06/16

春祭りを斎行しました

〇みなさん、こんにちは。
 当神社では6月14日と15日の両日、来賓の方を初め、総代・神社委員のご参列のもと春祭りを斎行しました。

 正確には「春季例祭」、明治30年とその翌年に移住した屯田兵が、札幌神社(現・北海道神宮)の例祭日にあわせて、この日にお祭りをおこなっていたのにちなみます。

 当神社の中でも由緒あるお祭りですが、日にちが決まっているため平日になることが多く、例年秋祭りにくらべ、参列者が少ないのが寂しいところ。何とか今後、盛り上げていかねばと考えております。

 式次第は14日が宵宮祭、15日が例祭で、中祭式をもってとりおこないます。

 中祭式というのは、大祭式とちがい神社本庁からの幣帛があがりません。小祭式と異なりご本殿の御扉をひらきます。

 中祭式で身につける装束(服装)は決まっておりまして、斎服といい、お内裏様の着ている服とつくりがほぼいっしょ、白一色。ただしお内裏様の冠とはちがい、うしろの纓(えい・後方の短冊状のもの)がさがったものをかぶります。

 14日朝にはのぼりをたて、晩には提灯にあかりをともしました。

 おおきなお祭りのときは、いつも以上に神様のお力が強くなります。春祭り直後のこの好い機会に、どうぞお参りください。

猿の王

百物語 第二夜

猿の王

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 わしがまだ若くて、猟師をしとった頃の話じゃ。

 うん、まあおいおい話す……やめたわけはな。まず聞いてもらわんとならんのは、猿の話じゃ。

 わしらはよく猿真似だの、エテ公だのいうて莫迦にするがの、ご存知の通り猿というやつ、なかなかの知恵を持っとる。よく見てみると、人間のようなこともする。温泉に行って湯船につかっている先客に声をかけたら猿だった、なんて笑い話もあるよのう。

 昔の難しい本には猿猴と書いてあることもある。そう、エンコウ。エンコウというと河童を指すこともあるが、本来は猿のことじゃ。 

 清国の百科事典、淵鑑類函にこんな記述がある。

爪哇国、山に猴多し。人を畏れず。授くるに果実を以てすれば、すなはちその二大猴先づ至る。土人これを猴王と謂ふ。それ、人食し畢ふれば群猴その余を食す。

 ジャワの山には猿が多く住んでいて人を恐れない。果実を与えると、すぐに猿の群れの中から二匹、大きい猿が現れて寄ってくる。土地の人はこれを猿の王と呼んでいる。人が食べ終わると猿の群れがその余りを食う。

 ――とまあ、こういうわけじゃ。

 この百科事典、清の聖祖・康熙帝のときにできたというから江戸時代の中頃、ずいぶん前じゃのう。人から見れば王のように振る舞う猿がいて、他の猿は猿の王に遠慮しておったと。猿にも人間のような社会があるというのはこんにちの常識じゃが、そんなに昔から知られていたんじゃな。

 ご存じのように本邦にもむろん、猿がおる。

 昔、加賀国(石川県)の山中にいた猿はいつも丸いものを持ち歩いておって、付近の猟師たちは皆、ありゃなんだろうと訝しがっておった。ひとりが鳥銃で撃ったところ……うん、チョウジュウというのは先に弾を込めて撃つ銃じゃ、その鳥銃をぶっ放したら、わけもなくその猿は死んだ。

 近寄って、何を持っているんだろうと丸いものを見てみると、これが木の葉でくるんである。思いのほか大きい。一枚剥いてみても中身は出てこない。つぎを剥ぐ。また木の葉。つぎも、またそのつぎも……といった具合、こりゃあただ木の葉を丸めたもんじゃないのかと、その猟師が思っていたところ、とうとう中身が出てきた。

 それは……なんてこたない、銃の弾丸だったそうじゃ。

 猿にしてみれば珍しいものだったんじゃろうて。だから宝物のようにして、大事に木の葉でつつんで持ち歩いていた。そういうことらしいな。

 わしが猟師をしていた頃の話というのも、これに似ておる。

 わしは当時、会津の黒沢というところに住んでおった。山奥も山奥……峠ひとつ越えれば新潟県、会津若松よりも魚沼の方が近い。そんな場所じゃ。

 うんにゃ、腕の方はたいしたこたない。下手でもなければ上手くもなかったよ。若いときは誰でも短気なんじゃろうが、わしは他の若者より気が短い方でな、獲物を見つけたらすぐにでも撃ちたい。そのうえ、じぶんでは冷静なつもりでも、どこか抜けとる。いつの間にか風上にまわっていたり、込めようとした弾を落としたりもする。じゃによって、ずいぶん獲物を逃がしたもんじゃ。

 さてある日、近くの山に猟に出かけたところ、大きい猿を見つけたんじゃ。清国の辞書どおり……これが猴王、そうそう。猿の王でな、家来の猿をぎょうさん従えていた。じぶんは木のてっぺんにおって、家来はその下の枝にワラワラおった。決して猿の王より上には登らない。食い物をとってきて王に献上しておるもんもおるが、渡したらすぐに下方の枝へと移る。

 この猿がまた偉く大きくてのう、他の猿の二倍ほどにも見える。

 そのうえ、これがまた珍しそうなもんを持っとって、それを手で弄んでいる。加賀におった猿と同様じゃが、丸いもんで、黒く大きい。

 むろん、猿の群れの中でもひときわ目立つわなあ……うん、そうじゃ。こりゃまた加賀の話と同じ。わしはすぐに弾を込めてぶっ放した。

 猿の王は、あっけなく落下した。

 おったのは楓の木で、ばさばさ赤い葉が舞い落ちたのを憶えとる。

 すると猿の王のすぐ下の枝に留まっておった猿が、奇声をあげつつ一気に木を降りてきた……そして、猿の王のもとに駈け寄ったと見るや、すぐさま黒い玉を奪って三、四十メートルも走り去る。

 家来の猿はあらかた逃げてしまったが、憐れよのう、木の葉をとって弾丸の穴をふさごうとしている猿もおれば、血の流れるのを恐れているのか嘆き悲しんでおるのか、聞いたことのない奇妙な声を発しておるもんもいる。

 わしはその間にまた弾を込めて、黒い玉を持っとる猿を撃った。

 これも見事に命中した。

 猿の王のまわりにいた猿も音に驚いて、算を乱して逃げまどった。

 そこでわしは、猿の王が持っとった黒い玉をとうとう手にしたわけじゃ。

 これも葉で何重にもくるまれておって、黒く見えたのは葉が腐っていたものらしい。ご丁寧にも、山葡萄の蔓をぐるぐる巻いとった。

 中を開いてみるとな、短刀じゃった。

 いやいや、そうたいしたもんじゃない。柄は腐っとったし、刃は火箸のように曲がっておった。見てすぐに、とうてい使いものにならんと分かるシロモノじゃった。

 柄を握って刃を裏返したり、元通りにしたりして見ていると、刃の部分がグラグラしているのに気づいた……と、つぎの瞬間にはそう強く握っとらんのに、柄の部分が割れた。いや、割れたというより分解したというか、粉々になったというべきか……。

 刃を指先でつまんで、もう一度検分してみると、その下の方に何やら字が彫ってあった。何の字だろうと、くっついとった木端をこれも指先で取り除けてみた。この部分はあまり錆びとらんかったんじゃが、読めんかった。

 村に帰ってからこれをよく洗い、学のある爺さんに読んでもらった。

 するとその短刀、わしの父御が何十年も前に、山でなくしたもんじゃったとわかった。

 いやいや、違うちがう。正宗や国光なんてそんな立派なもんじゃない。刀工の銘なんかじゃあない。そこに彫ってあったのは、わしの父御の名前だったんじゃな。

 父御はやはり猟師だったんじゃが、熊にやられて死んだ。わしはその頃、二歳にもなっとらんかった。

 わしと違って、腕はよかったらしいよ。

 じゃがのう、仲間とふたりで山に入り、獲物を背負っての帰るさ、熊に襲われたという。

 仲間が気づいたときにはもう、わしの父御は背後から熊に一撃をくらっておった。獣の気配を察知できんかったとは、油断したのか増長しとったのか。猟師をやっとりゃ、いや、どんな仕事でもそうかの、魔が差す瞬間があるんじゃろうなあ。

 熊を殺して父御の短刀を取り返したというんなら、仇討を果たしたことになるがのう。いま話したとおり、現実にはそんなもんじゃなかったわけじゃ。

 じゃあ猿の王は、どうして短刀を手に入れたのか。そりゃあ分からん。

 中で朽ちとったとはいえ、大事にしとったことはいうまでもあるまい。ただ、その宝によって己が身を滅ぼすことになった。そう考えると含蓄ある話ではあろうよ。

 じゃがわしはな、偶然……この下手な鉄砲撃ちのわしが猿の王を撃って、たまたま父御の短刀を手に入れた。この一件で、何だかやりきれない気持ちになった。それで猟師をやめ、東京に出たというわけじゃ。

 理由はもうひとつある。刃の下の方にあった父御の名前の左に、こんな文字も彫ってあったんじゃ。

 コフジ、と。

 うん、そうそう……むろん女の名前じゃ。いや、わしの母御の名前じゃないし、親族にもそんな名前の女はおらん。同じ村にも、コフジなんておらんかった。

 誰なのかは結局分からん。いまとなっては、知りたいとも思わん。どうせろくでもない理由で、女の名前を彫ったんじゃろう。

 ああ、その短刀の所在か……いやいや、手元にはない。東京に出る直前に、山に行って捨ててきたよ。だから、このことを知っているのは、わしだけじゃろうな。当時を知る人はみんな鬼籍に入っとろうて。

 ずいぶん長いこと喋ったから、咽喉がかわいたわい。うん、お茶をおくれ。熱いのがいい……。

2019/06/15

札幌からのお客様

〇おととい札幌から珍しいお客様がお見えでした。

 お客様とは札幌市西区に御鎮座のN神社に奉職されているT権禰宜で、奥さんお子さんといっしょに来社されました。今回、たまたま連休をいただいたのを機に、こちらに旅行する計画をたてられ、その途すがら当神社に立ち寄られたのです。今回は当社に寄られたあと、サロマ湖(画像・wikipediaより)に向かわれるとのことでした。

 私が札幌の神社に奉職しているときには、たまたまお会いする機会があり、おりにふれてさまざま御指導いただいたものです。

 一時間半ほど今の滞在でしたが、話がはずみ、お子さんもかわいく、ご夫婦ともお元気そうで何よりでした。またお立ち寄りいただければと思います。

膝下の幽霊

百物語 第一夜

膝下の幽霊

※怪談です。苦手な方はご注意ください。




 私が小学校三年生のときですから、七、八歳の頃のことです。

 ある冬の日、給食中あたりから急に吹雪になりましてね、集団下校することになったんです。

 午前中は曇り空だったけれども、雪は降っていなかった。今よりも、天気予報がおおざっぱでしたからね。雪の予報だったとしても、どれくらい降るかまでは分からなかったんです、その頃は。先生方だって、そんなに降るとは予想していなかったんでしょう。

 町内会単位に分かれて、下校したんです。一年生から六年生まで、みんないっしょ。

 もちろん、先生に引率されてね。

 田舎町ですから、みんな顔見知りですよ。

 吹雪の中を歩いたこと、ありますか? 雪自体は軽いんですがね、強風時に顔へ吹きつけてくると、かなり痛いんですよ。

 かといって、足元だけ見て歩いていると前方不注意になってね。何かにぶつかる恐れがある。顔をあげると、雪が当たって痛い。自然に、前の子の背中から足をちらちら見ながら、歩いていくことになる。

 先生が先頭で、そのあとはまあ学年順に一年生、最後尾は六年生、二列になって進んでいきました。

 確か当時、通学路ってのが決まっていて、この町内はこのルートって、きっちり決められていたんじゃなかったかな。そのときも通学路として、決まっていたルートを歩いていたんだと思います。

 校門を出て、ちょっと進んだときのことです。

 左手の視界の端に、着物の裾が見えたんです。

 初めはビニール袋か何かと思ったんですが、その下に、明らかに人間の脛も見えたんです。

 すごく細い脛でした。血色が悪くなっていたのか、青筋が浮かんでいましてね。

 冬のさなか、素足を出して外に立っている人なんて、あまりいませんよね。

 まして、吹雪の日でしたから。

 着物の裾や脛から上は、見ていないんですよ。前を歩いている子から遅れちゃいけないので、そんなものがちらっと見えただけで通り過ぎたんです。先生を呼び止めて、訴えもしませんでした。寒いし痛いしで、早く家に帰りたかった。

 一行は、病院の横を通って、跨線橋を通過して、商店街に入っていって、大通とぶつかったところで左折しました。

 そのあたりで、また細い脛を見たんです。

 白い着物の裾が、はたはたと風にひるがえっていました。

 二度目に見たとき気づいたのは、履物をはいていないことでした。

 そして裾からすぐ上、三十センチメートルあたりから上がない、ということでした。

 いわば膝下の幽霊、でしょうかね。

 はいはい、逆ですよね。よく幽霊には足がないなんていいますが……。

 今から思い起こすと変ですが、そのときの私はね、ああ、これは人間じゃないんだ、と妙に納得しただけだったんです。いえ、何でもないときでしたら驚きのあまり、奇声をあげたり、飛びあがったりしたかもしれません。

 吹雪の日で、集団下校……。

 家に帰ったら、もう外に出ることはできません。私は外で遊ぶのが好きな方でしたけれども、つまんなかったかといえば、そうではないのです。

 ふだんは仲のよい友達数人と下校していたのが、先生に引率され、他の学年の子供といっしょに、隊列を組んで下校する。

 こんな非日常的な状況が、かえって楽しかったんです。何ともいえない昂揚感がありましてね。

 そんな心の動きが膝下だけの幽霊を、見せたものかもしれません。

 あなたはどう思われますか? 少なくとも、私にとっては真偽はどうでもよいのです。錯覚だろうが何だろうがね。

 なにせ、この細い脛、美しかったんです。

 溜息をつくほどに、美しかった。

 今、思い出しても身震いするくらいにね。



2019/06/14

北明軒に行ってきました

〇先日、老舗のそば屋さん「北明軒」におじゃまして晩御飯を食べてきました。

 当神社の現在のご社殿が建った昭和27年ころに北明軒さんから奉納された提灯が、いまだに当神社にあります。正確な創業年はわかりませんが、商売をはじめられたのは当然、御奉納よりも前、市内でもかなりの老舗です。

 今回は天ぷらそばに、ごはんを注文。

 ごはんはふつうサイズですが丼できました(事前に確認あり)。ほか画像にあるのは、いかの塩辛、漬物二種、薬味、天かすです。

 塩辛がついてきたのは、ごはんを注文したからかもしれません。

 かんじんのそばは更科、麺は多め、汁は北海道の昔ながらの濃い目のあじわい、でも変な後味が残るようなことはありませんでした。天ぷらの衣はたっぷりめ、海老じたいの味もたいへんよかったです。

 腹ぐあいと相談して、ちょっと多かったかなと思いながら注文したのですが、このときの私にはちょっと足りないくらいでした。成人男性なら、そばと丼物くらいでちょうどよいかもしれません。

 ぜんたいにアットホームな雰囲気で、小上がりがたいへんひろく、テーブルには杖用ホルダーがついていました。

 ネット上の画像を見ると、鍋焼きうどんや、カツ丼がうまそうです。ぜひ、また行きたいおそば屋さんです。



店舗情報

北明軒

北見市美山町南47-20
11:00~19:00 定休日:水曜日
※お出かけの際には念のためお確かめください

百物語 前口上

 まだ真夏までには日数がありますが、納涼企画として一日一話、百日間、怪談をアップして参ります。つまりは「百物語」の形式です。

 百物語の会は江戸時代、さかんに催され、特に武士の間では肝を練るための一法として、はやったそうです。

 百本の蠟燭をともし、怪談を語り終えるたびに一本ずつ消していき、最後の蠟燭が消えたときに奇怪なことが起きる。怪談を話す部屋とは離れたところに、燈台と鏡を用意することもありました。話し終えた人がそこへいき、燈台から糸状になった芯を抜く。もちろんこれは、初めに百本垂らすのです。その後、鏡で自分の顔を見てから帰ってくる。

 江戸時代以降、「百物語」と銘をうつ書物がたくさん刊行されてきました。しかし、ひどいものになると三十話ほどしか載っていないものさえあり、大事をとって、最高でも九十九話で止めるのが慣例となっています。

 私は神職ですので、年齢、性別、職業その他いろいろな立場の人とお話しする機会があります。お話ししていて、ふとしたときに、これから百日間、当ブログにあげるような話を耳にすることもあります。

 ただ、聞いたままだと、話をしていただいた方に迷惑がかかりますすので、設定を変えたり、話のキモの部分を意図的に逆にしたりしています。江戸時代を中心とした随筆に似たものがあれば、それを取り入れもしています。

 したがいまして、会話調ではあっても、聞いたままではありません。

 怪談を聞くことじたい昔から好きでしたから、かなり前に聞いた話もあります。いまでは連絡がとれなくなった人や、亡くなられた人もいますので、こんなに長い間、怖い話を聞いてきたんだなあと改めて思うしだいであります。

 なお、こうしたものを読む際のお約束として、当ブログの百物語中の一連の話を読んで何か奇怪なことが起き、読んだ人に何らかの不利益なことがあっても、私には責任はとれません。

 予防線はいくつか張ってあるので、そのひとつを申しましょう。

 6月15日より公開を始めますので、100日後は当神社の例祭日の期間中になります。大祭式で斎行いたしますし、宵宮祭では大祓詞を奏上します。例祭は当神社でもっとも大きなお祭りですので、神様のお力もいつも以上に強くなっております。

 これはそのまま書いて人に読ませたらまずいだろう、という、いわばキモの部分は職業柄、わかっていますので、気をつけてはいるつもりです。それでも何かありまして、どうしてもお祓いを希望したいという方はご連絡ください。

 ただし、当神社でのご社殿でのお祓いになりますので、あしからずご了承ください。

 恐怖を感じさせるよりも、不思議な話がほとんどです。

 どうぞご覧ください。

 目次はこちら

2019/06/13

日本人みな食えなかったころ


※けっこう長文です。ご注意ください。

『写真週報』は内閣情報局が編集・刊行したグラフ雑誌で、昭和13年(1938)2月16日号から同20年(1945)7月11日号まで刊行されました。価格は10銭でA4版、20ページ。最大20万部を発行といいますので、時代が時代とはいえ、すごいものです(画像はwikipediaより。概要はリンクをたどり、ご覧ください)。

 さいきん調べものをしていて、たまたま昭和20年6月20日発行の第447・448合併号に記載の「最近の食糧事情」を読む機会があり、おどろきました。

 すでに配給制となってひさしく、終戦まぎわですから窮乏生活をおくっていた人も多かったころです。その記事のはじめは、

 食べ物ばかりでなく、なんでも作り出される分量、つまり供給と、使ふ分量即ち需要が平均してゐれば問題は起らないのだが、この均衡が破れ、供給が少く、需要が多くなると、物は足りなく窮屈になるわけである。この道理から、近頃、とみに窮屈になつた主要食糧事情の裏には、きつと需給の不釣合が起つてゐるに違ひないことが分るのである。

 いえ、「需給の不釣合」じゃなくて、供給が圧倒的に足りなかったのではとツッコミをいれたくなります。

 では、その不釣合はどんな風に起つてゐるのであらうか。

 もともと日本のお米の生産高は、平年作でだいたい内地米が六千三百万石から四百万石、朝鮮米が、約二千万石、台湾米が一期、二期を合せて約八百五十万石程度であつた。ところが、これに対し、内地の食生活に必要な分量は七千八百万石ほどなので、その差引不足分約千四、五百万石は、主として朝鮮、台湾から入れ、多い時には朝鮮から約一千万
石、台湾から約四百万石に上るお米を移入して、内地における米の需給の釣合をとつてゐたのである。

 日本本土だけで6,300万石から6,400万石の供給に対し、需要は7,800万石平年作で1,500万石くらい少なく、最初から日本本土だけでは供給しきれていなかったのです。凶作の際は当然、もっと供給量が少なくなります。

 しかるに、支那事変についで大東亜戦争が起るに及び、日本におけるお米の需要は急激に増え、内地では、ひとり鮮米、湾米の応援ばかりでなく、タイ、仏印等の南方からも相当量のお米を輸入しなければならず、特に大東亜戦争の勃発した昭和十六年には、東北地方の冷害等で、内地の米は五千五百万石といふ、平年作よりも八百万石も少い大凶作に見舞はれた上、更に朝鮮からも計画通りの米が入らなかつたので、十七米穀年度(つまり昭和十六年十一月より七年十月末まで)には南方米を大量に輸入しなければならなかつた。

 戦時中に、なぜ需要が増えるのかが書かれていません。農家の働き手がへるので供給が減るように思うのですが、そうでもないようです。そのうえ冷害により大凶作、このころは輸入米を食べるのはふつうだったんですね。なおこの記事の書かれた終戦の年も、米の収穫はあまりよくありませんでした。

 次いで十八年度はどうであつたかといふと、この年度は、十七年の内地米は非常な豊作で、六千六百七十万石といふ、戦時下には珍しい実収高を示したのであつたが、朝鮮が大凶作であつたため、結局、朝鮮からの移入を防ぐことができず、この年度も相当量の南方米を輸入しなければならなかつたのである。

 豊作でも上の需要量を見ると、とうていまかないきれない状況だったようです。さらに朝鮮で大凶作、日本へと人が流れてくるので需要が増え、結局輸入しなければなりませんでした。

 幸ひ、この頃は戦局もわが方に有利に展開してゐたため、これら南方米の輸入にも、さしたる支障が起らなかつたのであるが、これが昨十九年度になると非常に調子が変つた。即ち、この年度は、内地米は約六千三百万石でほゞ平年作、朝鮮、台湾が平年作よりやゝ悪いといつた成績で、内外地を通じての供給力は、まづまづといふところであつたが、戦局の推移は、漸く我に不利となり、このため、こんどは南方からの外国米の輸入が絶望に近いといふ状態に陥つたのであつた。このため政府では、前年まで南方米が引受けてゐた、内地米の不足を補填する役割を満洲の糧穀に振替へることになり、新たに日満を通ずる食糧自給態勢を確立することとなつたのである。即ち、幸ひにも未曾有の豊作に恵まれた満州国から、大豆や高梁等の雑穀を内地に運び、同時に内地自体においても、お米の代りに甘蔗や麦を配給し、その主食化をはかると共に農家の供出を強化し、他方消費の面においても、お酒を造る米の量を減らすとか、その他いろ/\な業務用米を圧縮削減するなどの手を打つて、やうやく需給の釣合を保つたのであつた。

 戦争の激化により南方米の輸入が困難になった。それで満州より雑穀を輸入、日本ではさつまいもや麦の「主食化」をはかり、農家からの供出を強化。酒造につかう米の量を減らさせる。さまざま努力して「需給の釣合を保っ」たとのことです。でも、日本本土のみ見ると最初から供給が少ないわけで、毎年輸入にたより、需要に何とかあわせていただけにすぎません。

 このやうに昨年度は多分に危険を孕みながらも、どうやら切抜けて今年度に入つたのであつたが、それでは今年度はどうかといふと、あつさりした言ひ方かも知れないが、今年度は昨年度よりもなほ一段の困難が加つてゐるといふことが言へるのである。

 即ち、去年の秋の内地産米は東北、北陸地方の水害、西日本のひでり、その他肥料の不足等が大きく響いて、米の実収穫高は五千八百七十万石と、遂に六千万石を割り、また朝鮮も不作で、鮮米の輸入も当てにならず、一方戦局の進展はいよ/\益々我に不利に傾き、このため南方からの外米はおろか、台湾米さへも入る見込みがないといふ状態なので
ある。

 米の供給に関して、お先真っ暗ということを「あつさりした言ひ方」でいわれてしまいました。

 しかも需要はとみると、本土決戦に備へる軍動員、生産力の増強をはかるための産業要員の動員等から、加配を受ける人の数がぐんとふえるので、結論として今後の需要量は減るどころか、逆に昨年度よりぐつとふえることになるのである。

 さて、このやうにみて来ると、今年の食糧事情は、年度の初めから、つまり出発点において既に需給の間に大きな不釣合が起つてゐたことが明らかなのである。

 戦時下では需要がなぜ増えるのか、ここに書いてありました。筆者の頭をかかえているようすが目に浮かびます。

 そこで、この不釣合を何んとかしなければならない……といふので、政府でも打てるだけの手を打つてきたのである。即ち、供給の面においては満洲から昨年度よりも、より以上大量の雑穀を入れると共に、内地においては、麦、甘蔗、馬鈴薯の大増産を企て、一方、農家の供出を促し、最近に至つては、別項の如く、各農村において調整米の造成をはかり、これによつて、供出後の農村自体の需給調整を強化させる等の措置をとつたのである。そして、他方、需要の面においては前年度にも増して、酒造米、その他業務用米の圧縮をはかり、また配給の適正をはかるため、帰順配給量の改訂、幽霊人口の調整、外食券制度の確立(別項参照)等を順次行つてゐるのである。

 こうした政府の努力にもかかわらず、終戦後まもなく食糧危機におちいったのはいうまでもありません。需要が供給を越えた状態のまま多年放置してきたことの、つけがまわってきたのでしょう。供給量を増やすやりくりがつかなくなって、あわててさまざまな政策を講じたように思えてなりません。

 今年度の食糧情勢は、今日迄のところこのやうな推移を辿つてきてゐるのであるが、さて、それならば、端境期に向ふ、今後の情勢はどうか、といふに、それはいよ/\困難、窮屈を覚悟しなければならないのである。

 即ち、今年の難局切抜けにまづ期待をかけられたものは前述のやうに満洲からの雑穀であつたが、敵が沖縄に足場を固めた今日、内地、大陸間の輸送が思ふやうに行かなくなることは改めて述べる迄もない。従つて、今後満洲糧穀を計画通りに入れることは極めて、むづかしく、かうなると、残るところは内地の麦作と、甘蔗、馬鈴薯などであるが、この麦作が、今年は天候等の関係から余り芳しくなく、予定通りの収穫、供出には相当の困難が予想されるのである。また、馬鈴薯、甘蔗は相当の大増産が行はれても、これにはまた、航空燃料の原料といふ、新らしい使命が課せられてゐるので、それが食糧として振り向けられる分量にも自ら限りがあるのである。

 このころ、すでに沖縄には米軍が上陸しております。確かに満州からも、朝鮮、台湾からも平時そのままに輸入することは困難でしょう。かといって日本本土での増産も期待できない……何だか、弱音ばっかり聞かされているようです。

 このやうに考へると、端境期に直面した食糧事情は、非常な困難が重つてゐるわけで、並々の努力では、この困難を克服することはとても出来ないのであるが、さりとて、食糧が戦力の基盤である以上、われ/\はどんなことをしても増産し、食ひ抜いて行かねばならないのである。

 幸ひに、わが国は昔から千五百秋瑞穂国といはれ、国民の土地の利用の仕方、活かし方、努力、工夫次第で、一億一人として飢ゑることは絶対にないのである。

 それならば、この有難い皇土を活かし、この食糧の問題を解決するには、農村の人、生産者はどうすればよいのか、消費者は如何なる心構へをもつて新らしい食生活を打立てねばならないのか、われ/\は今こそ真剣に考へねばならないのである。

 前述のように政府としても努力をつづけてきたが、今年は特に厳しい。食糧不足を克服するのは困難だが、何とかして生産者、消費者ともに努力せよ、とのことです。

 むかしの人はいまよりもずっと米を食べていましたし、いまは米の需要量より供給量の方がずっと多い時代です。このころほど多くの人が食うに困る事態におちいることは考えにくい状況の中、あとだしで何かいうのはかんたんではあります。それでも、そもそも戦時体制に移行するより前、需要と供給がかけはなれる前に農業政策にもっと力を注いでいればよかったのでは、と思います。

2019/06/12

三矢重松先生一年祭祭文(ひらがな版)

〇なぜかはわかりませんが検索をたどって折口信夫作、三矢重松先生の一年祭歌碑除幕式の祝詞を読まれる方が、けっこういらっしゃるようです。三矢重松先生については、こちら(wikipedia)をご参照ください。

 折口先生の祝詞の構成は、こんにちの神職がつくるものとまったく異なります。「型」というものがありません。

 祝詞には先人がくふうを重ね、つくりあげてきた「型」があります。それを守れば、まず大失敗はありません。しかしながら恩師の三矢先生のみたまに呼びかけようとしたとき、折口先生には型など不要だったのでしょう。古代からきた未来人と称される折口先生ですから、豊富な語彙の蓄積があり、縦横に語法をあつかい、三矢先生との師弟愛を知らない人でも、こころをうつものとなっています。

 いま古語で祝詞を書いたとしても、発音は古代とはかけはなれたものとなってしまうのはまちがいないのですが、それでもこれらの祝詞を読むと、やまとことばの美しさを感じることができます。

 そこできょうは一年祭のほうを、漢語はそのままにし、ほかはすべてひらがなにして再掲してみます。ひらがなばかりだと意味をとるのに時間がかかりますが、ここは意味を置いておいて、音の美しさを感じていただければと思います。

〈以下、再掲〉

かくりよは しづけく ありけり さびしきかもと おおきなげき したまひて やがて きまさむものと おもひまつりしを うつしみの ことのしげさ かたときと いひつつも はやも ひととせは きへゆきぬ

みつやしげまつ うしのみことや いましみことの みおもかげは これの大学の くるわのゆきかひに たつとはみれど まさめには おはししひの そびやげる みうしろでをだに みずなりぬる

おおやまと ひだかみのくにの もとつをしへを をぢなく かたくなしき われどちに ねもごろに さづけたまひて つゆうませたまふさまなく あるときは あぎとひせぬこを ははのみことの ひたしつつ なでつつ おふしたつることのごとく あるときは あたきたむる いくさぎみなす めさへ こころさへ いからして しかりこらしたまひけむ

わかきほどの みつとせ よつとせあるは いつとせよ みこころばへに かまけまつりし ことをおもへば あはれ うしのみことの いまさざりしかば われどちいの けふの学問も 思想も おひきたらざましを あはれ うしのみことや よびとには はえおほく みえこし 文学博士の なすら みなにかけて まをせば つゆのひかりなき なべてのものにてありけり

いましみこと 國學のみちに たつる理想を ひたまもりに まもりをへたまひしかば みちのいりたち いとふかく いまししはさらなり 教育家と いふかたよりみるにも まことなき あきびとめくひとのみ おほきよに ひとり たちそそりて みえたまひしを こぞの七月十七日の さよなかに にはかにも よをかへたまひて なきいさちる われどちの すべなきおもひを あはれとやみたまはぬ ゆくへもくれに みちにまどふ ここだの弟子を かなしとや おもひたまはぬ

かくりみの さびしさになれて みねむり のどにしづまりいますを おどろかしまつりて けふし ここにをぎまつらくは おくれたる わがともがらの こひしくに こころどはなり くやしくに したひまつるさまを つばらにも しみみに しわけまさせむとて むかへまつるなりけり ひそかなる よにすみたまへば ほがらに ききわくべくなれる みみのさとり よくききしりたまへとまをす

ことしはじむる としのめぐりの みまつりの けふをはじめにて われどち いきてあらむほどは そのとしどしに おこたることなく こととり まをさむを そのときごとに たちかへり ここによりきたまひて わがともがらの しぬびまつる こころをうけたまへ

あらましごとは ちとせをかねても つくることなけれど うつしよに たへずといへる みみのいたくつからしぬらむ

いで いはどこ やすいに かへりいらせたまへ

あまがけり かむあがらせたまへとまをす

2019/06/11

境内のようす

〇みなさん、こんにちは。

 本日の相内は晴れ、ここ数日晴れたり曇ったりで、あまり日照時間が多くありません。いま神社の近くでは、画像のように麦が青々と生い茂っています。

 道路のすぐ脇まで畑で、こんなふうにたくさん生えているところがあるのです。画像の山と山のあいだには、本沢地区へとつづく道路がはしっています。小さく見える建物は麦作関係の工場です。

 先月末の暑かったころは、夜になるとカエルの合唱がきこえてきたのですが、最近は静かになりました。かわって昼夜をとわず、独特な声でアオバトがないています。参道のほう、アオサギの雛はずいぶん大きくなったようで、こちらも餌をもとめて昼夜とわず鳴いています。

2019/06/10

践祚式とは?

〇5月1日より令和の幕開けとなり、元号については発表より1か月間、さまざまに報道されていましたが、この日には践祚(せんそ)もおこなわれております。御代替わりの諸儀式の概観でご説明したように、践祚は御代替わりの諸儀式のうち、核となるもののひとつです。

 では、践祚とはなんでしょうか。以下ご説明してまいります。


践祚とは何か


「践」はふむ、「祚」は祭祀をおこなうため天子がのぼる階段のことです(もとは「阼」)。「皇位につく祭祀をおこなう階段をふむ」ということですので、「即位」や「登極」とことばの上では同様の意味になります。平安時代につくられた法律の注釈書『令義解』には「天皇の即位、これを践祚と謂(い)ふ。祚は位なり」とあります。

「即位」と「践祚」がこんにちのように、はっきりわけられ恒例となるのは桓武天皇からです。文献にあらわれる最初の例は、文武天皇のご即位の際で、このときは持統天皇より譲位されてから17日後に即位の詔をだされました。


近世までの践祚式


 おおむね奈良時代のあいだは「神祇令」の規定どおり新帝の御前で、天皇の長久を祝い祈る、天つ神の寿詞を中臣氏が奏上し、神璽の鏡・剣を忌部氏が奉じました。つづいて紫宸殿に立ちならぶ群臣が拝賀し、拍手しました。

 平安時代にはいると、天つ神の寿詞の奏上は大嘗祭の翌日、辰日節会(たつのひのせちえ)にうつされました。鏡が賢所に奉安されたのでで、践祚式には剣と玉(璽)などが新帝に奉じられるようになりました。これを剣璽渡御の儀といいます。

 室町時代の一条兼良『代始和抄』には、以下のように剣璽渡御の儀が描かれています。

 新帝のとおり道に、掃部寮の役人がむしろを敷き、最後尾から巻いていく。行列の最初は近衛府の次官ふたりで、御剣と御璽を捧げもち、むしろの上をすすんでいく。そのあとを新帝、ついで関白以下が、つきしたがう。近衛府の次官が階段をのぼって内侍(女官)ふたりに御剣と御璽をわたしたら、内侍はそれぞれ御剣、御璽を奉じて、清涼殿の御寝所に安置する。

 即位礼や大嘗祭は当時の事情によって遅れたり、中絶したりしますが、践祚式はだいたいこのような次第で明治時代までつづきました。


近代の践祚式


 明治時代にはいると各種の法令が整備されました。そのうち皇室典範では「天皇崩ずるときは皇嗣即ち践祚し、祖宗の神器を承く」とさだめられています(第10条)。さらに登極令第1条では、

天皇践祚の時は、即ち掌典長をして賢所に祭典を行はしめ、且つ践祚の旨を皇霊殿・神殿に奉告せしむ

 とさだめ、その付式第1編では詳細に式次第をさだめています。それによると践祚式はこまかくみると、以下のみっつにわけられます。

①賢所の儀、皇霊殿・神殿に奉告の儀
②剣璽渡御の儀
③践祚後朝見の儀

 ①では宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)で掌典長がまず祝詞を、ついで天皇の御名代として御告文(祭文)を奏上します。御告文は初日のみですが、祝詞は三日間奏上されます。

 ②では賢所の儀と同時刻、儀場に男性皇族と高官が立ちならぶところへ新帝が出御し、内大臣が案(机)の上に奉安した剣、璽、御印(御璽・国璽)をご覧になります。

 つづいて③、男女の皇族と高官があらためて参集しているところへ天皇と皇后が出御し、勅語をくだされ、内閣総理大臣が国民を代表し「奉対」の意思を言上します。


昭和天皇の践祚式


『昭和大礼要録』によると、大正天皇は葉山御用邸で御療養中、12月25日未明に崩御されました。

 午前3時すぎ、宮中三殿において掌典長・九条道実が「践祚式をとりおこない、皇位をつがれる」旨の御告文を奏上。

 ほぼ同時刻に葉山御用邸では、儀場の玉座に昭和天皇がつかれ、男性皇族、高官の立ちならぶなか内大臣・牧野伸顕の先導により、大正天皇の御寝所から侍従の手によって捧持された御剣、御璽が玉座の左右に奉安され、昭和天皇がそれをご覧になりました。

 12月28日午前3時、皇居正殿に約400名が参集し、皇位を継承された旨の勅語を発せられ、内閣総理大臣・若槻礼次郎が奉答文を奏上しました。


平成の践祚式(剣璽等承継の儀)


 平成の御代替わりにおいては、践祚式は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」を承け継ぐ剣璽等承継の儀とされ、新天皇の国事行為としておこなわれました。私じしんは践祚式の呼称であるべきと思いますが、以下、剣璽等承継の儀としてご説明します。

 この儀は昭和64年1月7日午前10時、正殿松の間においておこなわれました。天皇以下男性皇族のほか、三権の長と国務大臣の26名が参列。

 昭和天皇のおそばにおかれていた剣璽を侍従が捧持してきて、天皇の前の白木の案(机)に奉安されました。なお、御剣はむかって右、御璽(勾玉)はむかって左、御璽と国璽は一段低い中央の案上でした。天皇が一礼され、御剣、天皇、御璽(勾玉)の順に入御(退出)されました。列の最後に、御璽と国璽がつづきました。この間、9分ほど。

 おなじころ、宮中三殿では奉告の儀がおこなわれました。先にのべたように、賢所では三日間おこなうこととなっておりますので、神殿と皇霊殿は7日のみ、賢所だけは8日と9日にも奉告の儀がありました。

 なお、9日午前11時には即位後朝見の儀がおこなわれ、三権の長はじめ243名が参列しました。


令和の践祚式(剣璽等承継の儀)


 今次の御代替わりに際しての剣璽等承継の儀は、記憶に新しいところです。報道等でご覧になった方もおられるでしょうから、こまかいところははぶきます。

 平成31年4月30日午前10時、宮中三殿において御拝があり(退位礼当日賢所大前の儀、退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀)、同日午後5時、宮中松の間に現在の上皇上皇后両陛下が出御され、退位礼正殿の儀がおこなわれました。参列は294名。

 その後、皇族をはじめ宮内庁長官以下、元職をふくむ職員や皇宮警察本部職員にごあいさつをされ、御所にもどられて侍従長以下侍従職員にごあいさつをされたのは午後7時15分でした。

 翌令和元年5月1日午前10時30分、宮中松の間において剣璽等承継の儀がおこなわれました。参列者は26名。同時刻には宮中三殿において賢所の儀、皇霊殿・神殿に奉告の儀があり、掌典長による御代拝がありました。

 おおむね平成度とかわりませんが、今回は同日の午前11時10分、宮中松の間へ天皇皇后両陛下が出御され、即位後朝見の儀がおこなわれました。参列者は292名でした。

参考文献 皇室事典編集委員会『皇室事典 制度と歴史』、角川ソフィア文庫、平成31年

2019/06/09

境内のようす

〇みなさんこんにちは。本日の北見市相内町はくもり、午後になって天候が回復してきました。つい先日は38℃という信じられない高温だったのが、最近は窓をあけていると、ちょっと寒いくらいです。これで平年並みなのかもしれません。
 
 心配されていた雨量の少なさも、ある程度まとまった雨の降る日や、小雨の日もあって農作物への影響はなく、相内の周辺ではかえって生長がはやいくらいとのことです。

 それで、参道にもたくさん草が侵入してきております。ある程度まとまった時間がとれるたびに抜くのですが、気づいたらいつのまにか大量に繁殖しております。これはだいたい、秋風の吹く九月いっぱいまでつづきます。

 おかげさまで絵入り御朱印は、あいかわらずご好評をいただきまして、まことにありがとうございます。いまの時季、この神社境内にいつ生き物を図案にしておりますので、後日見返したときに思い返していただければと思います。

2019/06/08

御代替わりの諸儀式の概観

 5月1日の践祚、改元から一か月がすぎました。

 天皇の御代替わりに特別な儀式がおこなわれることはよくしられていても、いろいろあって混乱してきます。そこで御代替わりに際しての諸儀式等について、いろいろ調べてみました。

 数多くある儀式等のうち、その中核になるのは、つぎの四種類です。そのほかの諸儀式等は、以下のいずれかにともなうものと考えられます(リンクは当ブログ内の記事)。

践祚式(せんそしき)
②即位式
③大嘗祭
④改元の儀

 前代の天皇が崩御(亡くなられること)か譲位のすぐあとに、剣璽などをうけつぐ①、新帝が高御座につかれ、即位した旨を内外にしめす②、御代の初めの11月、新帝が新穀を神々に供えられ、ともにお食べになる③が中核となるわけです。

 長い日本史上、つぎの天皇となられる方(ふつう皇太子)がきまっていても、必ずしもすぐに践祚がおこなわれたとはかぎらず、きまっていなければ、よけいに日数がかかります。

 それでも「皇位は一日も空しくすべからず」(『日本書紀』の仁徳天皇の詔など)との考えにのっとり、さかのぼって皇位をつがれたものと、みなされています。

 当然ながら、御代替わりは前帝の崩御か、譲位のときとなります。

 今回は光格天皇以来、約200年ぶりの「譲位」ですが、皇極天皇より孝徳天皇に皇位を譲られたのが、史上初の譲位です。

 譲位の際にはかつて、譲国の儀がおこなわれていました。

 まず譲位予定日の三日前に近江(滋賀県)の逢坂関、美濃(岐阜県)の不破関、伊勢(三重県)の鈴鹿関の三関を警護するため固関使(こげんし)が派遣され、人心の動揺にそなえます。

 つぎに譲位される天皇が内裏より仙洞御所(後院)へと遷られます。

 当日はまず、天皇が紫宸殿より出御(おでましになる)され、皇太子が春宮坊を出て、紫宸殿の所定の御座につかれます。親王を初め文武百官の官人は紫宸殿の南庭にならびます。ついで、宣命使が宣命を読みあげ、譲位された旨をしめされました。

2019/06/07

藤井高尚の家が壊されそうです

〇ことしの1月15日、気になるニュースが報道されました。

 藤井高尚の旧邸がとりこわされるかもしれない、というのです。そこでこの日「藤井高尚旧邸を後世に伝える会」が、旧邸の再調査と文化的価値を見直すよう、岡山市の教育委員会に申し入れました。

 その後、続報がないようでどうなったかは、わかりません。同会が現在の所有者である岡山大学に要望書を手渡したのですが、3月の時点で回答はなかったようです。twitterやFacebookでも同会は広報活動していますが、残念ながら低調といわざるをえないようです。

 同邸は岡山市北区吉備津にあり、昭和39年(1964)、岡山大学に寄贈されました。改修ののち、宿舎として研究活動につかわれてきたとのこと。それがいま、建物が傷んできたので改修しようとしたところ数千万円の予算が必要なことから、大学側では譲渡か、更地にして売却するかを検討していました。

 現在、大学は譲渡の方向でうごいているようですが、買い手が見つかるのか、見つかったとしても旧邸を改修する意志がある相手なのか、見通しは暗いようです。

 藤井高尚は明和元年うまれ、天保11年没(1764 - 1840)。吉備津神社の祠官(宮司・社家頭)の家に生をうけて成年後、跡をついでいますが、なんといっても本居宣長の弟子、国学者だったことで有名です。

 伊勢物語の注釈など、筆のたつ人なのですが、中でも独創的な指摘が見受けられるのは『大祓詞後後釈』です。そもそもこの題名、本居宣長の『大祓詞後釈』を踏まえています(ですので「後」の字が多いのではないのです)。本居宣長は賀茂真淵の『祝詞考』を踏まえ『大祓詞後釈』を書いていますから、賀茂真淵から本居宣長へのつながりを、藤井高尚はじゅうぶん意識していたのではないかと思われます。

 ただ、題名とは似ても似つかず、本居宣長がそうだったように、藤井高尚は師の説にむやみにしたがうことはせず、違うと判断したところは躊躇せずに異見をのべています。

 学問上のこのような態度は本居宣長に顕著で、あとにつづく国学者たちはみな、師の説にとらわれることなく、じぶんの信じる説を訴えました。しかし、研究対象を深く読みこみ、論理的に自説を訴える点では、みな本居宣長にはかないませんでした。

 本居宣長以降の国学者の著作を読んでいると、こんなことがよくあります。師の説とは違う自説をのべる。でも、その理由をみてみると論理が飛躍していたり、事実誤認だったり、前提じたいが誤っていたり……。

 藤井高尚はその点、他の国学者よりはずっと本居宣長の域に近かったと思います。

 その藤井高尚の旧邸、上でのべたように、この後どうなるのかはわかりません。残してほしいとは思いますが、先行き不透明。もうちょっと、藤井高尚が知られていられればと残念でなりません。

2019/06/06

豆知識5月号

※長文ご注意。

 インターネット上の某所で一日ひとつ、豆知識を披露していることは、もうこのブログで皆さんにお伝えしていますところ、あきっぽい私が先月欠かすことなくアップできたのを記念して(?)ここにまとめて31日分、ご紹介する次第であります。

 なぜ、こういうものをなぜ書こうと思ったかというと、子供のころによく読んだ学研「〇〇のひみつ」シリーズの影響があります。本をひらくとページの両はし、左右に縦書き一行で「まめちしき」が書かれていて、読むと何だか少しだけ賢くなった気分になれたものです。

 下記の豆知識はそれより長く、ツイッターの制限字数の140字以内におさめるようにしましたが、いまのところツイッターには、あげておりません。「〇〇のひみつ」の「まめちしき」ほど短い字数で同様のことをやろうとすると、ほんとうにワンポイントになりますので、むずかしい。アフォリズムをつくるようなセンスが必要でしょう。学研のライターさん、すごい。

 知っていたとて、どうということのない豆知識かもしれません。しかし、私じしんは、知識どうしが思いもよらぬところでつながり、ハッと気づかされることが数知れずありました。それに、すぐには役に立たないであろう知識をもとめる人の多い社会には余裕があり、余裕がある社会はすすんだ社会だと思っています。前置きが長くなりました。順番に意図したところはありませんので、どこからでも、よろしければご覧ください。

▼神武天皇紀によれば、天孫降臨から数えて神武天皇の頃までは、一七九万二四七〇年ほどたっていたという。伝統的な訓では、これは以下のようになる。ももよろずとせ・あまり・ななそよろずとせ・あまり・ここのよろずとせ・あまり・ふたちとせ・あまり・よおとせ・あまり・ななそとせ。

▼能の演目のひとつ『鉄輪』では、貴船大明神への願かけが成就し、生きながら鬼となった女が、自分を裏切った男をとり殺そうとする。結局、安倍晴明の術によって追い返されてしまうのだが、去り際の女の台詞は「時節を待つべしや、まずこのたびは帰るべし」。またくるということである。

▼憑神の代表格である犬神。愛媛県のある地方の伝承によると、犬神持ちの家では家族の人数と同じだけ犬神がおり、家族が増えれば犬神も増え、家族が減れば犬神も減る。犬神持ちの家は富み栄えるが、すべてが思いどおりになるわけではなく、ときには犬神に噛み殺されることさえあるという。

▼山どうしが争ったという伝説は各地にある。関東では赤城山の神がムカデとなって、同じく大蛇と化した男体山の神と中禅寺湖をめぐって争った。いくつかある伝説のバリエーションのうち、ムカデが勝つ話はない。それでも赤城山のふもとでは、ムカデを神と見てか、殺すことを忌む習慣があった。

▼伊豆の御蔵島といえばツゲで有名である。かつてツゲを伐採するのは男、搬出するのは女の役目となっており、用材をとる御山の八合目以上は女人禁制だったという。これを「ヤマドメ」と称し、禁を犯した者は米一升と銭百文を神社に納め、祓を修することとなっていた。米と銭は「祓つ物」であろう。

▼昔は新年の神を迎えるため、年神棚を設けることが多かった。松江市の一部ではこの年神棚を、大晦日の深夜になってから、人に見られぬように吊るすならわしだった。そのため子供の中には「正月様がくるとまず自分で棚をしつらえてから、そこにおさまるんだ」と思っていた者もあったという。

▼かつては「正月ことば」をつかっていた地方が各所に存在する。八丈島では一月四日までの間、日常語を特別なことばに言い換える習わしであった。例えば、僧侶をクロオロコまたはクロウト、猫はカワブクロ、患うことをイネツミ、月経はイトヒキ、死去はクニガエ、芋頭をマイタマなどといった。

▼六月三十日といえば夏越の大祓の日。この日に海または川へ牛や馬をつれてゆき、一日中遊ばせる地方が各所にあり、牛馬が丈夫になると信じられていた。またこの日を川の神や田畠の神の祭日としていたところが多いのを見ても、農耕と禊祓の接点の日といえる。その点が師走の大祓との違いだろう。

▼天武天皇は草薙剣の祟りによって病の床にふせられ、崩御された。祟りが発覚したのは朱鳥元年六月十日のことで、日本書紀にはっきり書かれている。草薙剣は天智天皇の七年、道行という僧侶に盗まれたのだが、このときも不可思議ないきさつを経て宮中に戻っている。

▼食べても食べても食べ足りない。これを昔、カワキノヤマイといった。山陰地方や四国では、爪を切ったものを火にくべるとこの病になるといった。長野県北安曇郡では、猫の毛を食うとカワキノヤマイにおかされるといったそうだが、そんなものを食う人がいたんだろうか。

▼仮に大祓詞の存在しない世界だったとして、神職養成課程に在籍中の学生が全く同じ文を祝詞作文の時間に提出したとしたら、少なくとも四か所、神明への敬意が払われていないとして、敬語が補われるはずである。なぜ敬語が抜けているか、誰も指摘していないし、その理由も不明である。

▼人が亡くなったとき、枕元に逆さ屏風を立てる風習は平安時代からすでにあったようだ。『源氏物語』や『栄花物語』にそんな描写がある。同じく枕元には燈台を立てるが、光が本人に当たらないようにする。死に顔を見るには、別に蠟燭をともす。近親者の衣をかけ、無言念仏を唱える。

▼日本では物忌の期間中、断食をする例は少ないようである。その数少ない例を、ひとつ。かつて千葉県安房地方には、九月二十四日は三食のうち一食だけしか食べないという風習があった。里見氏が滅びた日だからという。また、この日は麦の播きはじめをする日となっていたが、時季が早いので儀式的にひとつかみほど播いた。

▼厄祓というと節分に付随した行事のようになっているが、正月中に行っていた地方もあった。香川県仲多度郡では氏神詣でをして、その帰りに四辻で紙緒の草履を脱いでそろえる。その緒を小刀で切り、じぶんの年の数だけの銭を添え、投げ捨てる。この間、だれかに会っても口を聞いてはいけなかった。

▼鹿児島県頴娃地方では、かつて正月十五日の夜にその年初の粥を食べていた。世帯主は粥ができると鍋の中央部から一杯すくい、きれいな器に入れて床の間にあげておく。翌朝、粥のかたまり具合を見て、一年の吉凶を占った。いわゆる粥占である。したがって七草粥は粥とはせず、雑炊であった。

▼『古今著聞集』によると仁安六年六月、仁和寺近辺に住む女がこんな夢を見た。賀茂の大明神が現れ、最近の政治が不正だから外国に行くという。翌月上旬、今度は祝の久継という者が同様の夢を見た。その後どうなったのかは不明。当時は平清盛の全盛期だが、久継はこのときまだ生まれていなかったようである。

▼群馬県ではかつて、正月三が日の間に神棚にあげていた飯、汁、あつものを四日に下げ、皆いっしょに煮て家族の食事とした。お供えを下げることをタナサガシと称し、いっしょに煮たものをフクワキと呼んでいた。「棚探し」「福沸」の意味だろう。ちなみに鏡餅はフクデといっていたが、これは「福出」ということだろう。

▼江談抄によると、鹿肉を食べた日には参内ができなかったという。当時は正月三が日の間、餅に雉肉を添えて食っていたが、かつては鹿や猪の肉を添えていた。清涼殿の年中行事の障子には「獣」肉を食った日の参内を不可としており、それで大江匡房もどう折り合いをつければよいか悩んだようである。

▼大神宮棚はいつからあるのだろう。初代・辰見屋久左衞門が拾った金を大神宮棚にあげ、どうぞ落とし主に会わせてくださいと願をかけたところ、無事に会うことができたという話が『江戸禁談』にある。辰巳屋騒動なる事件が元文五年に起きており、これは数代目かの久左衛門であるから、少なくとも二百八十年以上前であるといえる。

▼怪談会で百話を数えると怪異が起きるとよくいわれるが、江戸時代の百物語を題材とする話では、参加者が幸福になったり、富を得たりする結末が意外に多い。武士などは胆力を練るために怪談の会を催したというから、その応報ともいうべきか。なお、近世の書籍は百物語と銘打っていても、百話ないものがほとんどである。

▼五月五日、子供が菖蒲を束にしたもので、地面を叩いて歩く風習があった。新潟県北蒲原郡では、村中をまわって最後は神社の境内で叩きおさめ、社殿のうしろの空地に埋める。もしくは屋根へ投げあげたり、川に流したりし、決して地上に置きっぱなしにはしない。となりの集落の子供と喧嘩して、負けると不作になるともいった。

▼クダンは牛から生まれ、人面牛身の姿。予言をしてすぐに死んでしまう。漢字では人偏に牛で「件」と書く。江戸中期に現れたクダンは豊作と疫病の流行を、先の大戦中は敗戦を予言した。吉凶をともに予言していたのが、凶事しか予言しなくなってしまった。ちなみに、小松左京『くだんのはは』に描かれているクダンは牛面人身である。

▼称徳天皇の大嘗祭のとき、道鏡がどう行動したかははっきりわかっていない。延喜式の規定を見ると、悠紀殿の儀の前に大嘗宮の南で拝礼の儀があって、諸臣はひざまずき、柏手をうつことになっている。道鏡はその一か月前に太政大臣に任じられているが、その場にいたかどうか。拍手をしたかどうか。

▼鼠小僧の墓は各地にあって、岐阜県各務原市もそのひとつ。大正十年頃、墓を移して学校を建てたところ、化学実験室で原因不明の火事が起き、さらに新築してまもなく、また全焼したことがあった。鼠小僧の祟りだとの噂が立ったので、所在不明となっていた墓を現在地に移して、ねんごろに供養したという。

▼仁明天皇の御代、葛野郡庁前(現京都府)のケヤキを伐って太鼓を作ったところ、ときどき遊行してきていた松尾の神が怒り、伐採者多数が死亡、関わった官人も落馬して怪我をした。洪水も起きたため、神威を恐れ太鼓を神社に奉納するとおさまった。後年、この太鼓が古びたので金具が売られたときにも祟りがあったという。

▼平成十九年度、國學院大學神道学専攻科における入試で「天下三戒壇」を答えさせる問題が出た。戒壇は僧尼が戒律を受けるための施設で、受戒すれば正式に僧尼となる。神職資格を得る課程でこのような知識が要求されたのは面白い。ちなみに「三戒壇」をもった寺は、東大寺、筑紫の観世音寺、下野国の薬師寺である。

▼本居宣長『玉勝間』の一節に「これいはゆるムスコビアなり」とある。ムスコビアはつまりモスクワのこと。その後、喜多村筠庭は『喜遊笑覧』に「むすこびあは魯西亜の旧都、莫斯哥(もすこう)是なり」と記述。江戸時代中期にはすでに、ロシア語風と英語風の呼び方の双方が伝わっていたようだ。

▼八重山諸島の漁師は団体で漁をして、とった魚を人に分配するとき、その分け前をタマといい、網主へやるのをアミダマ、船主へやるのをフナダマ、加勢の者へやるのをヒトダマといった。得た魚をサチではなく、タマというのがおもしろい。もっとも古代において、サチは分割できないが、タマは無限に分割できたもののようである。

▼かつて毎月一日には念仏を忌む風習があり、沙石集などに散見できる。同集所載の説話では、元日の祝いの膳を給仕していた女が思わず念仏を唱えたのを、不吉だとして主人が折檻を加える。だが、この女の身体には傷がつかなかった。この女の篤信を哀れんだ阿弥陀仏が身代わりになったのである。

▼戦前の神職資格「学階」。「学正」「一等司業」「二等司業」に分かれているうち大正十年度、二等司業の試験問題。祝詞作文で「北条時宗の霊を祀る詞」。一等司業では同じく「新井君美の功績を称ふる詞」。学正では「藤原百川を祀る詞」。一等司業と学正では傍訓も要求。なぜか日本史の知識も問われていたようだ。

▼律令制下における大嘗祭での潔斎期間は、長く見て一か月。それに対し、出雲国造の代替わりのときには二年もの間、厳重な潔斎をし、二度上京をして神宝を献じ、神賀詞を奏上していた。出雲国造の代替わりの方が、古式をとどめているといえる。日常の政務との兼ね合いから、大嘗祭といえど合理化をまぬかれなかったのだろう。

2019/06/05

明治以前に北海道に建てられた神社

※長文です。ご注意。

 たまにきかれる「明治時代まで、北海道に神社はなかったんでしょう?」という声。でも、渡島半島、いまの函館や江差周辺にはすでに日本人が相当住みついており、そうなると神社もそれなりにあったのではと思われます。

 では実際、明治以前、いまの北海道にはどれくらい神社が存在していたんでしょうか。CD-ROM『北海道神社名鑑』(國學院大學日本文化研究所)から、創建年代順にあげてみましょう。

【ご注意】
〇正確な年代が不明な神社、例えば保延年間(1135-41)ならば保延元年として順位をつけています。「伝」「再建」「遷宮」「遷座」などの付記してあるものについては、その最初の年代を採用しています。
〇所在地については市町村合併につき、可能なかぎり調べましたが、名称がことなっていることがあるかもしれません。
〇同じ社名(稲荷神社、八幡神社など)でまったく同じ年代の記載がありますが、これはコピーのミスではなく、別な神社です。
〇私の調べにより当然私に文責はありますが、内容についての正確性は保証できませんので、あしからずご了承ください。

 まず元禄期まで、52位までを。

1 船魂神社 (函館市・保延年間 1135-41)
2 亀田八幡宮 (函館市・明徳3、元中9年 1392)
3 八幡神社 (函館市・永享元年以前 1429)
4 太田神社 (久遠郡せたな町大成区・嘉吉元年 1443)
5 函館八幡宮 (函館市・文安2年 1445伝)
6 矢不来天満宮 (北斗市・長禄元年 1457)
7 上ノ国八幡宮 (桧山郡上ノ国町・文明5年 1473)
8 熊野神社 (松前郡松前町・永正9年 1512)
9 三嶋神社 (亀田郡七飯町・天文年間 1532-55)
10 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・弘治元年 1555)
11 川上神社 (函館市・永禄5年 1562)
12 徳山大神宮 (松前郡松前町・天正年間 1573-92遷宮)
12 八幡神社 (函館市・天正年間 1573-92)
13 大中山神社 (亀田郡七飯町・天正4年 1576)※天正3年説あり。
14 愛宕神社 (桧山郡上ノ国町・天正10年 1582)
16 稲荷神社 (函館市・慶長4年 1599)
17 八幡神社 (爾志郡乙部町・慶長6年 1601)
18 鳥山神社 (爾志郡乙部町・慶長11年 1606)
19 根崎神社 (二海郡八雲町・慶長12年 1607)
20 八幡神社 (爾志郡乙部町・慶長20年 1615)
20 北山神社 (二海郡八雲町・慶長20年 1615)
20 八幡神社 (二海郡八雲町・慶長20年 1615)
23 諏訪神社 (爾志郡乙部町・元和3年 1617)
24 八幡神社 (爾志郡乙部町・寛永3年 1626)
25 瀧澤神社 (桧山郡上ノ国町・寛永11年 1634)
26 八幡神社 (函館市・正保元年 1644)
26 姥神大神宮 (桧山郡江差町・正保元年 1644)
28 福島大神宮 (松前郡福島町・慶安2年 1649)
29 湯倉神社 (函館市・承応3年 1654)
30 八幡神社 (松前郡福島町・明暦元年 1655)
31 稲荷神社 (函館市・明暦2年 1656)
32 川濯神社 (函館市・寛文4年 1664)
33 渡海神社 (松前郡松前町・寛文5年 1665)
33 八幡神社 (松前郡福島町・寛文5年 1665)
35 十勝神社 (広尾郡広尾町・寛文6年 1666記録有)
35 白符大神宮 (松前郡福島町・寛文6年 1666)
35 瑞石神社 (浦河郡浦河町・寛文6年 1666)
38 白神神社 (松前郡福島町・寛文7年 1667)
38 月崎神社 (松前郡福島町・寛文7年 1667)
40 八幡神社 (函館市・延宝年間 1673-81)
41 荒神神社 (松前郡松前町・天和元年 1681)
42 山上大神宮 (函館市・天和2年 1682遷座)
42 八幡神社 (函館市・天和2年 1682)
44 泊神社 (桧山郡江差町・貞享元年 1684再建)
45 柏森神社 (桧山郡江差町・貞享2年 1685)
46 荒神神社 (松前郡松前町・元禄元年 1688再建)
47 浅間神社 (松前郡松前町・元禄2年 1689)
48 天満神社 (松前郡松前町・元禄3年 1690)
48 稲荷神社 (小樽市・元禄3年 1690)
48 稲荷神社 (小樽市・元禄3年 1690)
48 小樽稲荷神社 (小樽市・元禄3年 1690)
52 赤神神社 (松前郡松前町・元禄5年 1692再建)

 ここまで道南地方の神社がほとんどで、35位の十勝神社(広尾郡広尾町)、瑞石神社(浦河郡浦河町)、48位の稲荷神社、小樽稲荷神社(すべて小樽市、稲荷神社は同名が二社)だけが例外です。

53 久遠神社 (久遠郡せたな町大成区・宝永元年 1704)
54 厳島神社 (増毛郡増毛町・宝永年間 1704-11)
55 大澤神社 (松前郡松前町・宝永7年 1710)
56 三社神社 (松前郡松前町・正徳2年 1712)
57 稲荷神社 (桧山郡江差町・正徳4年 1714)
58 稲荷神社 (松前郡松前町・享保9年 1724)
59 美国神社 (積丹郡積丹町・享保10年 1725)
60 稲荷神社 (古宇郡泊村・享保15年 1730)
61 稲荷神社 (松前郡松前町・元文5年 1740)
62 狩場神社 (松前郡松前町・延享4年 1747)
63 厳島神社 (函館市・宝暦元年 1751)
64 厳島神社 (古宇郡神恵内村・宝暦2年 1752)
65 稲荷神社 (函館市・宝暦3年 1753)
65 海積神社 (函館市・宝暦3年 1753)
67 川濯神社 (函館市・明和元年 1764)
68 稲荷神社 (積丹郡積丹町・明和8年 1771)
69 稲荷神社 (北斗市・安永元年 1772)
69 神明社 (桧山郡厚沢部町・安永元年 1772再建)
69 少彦名神社 (奥尻郡奥尻町・安永元年 1772-81)
69 住三吉神社 (函館市・安永元年 1772-81再建)
69 瀧廼神社 (桧山郡厚沢部町・安永元年 1772)
74 恵比須神社 (小樽市・安永3年 1774)
75 豊足神社 (小樽市・安永9年 1780)
75 鹿部稲荷神社 (茅部郡鹿部町・安永9年 1780)
75 海神社 (函館市・安永9年 1780)
78 厳島神社 (留萌市・天明元年 1781)
79 厳島神社 (稚内市・天明2年 1782以前)
80 厳島神社 (留萌郡小平町・天明6年 1786)
80 留萌神社 (留萌市・天明6年 1786)
80 苫前神社 (苫前郡苫前町・天明6年 1786)
83 恵比須神社 (増毛郡増毛町・天明8年 1788)
84 塩谷神社 (小樽市・寛政2年 1790)
84 稲荷神社 (小樽市・寛政2年 1790)
84 忍路神社 (小樽市・寛政2年 1790)
87 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・寛政3年 1791)
87 厚岸神社 (厚岸郡厚岸町・寛政3年 1791)
89 山神社 (桧山郡上ノ国町・寛政4年 1792)
90 稲荷神社 (北斗市・寛政6年 1794)
90 丸山神社 (松前郡福島町・寛政6年 1794)
92 山神社 (桧山郡上ノ国町・寛政8年 1796)
92 神山稲荷神社 (函館市・寛政8年 1796)
92 斜里神社 (斜里郡斜里町・寛政8 1796)
95 東照宮 (函館市・寛政11年 1799)

 上記のように、寛政年間までですでに100社ほどになります。元禄までで約50社、寛政まででまた約50社です。ここまで、あいかわらず道南地方での創建が多いですが、日本海沿岸へのひろがりも目につきます。

 今の小樽市内にはここまでで5社が成立(74位恵比須神社、75位豊足神社、84位塩谷神社、稲荷神社、忍路神社。元禄までを含めると8社)、さらに北方の日本海沿岸、留萌地方に4社が生まれました(留萌市内に78位の厳島神社、80位留萌神社、苫前郡苫前町に80位苫前神社、増毛郡増毛町に83位恵比須神社)。また、宗谷岬にほど近い場所に79位厳島神社が創建しています。

 ここまで来ると「北海道の神社はみんな明治以降に建ったんでしょ」というのは、とんでもない偏見であります。といいつつ、私もこんなに多いとは思いませんでしたから、人のことはあまりいえません。

 江戸幕府が倒れるまでは70年ほど、ここからいまの北海道、かつての蝦夷地はロシアによる外圧の状況下、松前藩に任せておけないということで幕府の直轄になります(といっても、各藩に兵士を出すよう命じ、警備させただけのような……)。それから松前藩に返還、また直轄と混乱しますけれど、そんな中でも確実に神社の数が増えていきます。

 つづいて享和元年(西暦ではちょうど19世紀最初の年)から天保末年までの56社をご紹介いたします。

96 浦河神社 (浦河郡浦河町・享和元年 1801)
96 泊稲荷神社 (古宇郡泊村・享和元年 1801)
98 厳島神社 (島牧郡島牧村・享和3年 1803)
98 千歳神社 (千歳市・享和3年 1803)
100 厳島神社 (苫前郡羽幌町・文化元年 1804)
100 厳島神社 (苫前郡羽幌町・文化元年 1804)
100 石倉稲荷神社 (函館市・文化年間 1804-18)
100 厳島神社 (天塩郡天塩町・文化年間 1804-18)
100 厳島神社 (虻田郡洞爺湖町・文化元年 1804)
100 大臼山神社 (伊達市・文化元年 1804-18)
106 三石神社 (日高郡新ひだか町・文化3年 1806)
107 網走神社 (網走市・文化9年 1812)
107 函館水天宮 (函館市・文化9年 1812)
107 八幡神社 (爾志郡乙部町・文化9年 1812)
110 襟裳神社 (幌泉郡えりも町・文化12年 1814)
110 住吉神社 (幌泉郡えりも町 ・文化12年 1814)
110 本別稲荷神社 (茅部郡鹿部町・文化12年 1814)
113 大鳥神社 (寿都郡黒松内町・文化13年 1815)
113 熊碓神社 (小樽市・文化13年 1815)
115 稲荷神社 (寿都郡寿都町・文政年間 1818-30)
115 伊都岐島神社 (寿都郡寿都町・文政元年 1818再建)
115 稲荷神社 (苫前郡初山別村・文政年間 1818-30)
118 厳島神社 (枝幸郡枝幸町・文政2年 1819)
118 稲荷神社 (桧山郡厚沢部町・文政2年 1819)
120 丸山神社 (北斗市・文政3年 1820)
121 比遅里神社 (函館市・文政5年 1822再建)
122 稲荷神社 (寿都郡寿都町・文政6年 1823)
122 稲荷神社 (寿都郡寿都町・文政6年 1823)
124 稲荷神社 (古宇郡神恵内村・文政7年 1824)
124 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・文政7年 1824)
126 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保元年 1830再建)
126 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保元年 1830)
126 稲荷神社 (磯谷郡蘭越町・天保元年 1830再建)
126 渚滑神社 (紋別市・天保元年 1830)
130 澳津神社 (奥尻郡奥尻町・天保2年 1831)
130 川濯神社 (桧山郡上ノ国町・天保2年 1831)
130 岬神社 (稚内市・天保2年 1831)
133 厳島神社 (寿都郡寿都町・天保3年 1832)
133 稲荷神社 (久遠郡せたな町・天保3年 1832)
133 稲荷神社 (久遠郡せたな町・天保3年 1832)
136 稲荷神社 (桧山郡上ノ国町・天保4年 1833)
136 島野神社 (岩内郡岩内町・天保4年 1833)
138 朝里神社 (小樽市・天保5年 1834)
138 稲荷神社 (古宇郡泊村・天保5年 1834)
140 稲荷神社 (日高郡新ひだか町・天保7年 1836)
140 愛宕神社 (桧山郡上ノ国町・天保9年 1838)
140 言代主神社 (久遠郡せたな町北桧山区・天保9 1838)
140 事比羅神社 (久遠郡せたな町・天保9 1838)
144 崎守神社 (室蘭市・天保10年 1839)
145 稲荷神社 (島牧郡島牧村・天保11年 1840)
145 歌島神社 (島牧郡島牧村・天保11年 1840)
147 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保12年 1841)
147 稲荷神社 (寿都郡寿都町・天保12年 1841)
149 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・天保13年 1842)
149 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・天保13年 1842)
149 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・天保13年 1842)
149 潮見ケ岡神社 (小樽市・天保13年 1842)

 道南地方はもとより、日本海沿岸部の各所にどんどん創建されているほかに、オホーツク海側(118位厳島神社・枝幸郡枝幸町、126位渚滑神社・紋別市)や太平洋側(110位襟裳神社と住吉神社、149位稲荷神社の三社・いずれも幌泉郡えりも町)にも、どんどん建っています。それにしても稲荷神社の創建が多い。江戸表でハヤリガミだった時期と比較してみると面白いかもしれません。

 ここまで152社。元禄末年までで約50社、それから寛政末年までの約百年でほぼ50社、さらに天保末年までの約50年で、ほぼ50社が創建されています。

 ここから明治維新までは26年。あと何社、創建されるのでしょうか。

153 蘭島神社 (小樽市・弘化元年 1844)
154 稲荷神社 (久遠郡せたな町大成区・弘化2年 1845)
154 恵比須神社 (古宇郡泊村・弘化2年 1845)
156 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・弘化3年 1846)
156 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・弘化3年 1846)
158 恵比須神社 (古平郡古平町・弘化4年 1847)
159 厚田神社 (石狩市厚田区・嘉永元年 1848)
160 稲荷神社 (久遠郡せたな町大成区・嘉永3年 1850)
160 恵比須神社 (苫小牧市・嘉永3年 1850)
160 渋井神社 (古宇郡泊村・嘉永3年 1850)
163 熊野神社 (寿都郡黒松内町・嘉永6年 1853以前)
164 稲荷神社 (北斗市・安政元年 1854)
164 大山祇神社 (函館市・安政元年 1854)
166 八雲神社 (桧山郡厚沢部町・安政2年 1855)
167 篠路神社 (札幌市・安政3年 1856)
167 八幡神社 (石狩市・安政3年 1856)
167 発寒神社 (札幌市・安政3年 1856)
167 三吉神社 (増毛郡増毛町・安政3年 1856)
171 厳島神社 (函館市・安政4年 1857移転)
171 八幡神社 (石狩市・安政4年 1857)
173 稲荷神社 (幌泉郡えりも町・安政6年 1859)
173 水天宮 (小樽市・安政6年 1859)
175 稲荷神社 (久遠郡せたな町・万延元年 1860)
175 稲荷神社 (苫前郡苫前町・万延元年 1860)
175 積丹神社 (積丹郡積丹町・万延元年 1860)
178 舎熊神社 (増毛郡増毛町・文久元年1861)
178 白老八幡神社 (白老郡白老町・文久元年 1861)
178 豊川稲荷神社 (函館市・文久元年 1861)
178 氷川神社 (新冠郡新冠町・文久元年 1861)
182 岩内神社 (岩内郡岩内町・文久2年 1862)
183 稲荷神社 (久遠郡せたな町大成区・慶応元年 1865)
183 琴平神社 (古平郡古平町・慶応元年 1865)

 ようやく現在の札幌市に神社があらわれました(167位篠路神社、発寒神社)。道南地方や日本海沿岸部での創建はあいかわらず多いですが、この時期、なぜかオホーツク海沿岸では創建されておらず、太平洋沿岸もわずかです。

 以上、183位の稲荷神社・琴平神社までの184社が明治以前に創建された神社であります。

 参考にしたCD-ROM『北海道神社名鑑』(國學院大學日本文化研究所)の記述には、約600社が掲載されているとあります。ということは概算で、

184÷600=0.30666…

 約31%が江戸時代まで、明治維新以前に創建されたことになります。

 これを多いと見るか少ないと見るかは人によるでしょう。ここでは比較しませんが、たぶん、たとえばおとなりの青森県よりは少ないような気はします。しかし、私自身は思っていたより多い、という感想です。

付記(元号について)
 元としたデータでは西暦のみが表示されていまして、記事にする際、私が元号を併記しました。そこで、改元された年の場合、より新しい元号の方を採っています旨、ご了承ください。

例えば上記、

175 稲荷神社 (久遠郡せたな町・万延元年 1860)
175 稲荷神社 (苫前郡苫前町・万延元年 1860)
175 積丹神社 (積丹郡積丹町・万延元年 1860)

 とあります。

 安政は7年3月18日、改元されて万延元年となっていますけれど、この3社がこの年の3月18日以前に創建されたかどうかまでは、わかりません(単純に月日の記載がない)。ですから、安政7年3月18日以前に建てられたのかもしれないけれど、一括して万延元年としております。

 蛇足ながら、この年の3月3日に桜田門外の変が起きています。小説などで「万延元年3月3日」と書いていることがありますが、それは間違いであります。正しくは、もちろん「安政7年3月3日」であります。